実用理論事典-道具としての理論(その5)

実用理論事典-道具としての理論(その5)
 国立呉病院附属リハビリテーション学院(廃校になりました。今はありません^^;)
         理学療法士 西尾幸敏
(上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p120-135, 1996) ”
これは当時上田先生から教えられた本などを自分で読んでは気づいたことをメモしたものをまとめたものです。

 早い話、僕の勉強ノートで人前にさらすものではないのでしょうが、上田先生の勧めで他人に読んでもらうことを前提に書き直しました。僕にとっては勉強になりましたが他人は読んでどう思ったのでしょうか?・・・今少し読んでみると未熟で不遜、鼻持ちならないところもあって全てはとても読む気になりません。でもまあ、こんな感じでした・・・というところです。なぜかさらけ出そうという気になったのです^^;


これを機にこれを機に

 

実用理論事典-道具としての理論(その5)
           国立呉病院附属リハビリテーション学院
                       西尾幸敏


はじめに
 「では、具体的にはどうしたらいいのか。あなたは私に何をしろと言いたいのか。ちゃんと教えて下さい」といった内容の手紙をいくつか受けた。「それを一緒に考えていきましょう」と返事をしている。実用理論事典の目的は、具体的な治療手技を提供することではない。ある視点を提供しているだけなのだ。
 これまではある治療手技が臨床から経験的に生まれてきて、それを説明するために理論が使われてきた。またしばしば治療手技の経験が、理論を生み出してきた。ここではむしろ逆のことをやろうというわけだ。ある特定の臨床家の経験を基に理論を展開しようと言うのではない。誰もが理解できる「人の運動システム」の特徴という、普通の経験を基にした理論をまず提出するのである。そこから治療手技を生み出そうと言うわけだ。
 その意味を考えてみよう。
 ある一部の臨床家の経験を基にした理論は、多くの人には理解しにくい。その理論が、臨床家の独特の技術や評価法を通した経験の上に成り立っているからだ。そこでまず治療手技を身につけて、それを通してその理論を理解するしかないわけだ。最初に技術の獲得、研鑽が必要なのである。技術を基にしているので、治療効果のないものは、技術の未熟のせいにされたりもする。
 ところが「人の運動変化の一般的特徴」をまず理解するとどうなるだろう。たとえば「人の運動パターンは安定する性質を持っている。その人らしい歩き方などかそうだ。床面が極端に変化すると、歩行パターンが一時的に変化するが、元の床面に戻ればその人らしいパターンに戻る。環境の一時的な変化は運動の一時的な変化を生み出すだけだ」といったことをまず理解する。そうすると、「自分の行っている訓練は、一時的な変化を生み出しているだけではないか」といった、従来のアプローチに対する疑問が立てられるようになる。あるいは「持続的な変化を起こすためにはどうすればよいのか」という意味のある問いが立てられるようになる。
 また「人は運動パターンを学習しない」という人の運動システムの性質を理解すれば、「訓練でパターンを教える」ということの無意味さを感じるようになるだろう。最初から、理論を判断の道具として使えるわけである。
 だから読み手の一人一人が受け身になって、「何をしたらいいのか、教えて」と言う態度では困るのである。「誰かが、それについては考えている。誰かが答えを出してくれる」という態度をとっている限り、いつまでたっても事態は前進しないのだ。


アフォーダンスaffordance(その7)
 生態学的測定法(その1)で述べた例を挙げておこう。『カエルは前方の植物の茎などのすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと飛び出さない。スライドで壁にさまざまな高さのバーを写し、どの程度の高さまで手を使わずに登れるかを大学生に視覚的に判断させると、被験者の股下の長さ、0.88倍のところがぎりぎりだった。視覚だけを頼りに、手を使わずに座れる椅子の高さは脚長の0.9倍の高さの椅子であり、バーが「くぐれる」か「くぐれない」かをたずねると、脚長の1.07倍のところを境に答えは変わる。』
 これらの話は、アフォーダンスの持つ予測的性格を良く表している。つまり運動は実際に行われる前に、すでに予測的にどのような結末になるのかが行為者には大体わかっているのだ。身体から発している情報と環境からの情報、それらが課題を中心に相互作用を起こすと、その結果が予測的にわかってしまう。もっと端的に言えば「できる」とか「できない」といった「見込み」ができてしまう。
 「その1」で述べた壁と自転車の間を親父が通り抜けることを考えてみよう。最初、その隙間を見たときに、親父は「自転車を倒す」という見通し、すなわち成功裏に通り抜けられないという見通しをたてた。僕が「横向きに歩いたら」というアドバイスをした後で横歩きを少し練習させると、「通れるかもしれん」といった風に見通しは変化した。その見通しの変化は結局運動を生じさせ、その行為を成功裏に終わらせた。この場合、身体の発する情報が変化したのか、親父の思いこみが変化したのか知らないが、いずれにしても環境からの情報との相互作用を通じて、見込みが変化したと考えられる。見込みの変化は、実際に運動を変化させる。
 もう一つの例を挙げてみよう。自動車で大きな交差点を右折することを考えてみる。対向車線から来る直進車の隙間を見つけて右折を行うわけだが、この場合は心身の状態や対向車などに加えて、乗っている車からの情報もそれらと相互作用して一つの見通しが決まってくる。普段スポーツタイプの加速の良い車に乗っていて、たまに軽自動車に乗ったりすると、右折できる見通しの変化を実感できる。「いつも乗っている車なら、今の切れ目で右折できたのに・・・」と思ったりするのである。軽自動車の加速の悪さを実感して、無意識に見込みを変化させているのだ。ところがこの軽自動車にしばらく乗っていると、次第に見込みが変化してきて、ほんの少しの隙間でも「今だ!」といって右折できるようになってくる。最初は、危険性を考慮して少し甘めに見ていた見通しが、軽自動車に慣れるに従って、安全に右折できるぎりぎりの見通しへと変化していく。見込みの変化は運動や行動の変化につながってくる。
 結局アフォーダンスは、環境と心身の関わり方を決定するための「見込み」として考えられる。環境と心身の相互作用の結果、予測的な見込みを生み出す。さらにそれは運動を生じさせ、あらかじめ予見的に決定された結果へと運動を導く。もしアフォーダンスが我々にとって正確なものでなければ、課題を達成するために運動を起こせなかったり、甘い見通しをたてて危険な目にあったりするわけである。
 もう一つ、その見込みは運動の方法に関するものではない。運動の方法は、「自己組織化によって、その場で偶然に決定される」というのは、「運動学習(その3)」で述べた通り。実際の運動の方法(過程)はその場その場で偶然に決定されるので、予測不可能なのだが、その結果はアフォーダンスによってあらかじめわかっているのである*。すなわち、アフォーダンスによって運動は生じ、予測的に結果へと導かれる。ところが運動の方法や過程は、その場その場で自己組織化的に生じる
 たとえば「手に持った鉛筆で丸を描く」課題が与えられたとしよう。あなたにはできますか。そう、できるでしょう。「できる」という結果は分かっているのだ。しかし一回一回の書き方は変化する。腕の使い方や速度はその度に微妙に変化する。方法は一回毎にその場で偶然に組織化されているのだ。結果、書かれる丸は一回毎に変化する。しかしながら、丸を描くことができるという結末は、ほとんどの人にとってはあらかじめわかっているのである。そして日常生活の様々な動作の結末は、我々にはほぼ予測的に分かっているのである。
 それならば「ピーナツを一つ放り投げて、両手で耳を触り、『ヤッホー』と叫び、さらに口で受ける」という課題ならどうか。できないと見込みを立てる人も多いだろう。あるいはできると見込んだ人でも、失敗する確率は日常生活動作に比べるとはるかに高いだろう。新しい運動課題と出会うと、人は「できない」という見込みを立てたり、「できる」と判断したものの失敗する可能性が高くなるものなのである。つまり予測の確実性は低下する。

 *お詫びと訂正
 「運動学習(その3)」の最後では、「その過程と結果を予測することはできないのである。」としていたのだが、それは僕の不注意というか無思慮のせいです。謹んで以下のように訂正させていただきます。
 「・・・・・・・。ただその過程を予測することはできないのである。」


運動変化motor behavior change(その7)
 「アフォーダンスによって運動は生じ、予測的に結果へと導かれる。ところが運動の方法や過程は、その場その場で自己組織化的に生じる」というのが、アフォーダンス(その7)でのまとめである。この辺りプログラム説と全く対照的である。プログラム説では、運動の方法と言うか過程は、あらかじめプログラムによって決定されていると考えられた。運動の方法があらかじめ決定されているということは、環境や心身の変化に対して、運動過程を成功裏に終わらせるためにどのような修正が行われるかと言うことが大きな問題となってくる。
 そこでその役目を担うと説明されたのが、フィードバックシステムである。中枢神経系は感覚情報を常にモニターしていて、変化に対して柔軟に対処しようと言うわけである。ところが感覚フィードバックによって、運動をコントロールするには大きな問題がある。と言うのは大抵の運動は、感覚フィードバックに頼っていたのでは、間に合わなくなってしまうのである。つまり「運動の視覚的なフィードバックには130~260ミリ秒の時間が必要」とされている。数百ミリ秒しか続かないような運動(卓球のスウィングなどに見られる手首の変化など)を130ミリ秒もかかって制御するなど不可能である。従って速い運動ではフィードバックは使われない。(さらに、求心性情報が遮断されても運動の制御は行われる。→運動変化その3を見よ)従ってプログラムによって、あらかじめ運動が決定されていたのでは、運動の修正が難しくなる。
 ところが人の運動変化は大変素早く起きる。しかも知覚情報によってである。佐々木は以下のような例を挙げている。「世界選手権クラスの卓球選手のスマッシュは、スローモーションでなくては見えないくらいの猛スピード(関節の角速度で毎秒約800゜とも言われる)で行われる。急速な運動中に選手は、ラケット面がボールと当たる角度の制御とラケットとボールの接触のタイミングの制御を行っているわけである。実際、ラケット面の多様なブレは接触のごく直前に急速に修正されている。」つまり、中枢性制御によるフィードバックの利用(感覚→神経伝達→処理→制御→出力)では間に合わないのだが、確かに知覚情報を利用しなければ、それらの制御が起きないのも確かなのだ。
 こんな話をしていると一人の友人が、以下のような反論をしてきた。「いや、それは知覚-反応のやり方で可能である。つまり、一流選手というのは長い練習の積み重ねで、相手選手の動きやラケットの動きの多くのパターンを脳内に蓄えているのである。従って、できるだけ早い時期に相手の動きのパターンを分析し、過去のデータと照合し、最善の予測を行うのである。打たれたボールが自分のコートに落ちてからでは間に合わないので、相手が打った時に予測を立て始める。ボールを見ながら打つ寸前にラケットを修正しているように見えるのは、結果的にそうなっているだけで、その修正の命令ははるか前に出されているのである。」しかしラケットのスウィングに関する膨大な量の情報を蓄えて、その中から検索・比較・予測するというやり方は、確かにコンピュータなどで使われている方法だが、我々にとってあまり現実的ではない。脳の容量の問題がまるっきり無視されている。
 たとえば人は各自、様々な形で「ア」というカタカナを書く。しかし大抵どんな形をしていても、「ア」はアと読んでしまう。どうしてか。様々な形の「ア」を学習して、目の前にある「ア」がアと言う形であることを照合するというやり方は、経済的ではない。むしろ「ア」という字は、くせ字であっても「ア」であるという情報を発していて、人は字の形を知覚しているのではなく、その情報をダイレクトに知覚していると考えることができる。そうすればそんな膨大な知識の蓄えも、照合の手間も省けるのである。先ほどのスマッシュの例もそうだが、相手の運動のパターンを知覚して、記憶しているものと検索・比較するのではなく、人の知覚は相手の動きやボールの接近に関するアフォーダンスの情報を直接知覚しているのではないだろうか。
 そして情報は、直ちに運動を導く。佐々木は、それを説明するために「知覚と運動がカップリング」するようなシステムのことを述べている。すなわち知覚のシステムと運動のシステムが共鳴・同調するようなシステムである。つまり知覚と運動は同時に起きているのだ。

 まあ、これ以上の説明は僕には難しい。興味のある人は、是非とも巻末の参考文献を読んで下さい。「タウ」とかいろいろ面白いアイデアがたくさん、実例と共に紹介してある。


自己評価法auto-estimatics(正式名称はまだ決定していない。)
 アフォーダンスによって運動は生じ、予測的に結果へと導かれる。そして予測される結果は、心身から発する情報と環境から得た情報が相互作用を起こした結果を表していることになる。すなわち、その予期する結果を評価することによって、環境をどう捉えて、心身の状態がどうであるかの総合的な結果を理解することができるのではないだろうか。「位相空間phase space(その1)」で説明したように、ある一瞬の力学系についての全情報が集まる一点が、実はアフォーダンスなのである。従ってアフォーダンスを追い続けることによって、その人の運動を理解することができると考えられる。
 ではアフォーダンスをどうやって追い続けることができるのだろうか。まず第一に言えるのは、第三者はアフォーダンスを直接知ることはできない。それは当然である。心身から発する情報などその人固有のものなのである。従ってアフォーダンスを評価するのは、その運動を行うその人自身と言うことになる。この患者自身でおこうな評価を、ここではとりあえず自己評価法auto-estimaticsと呼んでおく。
 ここで価値観の転換が起こる。これまで患者というのは検査・評価される立場であって、検査・評価を行うのはセラピストの仕事であった。ところが自己評価法では、アフォーダンスを追い続けるのは、その患者自身ということになる。患者自身に自己評価を行わせ、私たちセラピストは、その評価を患者と共に検証し問題点を見つけていくのだ。
 具体例を挙げてみよう。脳卒中片麻痺患者が緩い下り坂の前に立つ。この下り坂は、長い板でできていて、角度が変化できるものとする。さて「この坂道を歩けますか」と聞いてみる。下り坂からの情報と心身からの情報の相互作用の結果、「できる」か「できない」かの評価を患者にしてもらう。これは患者が単に坂道に関する情報だけでなく、自分自身の心身、また坂道でどのように自身が振る舞うかという見込みをも同時に評価しているわけだ。「できる」と評価したら、もう少し下り坂の角度をきつくしてみよう。こうして「できる」、「できない」を判断してもらう。こうしてどんどん角度をきつくして「できない」と評価されたときの角度を記録しておく。これを何度か繰り返しておいて、その値をベースラインとする。
 さてその後、これなら何とか「歩ける」と判断される坂道を、実際に下ってもらうことにしよう。ここからがセラピストの仕事となる。「下り坂を歩く」といった課題は、判断を間違えていると非常に危険である。セラピストにとって緊張の時だ。そしてその結果、とても安全に歩けそうになければ、すぐにテストを中止する。この場合、患者は自分の身体能力を過大に評価したか、環境にある危険に関する情報を十分に知覚できなかったのかもしれない。いずれにしても患者さんには、まだまだなんらかの訓練が必要だし、患者さん自身がそのことを十分理解する必要がある。その判断は、患者もセラピストも共に行う必要がある。
 別のケースも考えてみよう。私の親父はどちらかというと、実際にやればできるものを「できん」と判断してしまうことが多い。こういった場合、危険も生じないが運動自体が出てこないものだ。アフォーダンスによって運動を生じさせ、変化を導くのだから。親父は自分自身の身体能力を良く知り、信頼する必要がある。この場合も、何らかの訓練が必要だし、親父自身そのことを良く知る必要がある。
 つまりアフォーダンスが「適正」であれば、人は適応的に運動し予期された結果を達成することができる。さらに課題に伴って危険が生じそうなら、不測の事態に備え、少し余裕を加味して見積もることも、「適正」の範囲に含まれる。
 もし運動に伴う困難さを小さく見積もれば、課題を失敗してしまうばかりか、時には大きな危険に出会う。困難さを大きく見積もれば、運動自体が出現しなくなってしまう。環境や心身を適正に評価し、適正な結果を予測することができるというのは、まず私たちが適応的に運動をする前提条件なのだ。セラピストの仕事は、まず患者のアフォーダンスが適正かどうかを判断することから始めるべきだろう。
 こうして我々は二つの視点から患者の様子を知ることができる。一つは今述べてきたような、アフォーダンスの適正さである。もう一つは患者の歩ける坂道の角度を測定することによって、患者の運動能力を知ることができる。もしその後の評価の中で、アフォーダンスの適正さを伴って、歩けるとする坂道の角度が大きくなればそれだけ運動能力が改善していることになる。


システム理論systems theory(その1)
 -動的システム理論dynamical systems(action) theory
 ここしばらく、「動的システム論とは何か」という質問を受けることがある。また「システム理論とは違った種類の理論か?」などと問われることもある。ホラックによると、「システム理論は動的システム理論dynamic systems(action) theory, 生態学的アプローチecological approach(Gibson), 神経ネットワーク理論neural network theory(Arbib), 課題主導型アプローチtask-oriented approach(Greene), 行動システム理論action systems theory(Gallistel, Reed)などの異なったアイデア」を含むとしている。すなわちシステム理論とは、現在では、非階層的な(あるいは非還元論的な、あるいは非プログラム説的な)様々な運動変化を説明するための理論の一般的総称であると考えてよいと思う。
 その中で「動的システム理論」は、ベルンシュタインの考えと物理学の非平衡現象の原理によって、Kelso、Tuller、Kuglerらによって発達した。最近では、動的パターン理論dynamical pattern theoryへと発展している。運動発達の分野では、乳児の初期歩行の研究で有名なThelenらが有名である。
 動的システム理論では、運動の出現と変化は、ある状況の中で課題を達成する過程において多くのサブシステムの相互作用から生じてくると考える。運動が中枢神経系内であらかじめ決定されたパターンとして現れるというこれまでの考え方とは対照的である。運動のパターンはあらかじめ決まったものではなく、その場その場で偶然に出現すると考えるのだ。運動は中枢神経系だけでは説明できない。運動に関係するサブシステムは、中枢神経系を含む体の様々な構造や物理学的な環境、心理的あるいは社会的な様々な要因である。
 以下は、動的システム理論で主張されている主要なアイデアの簡単な説明である。
①より大きな機能的グループ(単位)で運動をコントロールする。
 人の運動システムは非常にたくさんのサブシステムからできている。つまり自由度が非常に高い。言い換えると、制御するべき要素が非常に多い。脳がいかに働き者とはいえ、脳にそれらすべてを押しつけるのは不可能である。たとえば一つの神経筋単位毎に脳がスイッチをオン・オフしたのではたまらない。そこで、一つのスイッチでより多くの関係した筋繊維がオン・オフできるように、機能的なグループを作って操作したらどうか。ベルンシュタインはこの機能的な単位をシナジー(synergies)と呼んだ。このように体の中のたくさんの神経や筋、関節、骨が一緒に働くように束縛されるようになると、その中で運動パターンを自発的に調整するようになってくる。つまり、運動パターンは自己組織化によって生まれてくる。
②運動は自己組織化によって生まれる。
 人はじっと立っているときにでも、一瞬一瞬が自己組織化の結果といっても良い。重心動揺計は、我々の重心が常に動揺していることを如実に表している。つまり我々が静的に捉えて姿勢と呼んでいるものも、実は継続的な自己組織化の過程である。運動学習や運動発達による運動変化も自己組織化の過程である。
③運動は大体のところで安定する。
 同じ状況、同じ課題で自己組織化された運動は、常に一つであるかと言うとそうではない。自己組織化された運動というのは、多少の揺らぎを持っていて、大体の辺りで安定するという性質を持っている。僕の歩行は僕らしい安定性を持っているが、常にそれが正確に同じ運動を繰り返しているわけではない。
 歩行の位相空間図(実用理論事典その1参照)を見ると、一回一回の周期は二度と同じ軌跡を通らないのだが、それでもある範囲(これを、優先の領域preffered regionと呼ぶ)から外には出ていない。つまり二度と同じ運動は繰り返さないが、それでもある範囲に留まっているという意味では安定している。しかし床面が凸凹に変化して歩きにくくなると、違った領域に軌跡は移動してしまうだろう。それでも床面が元に戻ると、軌跡は基のところに戻る性質を持っている。
 自己組織化の結果として生まれてくる運動は、きちっとして厳密なものではなく、ある幅を持った柔軟性のあるものだ。この柔軟性が、環境の変化に対する適応性を保証するものとなる。
 (ちなみにこの分野の文献を読むと、アトラクターという用語に良く出会うことだろう。これは、位相空間内である範囲に軌跡を引きつけ、留まらせる磁石のような存在として仮定されている。位相空間内では、アトラクターの回りに軌跡が集まるのである。また仮に外乱刺激が加わって、軌跡がずれたとしてもアトラクターによって、基の状態に引き込まれる。)
④新しい運動は、相転移phase shiftとして出現する。
 新しい運動は、様々な構成要素のうちの一つあるいはもっとたくさんの要素の量的な変化の結果と考えられる。たとえば歩行を考えてみよう。筋力や持久力や関節可動域が量的に変化すると、歩行の様子が変化するというわけだ。また自信(量的に変化すると言えるかどうか知らないが)が高まっているときには、人は颯爽と歩くものである。
 一つのパターンから他のパターンへの変化は、線形(連続的)ではなく非線形(非連続)に起こる。つまり突然に変化する。普通の歩行から横歩きに変化するときに、中間的な斜めに歩くという状態は存在しない。赤ちゃんが四つ這いから、二足歩行に移るときにも、猿のように軽く上肢を地面につけながらの中間的な歩行は介在しない。いきなり歩行へと移る。このような非連続の運動変化を相転移と呼ぶ。
 ある状態から他の状態へ運動を変化させるような要素(変数)は、コントロール・パラメータ(control parameter)と呼ばれる。コントロール・パラメータは人の心身には、筋力、関節可動域、持久力、意欲などといった形で存在するかもしれない。あるいは環境(重力、床面の硬さ、気温など)にあるかもしれない。または社会習慣(セラピスト、介護者など)にあるかもしれない。我が家の片麻痺の親父などは、人前に出ると妙に患側の手足の突っ張った歩き方になる。そして小声で聞くのである。「ちょっとは普通に見えるか?」これなどは人前に出ることによって、「世間の目」といったコントロール・パラメータが、量的に増加したために起きた運動変化かもしれない。また、ある変化に関与するコントロール・パラメータは一つまたは複数存在する。
 人の運動はアトラクターによってある領域に引きつけられ、安定しているものだが、コントロール・パラメータの量的な変化によって安定性を失う。古いパターンが不安定になると、コントロール・パラメータの量的な変化が、システムを新しい安定状態へ押しやるというわけだ。相転移の間にはこのように安定の状態から不安定な状態にへと動く。この不安定な状態には、2つの特徴がある。一つは、この時期のアトラクターは多彩で、それ故により簡単に動揺する。また一旦動揺させられると、パターンが安定状態に戻るのにより長い時間がかかるようになる。
⑤コントロール・パラメータは常に変化している。
 これは乳児期の運動発達を見るとよりはっきりしている。初期歩行の消失におけるコントロール・パラメータは、脂肪(下肢重量)の急激な増加である。だが、その後脂肪の急激な増加というパラメータは、その役割を失って、他の多くのコントロール・パラメータが関係してくるようになる。
 私の直感だが、ある安定した状態を不安定にするコントロール・パラメータと新しい状態へ安定させるコントロール・パラメータは違っているような気がする。たとえば上田法は、脳性運動障害者の安定した状態を不安定にさせているのではないだろうか。過緊張というコントロール・パラメータを量的に増加させることによって、子供はあの安定状態に入っているのである。そこで上田法によって、過緊張を減少させることによって子供は再びその安定性を失ってしまう。
 上田法を受けた子供は、それまでに見られなかった運動パターンの変化を示しやすい。また、基のパターンに戻るのにいくらかの時間を要するようになる。つまり不安定状態の二つの特徴を示すのである。さらに新しい安定状態を獲得するためには、別のコントロール・パラメータが必要ではないかと考えている。もし神経筋活動の欠如の代償が過緊張の増加となっているのなら、たとえば筋力強化などの量的変化が必要なのではないかと思うのだ。


運動システムmotor behavior system
 人の運動システムに、環境をも含むというのがシステム理論の一つの特徴である。人の運動は環境とは切っても切れない関係にある。たとえばレモンをかじると酸っぱいが、レモンは単に化学的な物質を持っているに過ぎない。人の舌も化学的な物質に対する受容器を持っているに過ぎない。まず酸っぱいと感じるためには、この両者が出会って相互作用を起こす必要がある。人の運動も同様で、人は物理的な運動能力を持っている。そして、運動を起こす地面を含め環境と出会うことによって初めて、課題や運動の意味が生まれ、運動が生まれる。
 ここでは、「環境」が「人の運動システム」に含まれるということについてもう少し考えてみたい。もっとも環境といっても10キロメートル先の石ころが、また直径0.1ミリメートルの石粒が歩行に影響を与えるわけもない。通常人の運動システムに含まれるのは、せいぜい数百メートルから数ミリ以上の大きさの範囲のものである。運動システムに含まれる環境は、皮膚によって外界と遮られたものではないが、機能的な単位として見れば、運動を生み出すための「自己」として、自己以外のものと分けることができる。
 この自己の境界線はどんどん変化する。車を運転するときには、おそらく数百メートル先の道路状況や他の車、歩行者まで運動を組織化するために自己として含まれるため、自己の境界線はずっと拡大する。人混みの中で、四方八方を人に囲まれてしまうと、境界線は縮小する。この場合半径数メートル以内の人々と足下のわずかな床面が運動を組織化するために使われる。ところが赤信号などで立ち止まり人混みが途切れ、目の前に広い空間が広がると、自己は一瞬に目の前の空間を取り込んで一気に広がる。運動や行動を生み出す自己の境界線は、一瞬一瞬に変化しているのだ。


アフォーダンスaffordance(その8)
 前項の中で出てきたレモンとの出会いの話なのだが、最初の出会いは刺激と反応である。レモンに含まれる化学物質と受容器の出会いであった。しかし二度目からは、眼で見ただけで酸っぱさを感じるようになるだろう。レモンは直接に舌を刺激しているわけではない。レモンの発する情報と人の知覚システム・記憶の相互作用から「酸っぱい」という現象が生まれるようになる。
 つまり人の感覚システムは刺激を感受するが、人の知覚システムは情報を感受する。二度目からはレモンは舌を刺激していない。それでも「酸っぱい」とアフォードする。つまりレモンからのアフォーダンスを知覚しているわけだ。何が言いたいのかというと、運動変化(その7)でも述べたが、人の知覚システムは環境から「情報」を得る。知覚システムは従来、視覚・聴覚・触覚・・・などと各様式に分けて考えられてきた。そして感覚刺激を中枢に伝えて、中枢で比較・判断などを行うと考えられた。
 ギブソニアンの主張は、感覚の様式は分けられるものではなく、全体として情報を知覚すると言うものだ。感覚刺激を取り込んで、それを分析・・・などとしないわけである。それはこれまでにない新しい理解の仕方である。興味のある人は巻末の参考文献を。


脳性運動障害cerebral motor disability(その4)
 これまでは、脳性運動障害の第一原因は「筋力低下」と言っていたのだが、稲荷山医療福祉センターの三村さんから反論があった。「そんな言い方は変ではないか。一方で全体論を言いながら、他方で筋力低下のみに原因を求める(還元する)なんて・・・・(以下省略)」というわけだ。いや、ごもっとも。さんざん還元主義的なアプローチをこけおろしておいて今さら恥ずかしいのだが、やっぱりある物事の因果関係をはっきりさせるといったものに強く魅力を感じてしまうのだ。前に小林さんからも注意を受けたのだが、直線的因果関係論といった見方は、やはりそれなりに魅力なのだ。
 そう言われれば、「コントロール・パラメータ」などという言い方も、全体論の中の還元論的な視点なのだろうか。「全ての現象に、コントロール・パラメータが存在する」という風に考えて、その要素を探るなら、これまでの還元論的なアプローチとはあまり変わらないように見える。違いといえば、常にいつでも一つの要素(中枢神経系)だけに責任を負わせるのではなくて、時と場合によって、筋力低下や過緊張や認知、その他の要素のどれかがもっとも責任を負うわけで、責任者が固定されていないということだろう。つまり一つのコントロール・パラメータだけがある結果との因果関係を示すのではないといったところか。いや、この説明ではなんだか不足しているようだか、今は思いつかないのでこれだけにしておく。
 「理論は道具であり、道具は実際に使ってみて使い心地を試す」というのが私の持論であるから、以下ではコントロール・パラメータのアイデアを実際に使ってみようと思う。

「犯人は誰だ?-コントロール・パラメータ編」
 この夏、我が家の最大の心配事の一つは、親父が寝たきりになってしまうのではないだろうかということだった。6月中頃から、徐々に歩かなくなってしまった。食事時になっても、なかなか食堂にやってこない。そのうち「おーい、おーい」などと呼ぶのである。急いで行ってみると、「足が前に出んのんじゃ。連れてってくれ」といって情けなさそうな顔をして立っているのである。これまでにもこんなことは何度もあった。大抵は励ましたり、怒ったり、あるいはほったらかしておくとまた歩き始めていた。それで今回もそうしたのだが、一ヶ月近くもこれが続くとさすがに心配になってきた。いよいよ親父も寝たきりに・・・・。
 本人に話を聞いたところ、「足が前に出ん」と言う答えが返ってきた。「何で足が前に出んのん?」と聞くと、「暑いけん、汗が出て足が板に引っ付いて足が出んのじゃ」と答える。僕は「なるほど、足の裏の粘着性の増加が、歩行困難のコントロール・パラメータか」などと感心したものだ。のんきなものである。早速、厚手の靴下を履かせて、滑りを良くしたのだが、一向に足は前に出ない。本人は立ち上がったまま、「おかしいのう、足が出んのう」を繰り返すばかりである。

 そんなある夜、ふと思いついて上田法(N法とS-P法)をやってみた。ちょっとでも動かすと、「痛い、やめー」と言って大騒ぎをするのだが、なだめつつ行う。結果、下肢の関節可動域は改善した。翌日は「おかげで痛うて、動けん」と言うことだったが、その次の日には、どうしたことか「足が動くわい」ということで、久しぶりに良く歩いた。良く歩く状態は3日間にわたって続くが、その後また低下した。
 親父を患側下肢で立たせ、後ろから骨盤を両手でつかみ、床に向かって押しつける。そうすると相当の力を加えても、ちゃんと立っていられるのである。つまり支持性は十分なのだ。しかしその支持性は、筋肉の硬さを高めて可動域を犠牲にして得られたものらしい。可動域が低下しているために、足が前に出ないらしい。そこで上田法によって筋の硬さが低下すると、足を振り出すために必要な可動域が確保される。それならば、関節可動域を低下させている過緊張がコントロール・パラメータということになる。
 ところがその後、上田法を何度も行うのだが、また歩かなくなってしまった。可動域はそれ以来維持、というよりはむしろ改善しているのだ。本人はあいかわらず、「足の裏が床に吸い付いて、歩けない」と主張する。それにもまして、この6月くらいに急に歩かなくなったという点をどう説明するか。

 ここ半年ばかり、それまでに比べて歩行量が少なくなっている。まず家の外に出なくなった。冬は寒いと言い、夏は暑いと言っては出ないのだ。家の中の廊下だけを歩くようになった。それ以前は脅したり、怒ったりすると仕方なく外を歩いていたのだが、その頃より何を言っても「今は本当にきつうて、体が動かんのじゃ。調子がようなったらまた歩くわい」と言って歩こうとしなくなった。おふくろが無理に歩かせようとすると、おふくろを罵倒し、柱にしがみつき声を限りに「やめー、殺す気か」などと、穏やかならぬことを叫ぶ。親父はもともと甘えん坊の自己中心的な性格の持ち主なのだ。それでおふくろは、親父が「横着をして、歩くのをさぼった」のが原因であると決めつけた。
 おふくろに言わせればそうなのだが、僕から見るとそれは違った風に見える。人は課題達成のためにいくつか方法があるときは、もっとも効率的なあるいはお気に入りの方法で達成しようとする。それで親父は、お茶を飲みに行く代わりに「お茶!」と言う。おふくろが「自分で歩いてきんさい」と言うと、「今はちょっと、ほんとに辛いんじゃ。今度見とってみい。また前のように歩くけん。のう、今は持ってきてくれーや。ほんとにすまんのう。うっ、ううー」と言葉巧みに、おふくろの情を揺すぶるのである。おふくろは僕が側にいれば、僕に遠慮するのだろう、「なによんねー、ちゃんと歩いてきんさい」などと言っているが、僕がいなければ、お茶を持ってきてしまうのだ。
 もともと人前でひどく罵倒されても、文句を返しながらそれなりにつくすといったタイプの女なのだ。逆に親父はわがままで、弱くて、まあ可愛いところもあるのだが、おふくろもよく我慢してきたなあと感心する。が、感心はするのだが、親父の世話を焼きすぎるという点では感心しない。
 何かとよく世話を焼くのであるから、親父はますます効率的な課題達成方法を身につけつつある。つまり「お茶!」と叫ぶのである。しかしこれは世間一般の図式でもある。世の中の年取ったお父さんは、健康でもよくそうやって課題を達成する。親父は単に以前の生活慣習に戻りつつあるというのだろうか。

 と書いているうちに、なんだかよくわからなくなってきた。親父が甘え、おふくろが世話をするという関係の中で、次第次第に動けなくなっていると言いたいのか。実は僕にはコントロール・パラメータそのものの意味が未だによくわからないのである。初期歩行消失のコントロール・パラメータが、下肢重量の増加というのは有名な話だが、そんな風にうまく説明できるのは、ある限られた条件の中だけでのことではあるまいか。
 確かに切り取られた時間の中で見ると、親父の過緊張はコントロール・パラメータと言えるかもしれない。ところがもっと大きな文脈性の中では、たとえば親父とおふくろの関係などを見ると、過緊張や筋力増加などはごく一時的な局所的な運動変化に関係しているだけではあるまいか、などと思うのだ。つまり人は様々な文脈性の中に同時に存在するので、それぞれの文脈毎に様々なコントロール・パラメータを持っていると言える。つまりどの文脈性で見るかということによって、コントロール・パラメータというのは変わってしまう。それで、「さあどうしよう」ということになってしまうのだ。


終わりに
 あまりうまく言えないのだが、この「実用理論事典は、もう終わりだな」と思うのだ。初期の目的、「アフォーダンスを紹介する」は今回で一区切りついたと思う。それで次回を最後にしようと思う。いくつかの疑問は提出したきりになってしまうかもしれない。「続く」と書いたものも、もうそれっきりだ。「こんなんでいいんだろうか」と思わないでもないが、僕にはもう続けるのが難しいのだ。

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 〒737
 広島県呉市青山町3-1
 国立呉病院附属リハビリテーション学院
 西尾 幸敏

今回の引用文献等
<アフォーダンス その7>
・アフォーダンスは予測的情報
→佐々木正人: 運動制御への生態学的アプローチ. (川人光男他編) 岩波講座 認知科学4 運動.岩波書店.

<運動変化 その7>
・「運動の視覚的なフィードバックには130~260ミリ秒の時間が必要」
・「世界選手権クラスの卓球選手のスマッシュは、・・・・」
・「知覚と運動がカップリング」
<アフォーダンス その8>
・知覚システムの新しい視点
共に
→佐々木正人: アフォーダンス-新しい認知の理論. 岩波科学ライブラリー12,岩波書店, 1994.
→佐々木正人: 運動制御への生態学的アプローチ. (川人光男他編) 岩波講座 認知科学4 運動.岩波書店.

<システム理論 その1>
・システム理論について
→Horak FB: Assumptions Underlying Mo-tor Control for Neurologic
Rehabilitation. (ed. by Lister MJ): Contemporary Ma-nagement of Motor
Control Problems.Proceedings of the ⅡSTEP Conference. FOUNDATION
FOR PHYSICAL THERAPY,Virginia, 1991, pp 11-27.
・動的システム理論について
→Heriza C: Motor development:traditional and contemporary theories. (ed. by Lister MJ): Contemporary Management of Motor Control Problems. Proceedings of the ⅡSTEP Conference. FOUNDATION FOR PHYSICAL
THERAPY, Virginia, 1991, pp 99-126.