運動世界の三つの物語(最終回)

運動世界の三つの物語(最終回)(上田法治療ジャーナル, Vol.23 No.2, p71-91, 2012) ”
 今回で最終回です。二つ目のおとぎ話のもっと詳しい解説と三つ目の物語です(^^;)
 
 それでは、始めます。  

運動世界の三つの物語
葵の園・広島空港 西尾幸敏

【運動共和国物語をもうちょっと解説】
1.運動共和国のアイデアはシステム理論に基づいている
 運動コントロールのシステム理論は、奇しくも階層型理論が発表された同じ年、1932年ロシアの神経学者、Nicoli Bernsteinによって提案された。しかし1967年まで、Bernsteinの理論は英語に翻訳されなかったため、西側諸国にそのアイデアは知られることがなかった。
 システム理論によると、運動は末梢的にあるいは中枢的に起こされるのではなく、多くのシステム間の相互作用の結果として出現する。コントロールに関係するサブシステム(筋骨系、神経系、代謝系、環境など)には、上位も下位もない。各サブシステムは同レベルにあると考える。そして各々のサブシステムは状況の変化に応じて、コントロールにおける役割や重要さが変化してくる。運動のコントロールに貢献するサブシステムは、比較、命令、そして運動コントロールの記録などを持っている神経系ばかりでなく、例えば筋骨システムや環境のようなサブシステムをも、神経系システムと同等に並べる。このような関係の中では、神経系は階層型のように、運動を発生しコントロールするのではない。各サブシステムから生み出される運動を、状況に相応しいように調整することである。  システム理論の主な仮説は、神経系の機能は、課題目標を達成するように運動を調整することである。階層型理論のように、正常運動は感覚経路や中枢プログラムによって規定されている筋の活性化パターンによって協調されるとは考えない。
 なぜなら人の体には200以上の骨、100以上の関節、約400の骨格筋がある。これをそれぞれの状況変化の中で、それぞれの筋の一つ一つの活性化を相応しくコントロールするとなると、制御はとても困難である。大雑把に言ってしまえば、人の運動は無限に変化するので、筋の活性化パターンも無限に必要となってくる、ということだ。
まあ人の運動では、歩行などはある程度はパターン化されているので、中枢神経系の下位レベルで「歩行に関係する筋群など」をまとめあげて、適度な緊張状態と連動して働く状態を作っておけば、意識で「歩こう」と思えば自動的に様々の環境の中で、様々な調整が自動的に行われながら歩けることになる。Bernsteinはこのような、学習によって色々な要素が協応して活動が機能的に結びつく関係を協応構造と呼んでいる。

2.「センソ家はニューロ家の右腕のような存在で・・・」正確で、協調された運動には感覚調整が重要ということについて
 Bernsteinによると筋腱複合体は、想像以上に複雑な振る舞いをするため、コントロールが難しい。筋のように柔らかいもので押すわけにはいかないので、引くという不安定な方法で骨を動かす。柔らかいもので何方向からか引っ張って骨をコントロールするわけだから難しい。しかも横紋筋は、力は強いが平滑筋のように滑らかに力を出すわけではなく、爆発的に収縮する。大砲で弾を撃つようなものだ。これだけでも相当に難しい。従ってコントロールの正確さには、感覚調整によって常にフィードバックが行われなければならないわけだ。

  3.「センソ家は困惑したままだった。」動かなくなるから、感覚が低下する!について
 反射型理論では運動は感覚によって引き起こされると考える。感覚が運動発現に絶対必要と考えるわけだ。学生が実習に来ると、感覚の検査を行う。そして運動がうまくいかないのは「感覚が低下しているから」などと解釈することもある。
 システム理論では、感覚は運動を協調させるための調整に必要と考える。だから運動発現には感覚は不要と考えている。実際Carr & Shephardは、後根切除で感覚入力を遮断した猿の例を挙げて、協調性には欠けるけれども、感覚なしで運動が発現する例を挙げて、運動発現には感覚は不要と説明している。また脳卒中後遺症で見られる感覚低下・鈍麻は、身体を動かし始めることで改善する、と述べているし僕の臨床経験でもそうである。

4.「ニューロ家の兄弟達」中枢神経系の階層構造について
 Bernsteinは中枢神経系の構造を、発生順に階層構造として捉えている。より古い構造物は、筋緊張の調整、その次に新しい部分は多数の筋肉の協同活動、その次は空間場での活動、最後に動作の連鎖からなる行為をコントロールしているとした。各レベルは自律して働き、低次のレベルは背景レベルとして自律的に高次レベルを支えるとした。つまりこの階層構造は、高次レベルが低次レベルを一方的に支配している、ということではない。発生順では支配関係があるように勘違いされるが、各レベルはお互いに違う役割を持ち、影響を与えあう関係で、その意味では各レベルは対等である。

  5.「柔軟だから無限の可能性を持つ」ということについて
 甲殻類などの外骨格系の動物に比べると内骨格系の動物の特徴は柔軟性である。しかし柔軟であるということは、運動の制御をひどく難しくした。硬い棒を持って壁にある電灯のスイッチを押す場合と、柳のような柔らかい枝で叩いて押す場合を比べてみるとよく分かる。柔らかいものは制御が難しい。しかしBernsteinによるとこの柔軟性ゆえの困難さこそが、「並外れた適応性と操作性」を発達させた。「脊椎動物は『無限に多様な軌道をどれでも自由に選択』してしまうという運動の非決定性を、そのまま創造の原理に変えた」たとえば制御の難しさは、より巧妙な「協応構造」のような優れた操作性を生み出したのである。

6.「パワ家の長兄ビスエラ」キャッチ収縮について
 筋の張力発生は、幾つかのメカニズムによって起きると考えられる。中心は活動性張力と呼ばれる神経筋システムによる筋収縮のメカニズムだが、その補助的なものとして伸張反射と粘弾性システムによる張力発生が考えられる。粘弾性システムというと「拘縮」のことを思われる方も多いと思うが、ここで言うのは一時的に張力が生じたり消失したりする現象のことだ。この現象はDietzらによって報告されている。たとえば尖足歩行をしている脳性麻痺児と成人片麻痺患者で、筋電図活動を調べた。背側可動域が保持されている患者で、遊脚期の間、腓腹筋に活動がなかったにも関わらず、尖足位は保持されたままだった。しかも前脛骨筋にかなりの筋活動が見られた。Bergerらは片麻痺患者の歩行中の両側アキレス腱の張力発生を調べた。立脚相の間、患側腓腹筋は張力を発生していたが、筋電図活動は見られなかった。これらは運動単位の活動が見られないにも関わらず、張力が発生していることを示している。
 DietzとBergerは、中枢神経系患者では運動単位が活性化する代わりに、筋の機械的なメカニズムが変化して一時的な張力を生み出しているのではないかと提案している。彼らはこれを「偽りの伸張反射pseudo-stretch reflex」と記述している。
 現在この張力発生の有力な候補は「キャッチ収縮」と呼ばれる現象だ。キャッチ収縮は二枚貝の貝柱に見られる。キャッチ筋は典型的な平滑筋である。アセチルコリンの分泌に伴って細胞内カルシウム濃度が上昇し、カルシウムが直接結合することで活性化したミオシンとアクチンが滑り運動を起こして収縮を開始し、張力を発生する。その後、細胞内カルシウム濃度が減少するとキャッチ状態に入り、長時間にわたって張力を発生し続けるが、その間エネルギーはほとんど消費されない。
 筋電図活動がみられない、温熱によって弛緩するなど、脳性運動障害に見られる筋の硬さとも共通点が見られる。
 また研究の多くは二枚貝の平滑筋で行われているが、キャッチ収縮を起こす蛋白質と同じ構造のものは、横紋筋でも報告され、脊髄動物の平滑筋や骨格筋でもキャッチ収縮と同様の現象が報告されている。
 ここで言うパワ家の長兄ビスエラとはキャッチ収縮をイメージしたものである。活動性張力が失われたために、キャッチ収縮を基にした張力発生が行われ、内骨格系動物の有り余る柔軟性を制限しているのではないか?

7.「自分たち以外に、身体の外にある多くの環境の民達とも協力する必要性を学ぶ」について
 運動は環境で起きる、と言ってしまう以上に環境と運動の結びつきを説明しようとするとなんだかとても深くて難しい。少ない誌面で説明するのは難しいので、一つだけユクスキュルの有名なダニの環境世界の話を・・
 交尾を終えたダニの雌は、全身光覚のおかげで木の枝に登る道を見つけ、灌木の枝先によじ登る。そしてじっと獲物の現れるのを待つ。獲物が何かというと哺乳類である。哺乳類の血液は、ダニが子孫を残すためにどうしても必要なのである。そこで枝先につかまってじっと待つ。その位置につくおかげで、ダニはそこを通過する哺乳類の上に落ちる可能性が得られるのである。
 そこに運良く哺乳類がやってくる。そこで「まったく驚くべきこと」が起こる。哺乳類の体から発するあらゆる作用の中で、3つのみが一定の順序でダニに対する刺激となる。まずその嗅覚によって酪酸を感じると枝から落ちるという反応を導き出す。酪酸はすべての哺乳類の皮膚線から流れ出ているのだ。
 次に敏感な温度感覚によって温かいものに落ちれば、さらに触覚によって毛の少ない場所を探しだし、皮膚組織の中に頭を突っ込み、血液を吸い込む。普段は1~2ミリメートルくらいの体長らしいが、血を吸うとエンドウ豆くらいの大きさになるそうである。ダニはまったく味覚を持っていない。液体が適当な温度であれば、どんな液体でも区別なく腹一杯吸い込んでしまう。
 一方酪酸の臭いを嗅いだ後、冷たいものの上に落ちた時は、獲物にとりつくのを失敗したことになり、ダニはもう一度振り出しに戻るというわけだ。また木に登る道を見つけて、よじ登らなければならない。逆に血を吸うのに成功したダニは、地面に落ち、産卵した後死んでしまう。
 こうして獲物を待つ時のダニの全世界は、哺乳類に対する三つの知覚(嗅覚、温度覚、触覚)とそれに対する3つの反応(落ちる、移動する、穴を開けて首を突っ込む)からなる。「ダニを取り囲む豊かな全世界は収縮して、大ざっぱに言えば、三つの知覚標識と三つの作用標識とからなるみすぼらしい姿に、つまりダニの環境世界に変化する。しかしこの環境世界のみすぼらしさこそ、まさに行動の確実さを約束する。そして確実さの方が、豊かさより大切なのである。」
 彼の言う環境世界とは各動物達に受け身的に与えられた外環境のことではない。また単に動物に知覚されている世界でもない。それぞれの動物は環境の中のいろいろなものに、関心を持ったり持たなかったりする。関心のあるものにそれぞれの動物なりの意味を与え、その意味によって構成される世界が環境世界なのである。動物に固有の感覚と運動が協同して環境から造りあげるその動物だけの世界である。
 ユクスキュルは次のように言う。道に落ちている石は何の意味も持たないが、カラスを追い払おうとしている人にとっては「投げつける」というトーンを帯びたものになる、と。
 このことはアメリカの認知心理学者、Gibsonもアフォーダンスと呼んだ動物と環境の関係の性質であろうと思う。またBernsteinのいう「行為の周囲の世界」のことでもあろう。詳しくはそれぞれを読んでいただきたい。

【文献】
・1の内容は以下の文献よりの要約。
Horak FB: Assumptions Underlying Motor Control for Neurologic Rehabilitation. (ed. by Lister MJ): Contemporary Management of Motor Control Problems. Proceedings of the ⅡSTEP Conference. FOUNDATION FOR PHYSICAL),1991.
・2の内容は以下の文献より。
Carr JH, Shepherd RB, A motor learning model for rehabilitation, Movement Science -Foundations for Physical Therapy in Rehabilitation, AN ASPEN PUBLICATION 1987,31-91
・3,4の内容は以下の文献より。
ニコライ・A・ベルンシュタイン;「デクステリティ 巧みさとその発達」,工藤和俊訳,佐々木正人監訳,金子書房, 2003.
・5は「デクステリティ 巧みさとその発達」の本の315~330ページに載せられていた以下の小論より「」内を引用している。
[解題]運動はどのようにして環境に出会うのか-ベルンシュタインの三つの発見 佐々木正人
・6は以下の論文より。
盛田フミ: 貝はいかにして殻を閉じ続けるか?-省エネ筋収縮"キャッチ"の制御と分子機構. タンパク質 核酸 酵素 Vol33 No8, 1988.
・7は以下の書籍を参考にしていただきたい。
ヤーコプ・フォン ユクスキュル、ゲオルク クリサート,「生物から見た世界」,日高 敏隆,野田 保之訳,新思索社,1995.
ニコライ・A・ベルンシュタイン;「デクステリティ 巧みさとその発達」,工藤和俊訳,佐々木正人監訳,金子書房, 2003.
・J.J.ギブソン,生態学的視覚論,古崎 啓・辻 敬一郎・村瀬 旻共訳,サイエンス社.

Ⅲ.最後の物語
 さて、この古本の次の章は・・
第3章 リハ・ビリーの冒険
 『リハ・ビリーは、治療師として旅をしていた。彼は非常に困難な危機に直面していた二つの異なった国を旅した。
 最初に訪れた「運動王国」は冒険の旅だった。王国の歴史はまるでおとぎ話のようだった。運動の精は王国にコルテ王とスパイナをお互いに敵対するものとして存在させた。最初弱々しい存在だったコルテ王は、成長と共に逞しく育ち、やがてはスパイナを従えて運動王国を繁栄させる。しかし王が病に伏せると、再びスパイナが猛威をふるう。
 そこへ登場したリハ・ビリーは、王国の治療団に参加する。国の困難を救うべくビリーは勇敢にスパイナに立ち向かい、コルテ王をなんとか病から回復させようとする役割を演じたりした。
 このストーリーでビリーが一番気に入ったのは、コルテ王の病気を回復させるために自分が大きな役割を演じることだ。だっておとぎ話の主人公みたいだ。悪玉をやっつけて、正義の王を回復させるのだ。うまくいけばコルテ王は元通りになって、再び運動王国は繁栄を取り戻すことができる。
 一方で「僕が本当に神秘的なハンドパワーの持ち主だったら良かったのに」と思った。スパイナと戦う手技は難しく、ましてやコルテ王を回復させる手技は途方もなく難しいものに思えた。どうもコルテ王の病を治した例というのはないようだ。結局ビリーは神様に泣きついた。
 神様は運動王国建設に当たった運動の精をビリーのところに送ってくれた。運動の精はビリーの質問に次のように答えた。
 運動の精はなぜスパイナを運動の王国内に敵対する存在として運命づけたのだろう。運動の精が言うには、「私は弱い存在が艱難辛苦を乗り越えて、強く成長するストーリーが好きなのだ。だから強い敵が必要なのだ。それに失敗すれば全てが台無し、だけど頑張ってそれを乗り越えたらうまくいくって方がスリリングで面白いではないか?」ビリーは呆れた。「スリリングで面白いですって?それでは失敗して本当に滅びてしまう可能性も高いではないですか?とんでもない」運動の精は肩をすくめながら言った。「健康であればまあ必ず勝つようになっておるのだ。そんなもんだろう・・お前は知らないだろうが、あのハリウッドはこの手の話が大好き・・」
 「でも王国の危機に兄弟げんかなんて・・協調性があって有能なものだけを最初から入れておけば良いではないですか」とビリーは割って入った。「でもそれでは物語が盛り上がらないものね」と運動の精が小声で意義を唱えた。ビリーは運動の精をにらみつけた。
 神様は二人の話を聴いていたが、運動の精に向かって重々しく口を開かれた。「運動の国を作り直しなさい。私は合理的なものを好む。不合理なものを好まない。お前はなんだか映画にはまって、少し遊びすぎである」運動の精は肩をすくめて次の運動の国を作ることにしたのだった。

 こうしてビリーは次の国「運動共和国」に辿り着いたのだった。
 この国の歴史は、平穏だった。絵に描いたような正義も悪もなかった。1人1人の優秀で協調性のあるメンバーが努力して、補い合い助け合いながらやがて強力なチームワークを確立し、運動共和国を繁栄させる。
 しかしコルテは一旦病に倒れてしまう。ここでのビリーの役割は、彼らのチームが最大限働いて効果的な結果が出せるように手助けすることだった。健康な元の状態に戻すことではなかった。もちろんそれだって簡単なことではなかったし、それなりの努力は必要だった。でもなんて言うか、この役割はリアルでビリーにもなんとか頑張ればできそうな気がした。もちろんもっと努力する必要はあるだろうけど。
 それでこの国で与えられた役割をビリーはとても気に入っていた。共和国のメンバーは皆まじめでやる気がある。彼らのチームに加わって一緒に仕事をするのはとても楽しかった。
 治療団のリーダーのベルンは、とても聡明だった。王国から感じていた運動学習の意味を明確にしてくれた。迷いのなくなかったビリーは、自分のできることに打ち込むことができた。
 動かなくなった体をまず動くようにすること。これには上田法という徒手的技術がとても役に立った。だれでも簡単に効果を出すことができる。
 それから色々なチームの課題を見つけ出すこと。課題を常に変化させ、チームのみんなと様々な運動課題の達成を手伝った。小さな運動課題の達成の積み重ねは少しずつ彼らの自信と活動性を高める。
 それから環境の民達と話し合いを持ち、できるだけ彼らの協力を得られるように努力した。こんな環境の民がいたら共和国はもっと上手く行くのに、と思ったときはそんな環境の民を捜し回った。「それを見つけ出したときの嬉しさと言ったら・・・」ビリーは今もその感動を忘れない。
 彼は運動共和国を出発した。彼の運動世界での冒険はまだまだ続くのだ・・・』

 物語はここで終わる。リハ・ビリーはどんな主役だったろう。つまんない奴だったろうか?それとも少しは共感できるところがあっただろうか?
 この古本は今僕の手元にある。不思議なことにこの物語の後には沢山の白紙のページがある。あなただったらどんな物語を書き込みますか?