治療技術と治療方略(西尾幸敏)2014年7月23日-2014年12月11日

 

治療技術と治療方略 2014/7/23
 治療技術に関するエピソードを一つ。
 膝OAの痛みに対して様々な徒手手技がある。どの手技にもカリスマ的と言われる施術者がいて、彼らの治療を受けると直ちに痛みは消える。効果はとてもドラマティックだ。ただその痛みは必ずしも消えっぱなしと言うわけではなく、施術後には痛みが消えるものの、しばらくすると再び痛みが出現することも多い。そしてクライエントは繰り返しそのカリスマ施術者を尋ねるという。もちろん治療を受けることができ、それによって活き活きとした生活を送れるとするとそれはすばらしいことだ。
 こんどは治療方略に関するエピソードを一つ
 膝OAの痛みに対して、痛みを起こさない運動スキルを身につけるという治療方略がある。特別の技術は必要ないが、痛みを起こさない運動スキルを獲得するための知識と工夫は必要だ。また効果が出るまでには少々時間がかかる。とはいえ、一度痛みが軽くなったり消えたりすると、その身につけた運動習慣が続く限り、効果は比較的長く続く。クライエントはセラピストから離れていくわけだが、それはそれですばらしいことだ。
 もちろん治療技術と治療方略、どちらも兼ね備えたセラピストが良いのだろう。だが世の中のセラピストはどちらかというと「治療技術志向のみ」の方が多いように感じる。  実際治療技術のデモンストレーションを見せられるとドラマチックな効果に心奪われてしまう。また治療方略に関する知識は運動療法などの教科書を探しても非常に貧弱で、魅力的とは言えない、というか極めて陳腐で平凡なものが多い。これでは「治療技術志向のみ」の方が増えるのも無理がない・・・・
 このシリーズでは「治療技術と治療方略」に関するあれこれを考えてみたいと思っている。(続く・・・予定^^;かな?)

治療技術と治療方略(その2) 2014/8/6
 しばらくは治療方略について考えてみよう。
 僕が思うに、治療方略の基本の枠組みは3つある。
 一つは「原因追及型」方略だ。これはリハビリのみならず医療全般、科学全般あるいは社会全般でよく見られる考え方の枠組みだ。
 たとえば真冬に高熱を発し、四肢疼痛・頭痛・全身倦怠・食欲不振などの症状が見られる。そこでインフルエンザウィルスを原因として疑い、その検査を行う。そして「ほーら、インフルエンザウィルスが発見された!」となると、これらの症状群は、インフルエンザウィルスの生体内での活動に還元される。つまりインフルエンザウィルスが原因で、その結果、高熱などのその他の現象が見られるとする。いわゆる因果の関係を想定しているのだ。そしてその問題解決のために抗ウイルス薬が投与される。
 裁判などで因果関係が争点となるのも、この因果の関係があるかどうかで判決が白か黒かが決定する。もちろんこの因果の関係によって原因が分かるのだから、問題解決はこの原因を何とかしよう・・ということになる。
 もちろんリハビリでもそうで教科書に出てくる治療方略らしきものと言えばこれだけである。まあリハビリ界公式の治療方略と言っても良いかも^^;
 学生時代は学校や実習先で、「この運動障害の原因は何か?」とよく質問されたと思う。「えー、下肢筋力の低下だと思います」などと答えると「なぜそう思う?なぜ?なぜ?」と「なぜなぜ攻撃」にさらされる。ここでうまく因果の関係を説明できると、褒められたりするのだ。
 しかし僕はこの因果関係の説明がとても苦手だった。教官や実習指導者から指導されてもなかなか納得できなかった。(もちろんすぐ首を縦に振って納得したふりはしましたけどね。何せ実習に出た時、僕はもう27歳でそれなりに擦れていたので^^;)
 その頃はなぜ納得できなかったのか言葉にできなかった。今はその理由を言葉にできるようになったと思う。
 と言うのも一般社会やリハビリ界公認のこの「原因追及型」の治療方略にはいろいろな問題がつきまとっていたのです。たとえば原因が分かっても現実的な解決手段が導かれるわけではないとか、臨床の割と多くのセラピストは必ずしも因果の関係にこだわっているわけでもないとか・・・詳しくはその3に続く。
(その3以降を読まれたい方は、CAMRのfacebook pageに「良いね!」してくださるようお願いします)

治療方略と治療技術(番外編) 2014/8/15
 治療方略と治療技術は私たちセラピストにとって大事な武器となります。
たとえば治療方略と治療技術は、戦国時代における「軍略」と「兵力」(兵士や武器の質や量、その総合力など)の関係に似ています。たとえば強い兵力を持っているとあまり軍略に気を使わなくなり、いつも正面からのごり押しになったりします。逆にその裏を突かれたりするわけですよね。また兵力が少ないとこれまで誰も思いつかないような軍略を駆使して、大軍を破ったりします。
 黒田官兵衛のように強い兵力があっても正面から攻めないで、軍略を巡らし、高松城の水攻めのように戦わずして勝ってしまうなどということも可能なわけです。
 彼は味方の兵力を温存したまま、敵の兵も無駄に殺さず、背後にいる毛利方に強力なプレッシャーをかけながら勝ってしまうのです。この兵力の温存や敵にかけたプレッシャーのおかけで、「中国大返し」を行い、秀吉に天下を取らせることができたわけです。(詳しくはNHK「軍師 官兵衛」で(^^))
 つまり治療方略を工夫すること、多様にすることは、セラピストとして問題解決の能力を高めることになります。手持ちの治療技術をどう有効に活かすか、あるいは従来とは異なった道筋で治療を進めることも可能になります。またこれまでになかった治療技術が生まれることもあります。
CAMRは従来からある「原因追及型」や「試行錯誤型」の治療方略に加えて、第3の治療方略を提供します。CAMRの治療方略は、痛みや柔軟性、筋活動などの要素に働きかける従来の治療技術に加えて、要素間の関係性にアプローチするための治療技術も提供します。興味のある方はCAMRのページへ。現在「治療方略と治療技術」(その2)まで投稿しています。ホームページもあります。(西尾幸敏)

西尾です。ふと気がつくとこのシリーズ、前回の投稿からずいぶん時間が経ってしまいました。何が書きたかったのか、思い出しつつ・・・(^^;))
治療方略と治療技術(その3) 2014/9/9
 原因追及型治療方略の問題点は以下のようなものだ。
 たとえば「異常気象」の原因は、「エルニーニョ現象」で、その原因が「二酸化炭素の多量排出による温室効果」であるとする。そうするとその解決策は「二酸化炭素排出量の国際的な規制」となるが、これはなかなか達成できていない。
 実際、二酸化炭素の排出量規制が上手く行くと、異常気象はなくなるのか?実際にはやってみないと分からないし、本当にそんな単純な因果関係が成り立っているかどうかも疑問である。そして景気問題、国際紛争、宗教問題然りである。どれにもそれらしい原因が説明されるが、本当にその説明通りの単純な因果関係が存在するのか?
 これは原因追及型方略が現象の説明には優れているが、これから生み出される解決策が必ずしも実現的あるいは実際的ではない。つまり言葉で単純に説明される原因は、現実には言葉以上に複雑な要因が絡み合っていることが多いからである。
 二酸化炭素の排出規制はその背後に複雑な経済問題やエネルギー問題やそれに絡んだ各国の利害の思惑がある。1つの「原因」と呼ぶものには、それを構成する沢山の要素が関係している。つまり1つの「原因」には更に沢山の「原因」が影響し合うため、1つの原因を解決するためには実際には更に沢山の原因を解決しなければならないわけだ。
 また別の例で言うと、脳性運動障害の原因は脳細胞が壊れたからで、その脳細胞を再生したり、他の部分で機能を代償させようというアプローチは根本解決に見える。だが50年以上経った今でもその解決策は現実化していない。原因を求めたところで、その説明の因果関係が正しいとは限らないし、たとえ正しくても達成可能な解決策がすぐに出てくるわけではないのである。
 もちろん世の中にはインフルエンザのように比較的に明白で単純な因果の関係も存在するので、そのようなケースでは非常に有効な治療方略である。その4に続く。

治療方略と治療技術(その4) 2014/9/21
 元々原因追及して因果の関係が明確になったところで、解決方法が生まれるわけではというのは前回述べたとおり。そこでおそらく臨床で一番使われていて、それでいて意識されていないのが「試行錯誤型治療方略」である。これはどのようなものかというと、「なぜ?」と過去や背景に原因を求めるのではなく、今この場で何が起きているのかを観察し、今この場でできることを探ってみるアプローチである。今この場でできることを探り出し、それを実行してみる。そして少しでも状況が良くなるようであればそれを繰り返したり、もっと工夫したりして状況変化を起こすようなアプローチである。環境調整したり、身体をいろいろ操作したり、これまでやっていない運動をしたり・・・今、この場できることから手をつけていくのである。
 また最初は全く見当がつかなくても、様々な試行錯誤を繰り返すうち、原因は分からなくても、「この状況はこうすればこう変化する」といった経験や知識を基に、次第に直感的に状況変化を起こせるようにもなる。
 この治療方略は臨床場面のいたる所で目にするが、しばしば「セラピストたるもの専門家として、現状分析から因果関係を導き出し、科学的根拠によって結果を正しく予測して治療にかかるのが当然」などという批判にさらされてもいる。因果の関係や科学的根拠をすぐに求められてもそこのところは難しい。
 むしろこの治療方略の問題は、それぞれの臨床家の経験が言語化されることなく、個々の経験として蓄えられるのみと言うことである。もしそれらの経験を言語化して、知識の体系として蓄積することができれば、僕たちの臨床はどれほど豊かになることか!
 従ってこの治療方略の最大の問題は「他人が学ぶことのできないその人限りの治療方略」にしばしばなってしまうことである。
 もちろんそうなると他人から知識の体系として学ぶことができないので、その人その人のセンスや経験がものを言うことになり、それらによって治療効果に大きく差が出てしまう。
 また科学的根拠が必要なら(^^;)、後付けで適当な因果関係の説明を加えて1つの体系にすれば良いのである(^^;))実際にそのような形で、既存の様々な徒手療法の体系などは作られているように思う。その5に続く。(試行錯誤型治療方略の具体例を次回発刊される上田法治療研究会会誌に掲載予定です)

治療方略と治療技術(その5) 2014/10/2
 原因追及型、試行錯誤型に続く3つめの治療法略が作動特性型治療方略だ。作動特性型治療方略は試行錯誤型治療方略とは共通点が多い。たとえば「原因追及をせず、今この場で何が起きている?」と問い「今、この場でできることから始める」など。
 違うのはシステム論を基に人の運動システムの作動特性がまとめられており、知識の体系として誰もが学ぶことができること。経験やセンスに頼らなくても、何を目指すか、どこにどう働きかけるか、どんな治療技術を使ったら良いかが示されているため、誰でも実施可能な点である。
 僕が学生時代から尊敬してる大先輩のセラピストは、試行錯誤型治療方略の典型的な使い手である。突然「え、どうしてこんなことするの?」とか「え、こんなことで良いの?」と思うようなアプローチをされる。しかしそれで患者さんの運動パフォーマンスは短期間に変化する。説明をしていただいても、どうも筋道が通ったような通らないような・・・と、もどかしい思いをしていた。
 しかしシステム論から説明できる人の運動システムの作動特性を理解してからは、「あ、なるほど。あの先生は、人の運動システムのこんな特性に働きかけていたのか!」と腑に落ちることも多い。
 また通常ではメインの治療の補助的な手技として使われる普通の「身体介助」や「ほめたり癒やしたり」の言葉かけが、この治療方略では非常に強力な治療技術として体系づけられている。そういえば、訓練効果を出して患者さんから感謝されているようなセラピストは、身体介助や言葉かけといったごく普通の治療技術を巧みに用いられている。そういった大先輩達が経験によって築き上げたアプローチ全般にわたって、この方略は、多くの人が納得できる説明、つまり「言語化された知識の体系」を提供するのである。(その6に続く)

西尾です。これはこのシリーズの最初の頃に書いたものですが、どうにも収まりが悪く、番外編として挟んでみました(^^;))感想を聞かせていただければありがたいです。
治療方略と治療技術(番外編その2) 2014/10/15
 僕が理学療法士になった頃、先輩方の多くは特別の技術講習を受けていなかった。だからダメということは決してなく、僕の尊敬する先生は身体介助と声かけと環境や道具の工夫で次々と患者様の問題を解決していた。いつの間にか痛みが軽くなり、歩かれるようになる。今思うと単純なありふれた治療技術や身の回りの道具などを上手く工夫して各患者がそれぞれ抱えておられる問題を軽くしたり解決したりしておられた。まさしく治療方略を工夫されていたわけだ。僕はいつもそれを見たり聞いたりしてワクワクしていた。理学療法士の仕事とはそんなことだと思っていた。
 いつの間にか現在は治療技術の講習会は花盛りと言って良い。いくつも技術講習会を受けている人もいる。もちろん強力な治療技術はより良い治療効果を生み出す手段の一つになる。また特別な治療技術を習うと誇らしいし、それによって期待通りの変化を起こすと嬉しくなる。僕としてもいろいろな講習会を受けていくことは賛成だし、後輩にも大いに勧めている。
 しかし中には対象疾患やその方の抱える状況を顧みず、習った治療技術をひたすら繰り返すだけの例を見る。毎回その先生の訓練に行くと必ず治療台に乗せられ、同じ手続きで同じ治療を受ける。最初の頃は「身体が楽になりました」とお世辞も言ったが、次第に「ずっとこんなんで良いのだろうか?」と思ったという話もよく聞く。
 なんだか武器の使い方は覚えたけれどどう利用するかを考えていないように思える。たとえば拳銃は人を殺傷する武器だが、引き金を引くだけではないはずだ。腰にぶら下げておくだけでも様々な効果を生み出す。持っておくだけで安心かもしれない。
 それぞれの治療技術もそんなところがあって、「必ずそれをしないと問題解決できない」と言うわけでもないだろう。個人個人の持っている問題も状況も様々で、通り一辺倒のやり方で解決できるわけではない。
 そしてどんな治療技術も万能ではない。だからこその工夫である。手持ちの技術をどう有効に利用するかだ。どの技術を使い、あるいは使わないかだ。強力な治療効果のある技術だから何も考えずに使えば良いというわけではない。
 さまざまな治療技術が習える今だからこそ、治療方略について考えることも重要だと思うのだが・・・

西尾です。CAMRは治療方略の全体像を理解し、様々な治療技術を有効に使うための体系です。詳しくは次回発行の上田法治療研究会誌で(^^;)
治療方略と治療技術(その6) 2014/11/29
 作動特性型治療方略は、システム論から人の運動システムの作動特性を明らかにする。たとえば人の歩行は様々な状況で、様々に形を変え歩行という機能を維持する。決して教科書に載っているような正常歩行をしているわけではない。1つの歩き方で乗り切れるほど陸上環境は単純ではない。横歩きもすればつま先立ちでも歩く。凍った路面では円背での小刻み歩行も見られる。
 これを可能にしているのは、運動システムの豊富な運動余力である。余力があるので様々な状況下で、歩行の形を変化させてでもその機能を維持できる。つまり障害を持つとは、運動余力を失うことである。
 ならば私たちのやる第一のことは、できる限りクライエントの運動余力を豊富にすることである。運動余力を豊富にすれば、クライエントの環境変化に対応するための選択肢も増えてくる。つまり作動特性型治療方略での最初のルールは「運動余力を豊富にせよ!」だ。
 作動特性型治療方略では、現在6つの作動特性を公式化している。これによって、僕たちのアプローチでやるべきこと、判断するべきことは明らかになってくるのである。(その7に続く)

西尾です。お疲れ様です。このシリーズを続けるべきかどうかで悩んでいます(^^;))
治療方略と治療技術(その7) 2014/11/27
 作動特性型治療方略ではどんな障害であれ、最初に目指すべきは「運動余力の豊富化」であると言いました。運動余力とは様々な状況変化に応じて課題を達成するために多様な課題達成方法を生み出す能力です。
 それなら「運動余力」ではなく「運動能力」という言い方で良いではないかと思われるかもしれません。しかし敢えて「運動余力」としているのはこれが単なる運動能力とは違うからです。
 運動能力とは、力強さとか速さとか、正確性、持久力などで表されますよね。もちろん運動能力が高ければ、「様々な状況下で課題を達成する」可能性が高くなるのも確かです。でも運動能力が高いからと言って、初めての氷の上を上手に歩けるわけではありません。逆に片麻痺になって運動能力が著しく低くなったから歩けないというわけでもないのです。運動能力は運動余力を構成する重要な要素ですが、その一部でしかないのです。運動余力とは運動能力を含む様々なリソース(資源)を利用・工夫しながらある課題を達成する総合的な能力のことなのです。
 たとえば知的な過程も含みます。天井から高い位置に吊されたバナナを取るのに、人は運動能力だけではダメだと分かると道具を使って取ろうとします。道具の利用方法を含め、そのような課題達成の方法を生み出す能力を運動余力と言うのです。(結局人は何をするにも運動です。だから知的活動と身体活動を基本分ける必要はないと思っています。運動余力とは生きる能力でもあるわけです)
 こう考えると、たとえ麻痺が重度で身体はほとんど動かなくても、そして運動能力改善の可能性が極めて低くても、道具などを利用することで課題達成への道が開けてくるのです。たとえば最近では皮膚の微弱電流の変化を読み取るセンサーが注目されています。もし身体が動かなくても、皮膚の微弱電流を変化させることができれば、その変化を読み取らせてコミュニケーションが可能になるかもしれません。あるいは電動車椅子を操作することができるかもしれません。このような視点を持つことによって重度障害の方でも「運動余力を豊富にする」ことが可能になるのです。
 またこの視点から、運動余力を増やすためには既存の治療技術だけでは不足であることに気がつきました。そして「新しい治療技術」を発展させざるを得なかったのです。CAMRではそのための新しい治療技術が発達してきました。(その8に続く・・・・か?)

西尾です。今回は少しマニアックな内容なので興味のない人は軽く流してくださって、あるいは読まれなくても結構です。
治療方略と治療技術(番外編その3) 2014/12/4
 前回は運動余力が何を意味しているかを説明しました。運動能力だけでなく様々な環境リソースをも利用して問題解決を図る能力です。これはまるでベルンシュタインの「デクステリティ」と同じではないか、ならば運動余力などと言わず、デクステリティで良いではないか、と思われるかもしれません。
 でもそうはイカ<コ:彡のキンタマ。。であります。ベルンシュタインは結局、脳の機能にデクステリティを還元しているように思います。これを基にしたアプローチは脳の機能に焦点を合わせ、従来行ってきたような伝統的なありきたりの「運動学習」なるものと変わらないものになってしまいます。
 運動余力は特定の部位や構成要素に還元されません。そうすると運動余力を豊富にするためには、環境リソースや使われる課題、運動能力など様々なものに焦点を当てながらアプローチすることができます。多要素に同時に、あるいは要素間の関係性にアプローチできるのがシステム論的介入のおもしろさでもあります。
 それでわざわざ「デクステリティ」を「運動余力」という言葉に置き換えたのです。

西尾です。このテーマで最初に書き始めたのが7月の終わり。もう5ヶ月が経とうとしています。最初は、「治療技術と治療方略」だったのがいつの間にか「治療方略と治療技術」に変わってました(^^;))書き進めながら、いろいろな気づきを経て最初の頃の考えとは随分と変わってきました・・・というところで突然ですが、今回が最終回です。いろいろと新たに気づいたことなどは、次回の上田法会誌エッセイの中でまとめてみたいと思っています。つきあってくださった皆様、長い間ありがとうございました。
治療方略と治療技術(最終回)2014/12/11
 最初CAMRは、作動特性型治療方略によるアプローチと考えていたのだが、自分の臨床を省みるとどうもしっくりこないところがある。ここのところ色々考えてみるに、僕は3つの治療方略、原因追及型・試行錯誤型・作動特性型を場面や特徴に応じて使い分けていることに気がついた。それぞれの治療方略にはそれぞれの優れたところと欠点があり、組み合わせることで欠点を補い合うことができる。
 たとえば因果関係型治療方略による説明は、多くの方が好む説明だ。「あなたの痛みの原因は○○です」という因果の説明は、ご本人様の納得も得られやすい。時には明らかに間違った因果の関係を信じている方もおられるが、その場合はその考えに気付かれたことを一旦ほめる。そして「その原因は、こうすると逆の結果にもなりますよ」とその方の因果関係に乗っかって新しい課題にチャレンジしてもらったりしている。
 普段の訓練は、ほとんど作動特性型から得られる7つのルールを基に実施しているが、時に手詰まりになることがある。そんな場合は試行錯誤型治療方略を用いている。これまでやっていない運動課題や実施条件を思いついては試してみる、あるいはこれまでと逆のことをすることもある。思いもかけぬ突破口が見つかることがあり、面白い。
 作動特性型によって訓練の目標や結果の判断、日々の実施に迷うことが少なくなった。試行錯誤の結果を判断したり、因果関係の説明に乗っかって新しい課題に導いたりできるのも作動特性型の基本ルールがあればこそと思っている。何かと目安になるのである・・・・・
 これまでいろいろ言ってきましたが、基本CAMRは、3つの治療方略を使いこなすための理論的枠組みということになりそうです。また「道具(理論)は使いよう」であることに改めて気付かされた次第です(^^))(終わり)