痙性裁判(その2)

”痙性裁判(上田法会誌, Vol.9 No.1, p25-40, 1997) ”
 今回読んでみると、残念ながら浅慮のアイデアが目につき、書き直しの衝動も湧いています。
 
 でも、まあ、自分の16年前はこうだったのだ・・ということにも妙に納得するところです。そういえばあの頃の僕の状況から、このアイデアはこう使ったんだ・・などとしみじみ思い返されます。
 間違っているから、浅慮であるからと恥ずかしがり、後悔するよりも、「これでいいのだ!」と妙な納得をしています。
 それでは、始めます。  

痙性裁判
    国立呉病院附属リハビリテーション学院(←1997年当時です) 西尾幸敏

<検事側発言その3>
 しかし伸張反射の亢進はどうなるのか。現にそういった患者の多くで伸張反射の亢進が見られるではないか。Corcosらは、中枢神経系障害患者の足底屈筋の過剰な伸張反射によって背屈筋の素早い運動が消失するどころか、逆戻りさえ見られることを示している。過剰な伸張反射つまり痙性によってだ。また先程述べたように痙性が異常な同時収縮を引き起こして運動を妨害するという報告もある。たとえばMcLellanらは、ハムストリングスと四頭筋に異常な同時収縮が出現し、膝の速い屈曲-伸展活動を妨げていることを報告している。

<弁護側発言その3>
 Campbellが指摘するように、タイミングが悪ければ運動を妨害するかもしれないが、基本的に伸張反射活動によって生まれる筋力は大変弱い。また大事なのは、背臥位で検査された伸張反射は、立位や歩行時に随意的に付加された伸張による筋活動とは大きく違うということだ。Dietzらの実験では、背臥位で伸張反射の亢進の見られる脳性麻痺児が尖足歩行をしている間には、下腿三頭筋の筋電図活動が張力に比して増加していないことが示されている。
 また検事殿が上に挙げられた研究は、実際の機能的動作の中で行われたものではない。背臥位で行う反射検査と実際の動作との関係は薄いのである。機能的動作の中で伸張反射がどのように振る舞うかを知るためには、まだまだ多くの研究が必要である。

<検事側発言その4>
 筋力低下とみなしているものには、過剰な相反抑制による筋の不活性化があるではないか。

<弁護側発言その4>
 過剰な相反抑制というのも怪しい。これまで尖足に対する低周波刺激は、前脛骨筋に対して行われていた。つまり下腿三頭筋の強い痙性が出現し、過剰な相反抑制によって前脛骨筋の働きが抑制されていると考えられたから、前脛骨筋を活性化しようとしたわけだ。ところがCarmickは、前脛骨筋に低周波刺激を加えても効果が得られず、逆に下腿三頭筋だけに低周波刺激を加えたところ尖足が著しく改善したと報告している。つまり下腿三頭筋の活性化こそが、尖足改善のポイントであると彼女は述べている。
 もっと現実に目を向けるべきだ。こうしてみると、痙性の原因は多様なのだと考えられる。私たちが臨床で見ている痙性は、粘弾性の変化によるものかもしれないし、伸張反射の亢進が関係しているのかもしれない。あるいは異常な同時収縮の状態を見ているのかもしれない。
 TardieuはR比を使って、患者を分類した。R比というのは自動運動中に見られる筋の機械的性質(粘弾性)の役割比率を表すもので、Rが小さいと神経系による筋単位の活性化による張力が大きくなり、粘弾性の果たす役割は小さくなる。正常人で、つま先歩行をさせると踵-爪先歩行よりも筋力が必要となるので、R比は小さくなる。尖足歩行をする脳性麻痺児では、二つのグループに分けられ、1つは筋活動によって尖足を示す。もう1つは筋活動を示さないで尖足を示すグループである。見た目には同じような尖足が、異なった原因からなっているのである。
 dorsal rhizotomyなどの手術や上田法でもそうだが、効果の出る例もあれば効果の出ない例もある。見た目には同じように見える痙性も、いくつかの異なった原因によって生まれてくるのだから、アプローチの対象にも適・不適があるのだろう。つまり痙性は様々な構成要素の相互作用の結果というわけである。
 次に機能的動作における痙性の持つ意味を考えてみよう。DietzとBergerは、脳性運動障害者では、神経的な運動単位活性化のメカニズムが低下してしまうので、代償的に粘弾性によって張力を生み出すように変化すると提案している。彼らは正常人でも幾分か、この粘弾性による張力を利用していると述べている。脳性運動障害者ではむしろ粘弾性による張力発生の割合が高くなるのだ。結果としてこれらの患者では、素早い運動を犠牲にして関節の安定性を獲得する。
 こうして痙性は多様な意味を持つことがわかる。ある患者は下肢伸筋の痙性を利用して立ち、歩くことができる。片麻痺患者は、上肢屈筋の痙性によって患側上肢を体幹に近づけ重心を中心に集め、ぶれをなくし、また患肢が何かに引っかかるような危険を回避することができる。それを正常運動の出現を妨害するなどと単純に言い切ることはできない。
 脳性運動障害の初期には、痙性はあまり見られない。どちらかというと重力中で活動するという過程の中で、徐々に伸張反射や筋の硬さが発展してくる。つまり重力に逆らって活動するための適応過程を見ていると言えないだろうか。脳傷害の結果筋力の発生に問題が生じる。しかし人は残った能力を使って少しでも現実に適応しようとする。その過程で二次的に出現したものが痙性ではないだろうか。

<検事側発言その5>
 機能的な意味があるのはわかるが、それはあくまで代償的な方法にすぎない。それらは異常なやり方である。正常に近い、つまりもっと優れた方法でそれを実現するべきで、痙性に頼ったやり方を身につけることには反対である。

<弁護側発言その5>
 正常とか異常とか言った視点はあまり意味がない。人は常に課題達成のための最良の方法を見つけるものである。障害のない人にとっての最良のやり方は、障害のある人にとっての最良のやり方とは違っていて当然である。Jengらは、脳性麻痺特有のパターンで歩いている子供のエネルギー消費量を測った。結果自然に身につけた歩行パターンの方が、訓練によって正常パターンに近づいた歩行よりも、エネルギー消費量が少ないことがわかった。Engsbergらは以下のように結論している。膝下切断の子供にとって、彼らの代償的な運動パターンは、正常歩行を真似するよりも効率的である。人工装具の動きは自然の下肢の動きとは違うからである。筋ジストロフィー症の子供が、独特の歩行パターンを使っても止めるセラピストは少ない。止めてしまうと独立した機能的動作を奪ってしまうことになるからだ。
 それなのになぜ脳性運動障害者だけは、彼ら独自の方法を使うことを非難されるのだろうか。たとえば痙性によって体重支持を行う方法をなぜ、止めてしまうのか?なぜ脳性麻痺の子供達だけが、代償的な方法ではなく、「正常な」方法で課題を達成するように求められるのか?
 一つの大きな理由は、それらのパターンを使うことによって、変形が強まるなどの二次的な合併症であると言われる。しかしながら尖足歩行をしている片麻痺患者さんで、やがて尖足が強まり体重支持ができなくなり、歩行不能となった例を私は知らない。お年寄りの片麻痺患者さんが歩行不能になるのは、大抵他の理由であることが多い。ある年齢で歩行不能になった両麻痺患者さんでも、尖足が強くなりすぎることが原因とは断定できない。筋力の弱い人には、体重増加の方が致命的であるかもしれないからだ。結局二次的な合併症が、運動機能を低下させるという明らかな証拠はほとんどないのではないか?
 人の運動は課題を達成するために生じるのである。しかももっとも効率的な方法、あるいは好ましい方法で課題を達成するように生じる。課題達成のために、より難しい方法をわざわざ選択するとは考えられない。むしろ脳性運動障害者では、課題達成のための選択肢が非常に少なくなっている。私たちから見ると、もっと良い方法がと思っても、患者さんの選択肢の中に入っていないのかもしれない。

その3に続く・・