正しさ幻想をぶっ飛ばせ!-運動と状況性

 

2019年8月13日

毎週火曜日の「怒りのエッセイ」シリーズ、開始です(^^)
「正しさ幻想」をぶっ飛ばせ!‐運動と状況性(その1)
 テレビでは実にたくさんの「正しさ」が紹介されている。食事においては、「まず野菜を食べましょう」などと言われる。ダイエットを効果的に行うためにはそれが正しい食べ方なのだそうだ。刺身を食べるときには、ワサビは醤油には溶かないそうだ。日本では麺は啜って食べるべきだというのもある。どれもたわいないことに思えるが、専門家の先生や時にはそうでもない人達が出てきて一生懸命に主張する。アナウンサーや周りの出演者もヤンヤ、ヤンヤとはやしたてる。
 中にはもっと脅迫的なものがあって、「正しい日焼けの防ぎ方」はまるで「何かを犠牲にしても美肌を作るために生きなさい!」と言っているようだし、「正しい日本語の使い方」は「多くの日本人が日本人として失格である」と言っているようなものまである。
 なんだか社会全体が「たった一つの正しさ」を必要として追い求めているようだ。自分が「正しさ」の中にいないと不安なのかもしれない。だからまず「正しさ」を明確にしようすとする。そしてたった一つの正しさにしがみついて、他のものは間違いだと非難するのだ。
 だけど正しさなんて人が勝手に決めているものだ。人によって正しさなんて変わってくる。でも自分では判断できないから、権威のありそうな人が勧めてくる正しさにしがみつく。客観的で間違いの無い「正しさ」が存在しているかのように思ってしまう。これを「正しさ幻想」と呼ぼう。
 最近の日本人には寛容さがなくなったと言われるのもこの辺に理由があるのかも知れない。皆で正しいものがあると思い込み、その中に皆で駆け込んで安心する。そこから外れたものは「まちがいだ」と言って容赦しないのである。「自分たちと同じ正しさの中にいる」という安心感や仲間意識が大事なのであろう。自分と異なる価値観や正しさは認めなくなっているのである。
 まあ、テレビでは「正しさ幻想」を商品化して人々の関心を煽って視聴者を楽しませているのだ、と笑って済ませることにしている。
 しかし当たり前のことだが、自分の仕事であるリハビリの分野でこの「正しさ幻想」が持ち込まれているのを見るのはどうも笑って済ませられない。どういうことかというと・・・・続く

 

 

2019年8月20日

「正しさ幻想」をぶっ飛ばせ!‐運動と状況性(その2)
 テレビを見ていると「今日は正しい歩き方を専門家の先生に教えてもらおうと思います」という内容に出会った。見ていると「専門家の先生」と紹介された理学療法士(だったと思う)が、「顎を引いて胸を張り、両手・両脚を大きく振って、地面を蹴るように歩きましょう」などと言っている。見ていて恥ずかしくなった。それぐらいなら、少し賢い小学生であれば言いそうなことである。
 そしてセラピストになる過程で誰もが一番最初に出会う「正しさ幻想」が、この歩き方である。
 テレビの中でいう正しい歩き方とは、若く健康な健常者の美しく颯爽とした歩き方の形である。皆がモデルとするべきと一般的に考えられる歩き方である。だから僕のように猫背でポケットに手を突っ込み、フラフラと歩いているような形は決して「正しい歩き方」にはならない。
 でも考えてみてほしい。正しい歩き方のモデルになった健康な若者が、好きな恋人にむごい仕打ちを受けたと想像する。するとさすがの若者も肩を落として猫背になり、ため息をつき、ポケットに手をつっこみ、「なんでこんなことに?」と目も虚ろにつぶやきながらトボトボ、フラフラと歩いてしまうだろう。
 それは正しい歩き方ではないのか?いや、そうとも言えない。まだ恋愛経験の少ない若者が酷いショックを受けるという文脈の中では何とも正しい歩き方ではないだろうか?人では感情は当然運動の形にも現れるからだ。このような酷いショックを受けた状況の中で、また颯爽と歩き出すとしたら彼は人ではなくロボットに違いない。
 つまり「運動は真空中で起きているのではない。僕達が生きている生態学的環境の中で様々な影響を受けながら起きているのだ」ということである。
 健康な若者に、平らな床の上でたった一人で、「きちんと歩いてね」と言われたようなたった一つの歩行の形を取り上げて、遊脚期が何パーセントだの言ったところで、それは実験室で起きた非常に特殊な形の歩行を取り上げているに過ぎないのである。その特殊な歩行の形を理解したところで、実際の環境の中で生じる無限に多様な形で現れる歩行を理解することにはならないし、ましてやそれをモデルに障害のある方の歩行指導などはとんでもない話である。
 ついでに言っておくと・・・特殊な状況、軍隊のパレードなどでは参加者が目指すべき正しい歩行の形は存在しますがね(^^;)
続く・・・

 

 

2019年8月27日

「正しさ幻想」をぶっ飛ばせ!‐運動と状況性(その3)
 新人さんの歩行練習を見ていると、「さあ左脚をもっと前に出して。もっと、もっと・・・」などと患者さんに指示している光景をよく見る。どうしてその指示を出すのか聞いてみると、「左右非対象だから」とか言われる。つまり健常者のように左右対称に足を出すべきだと言っているわけだ。
 これは無意識に「健常者の歩行の形」を目標にしているからである。健常者の歩行は左右対称で、力強く滑らかであるから、これを「正しい歩行の形」として目指そうというわけだ。
 これはもう何度も書いたり言ったりしたことだが、これについて僕には苦い思い出がある。
 30年以上前、僕が学生で実習に行っていたときに片麻痺のおじいちゃんを担当したことがある。杖を突きながらひょこひょこと歩かれるのだ。僕はいつも歩行練習に付き合うことになったわけだが、「なにも言わずただ一緒に歩いていて良いものか?」と内心悩んで焦りのようなものを感じていた。
 おじいちゃんの患側下肢の振り出しはいわゆる分回しだった。それも今思うとかなり熟練した美しい弧を描く分回しだった。だからやってしまったのだ。「悪い方の脚をまっすぐに振り出すようにしましょう」と言ってしまった。おじいちゃんは「おう!」と応えてまっすぐに脚を振り出そうとされる。だが上手く行かない、行くはずがない!そこで僕は何度かに一度、「脚をまっすぐに振り出して!」と繰り返してしまった!かすかにセラピストとして役割を果たしていると感じられた。
 すると、何度目かにおじいちゃんは立ち止まって僕の方にクルリと振り向くと怒鳴ったものだ。「よし、わかった!お前の言う通りに脚をまっすぐに振り出しちゃろう!じゃがその前にお前がわしの脚を治してくれ!わしの脚は病気で思うように動かせんのじゃ!お前が、治せるんなら治してみい,そしたらお前の言うとおりにしちゃる!」とそれは大変な剣幕で怒鳴られた。
 言われてみればまったくその通りで反論のしようがない。おじいちゃんは,麻痺のある不自由な身体で思い通りに動かない患側下肢をなんとか振り出すスキル(分回し)を身につけられたのだ。それも試行錯誤を繰り返し、発見を重ねながら何とか苦労して身につけられたスキルである。汗と涙の結晶だ。それを健常者の形と違うと若造の分際で僕が安易に否定してしまったわけだ。
 麻痺があるから健常者と違うのは当たり前である。だから「麻痺をまず治してみろ」という訳だ。
 今なら、「一緒に歩くだけでおじいちゃんが安心して歩くための有効なリソースとしての僕」であることがわかっているのでなにも言わないのだが・・・
 考えてみれば、学生時代から運動や姿勢の形を見て、健常者と比べて何が違うかというのを評価として習ってきたのだから自然に健常者の形を目標にしてしまうのかもしれない。でも見るべきは形ではないのだ!!では何か?というのが来週のお話のココロなのだ!(^^;)(続く)

 

2019年9月3日

「正しさ幻想」をぶっ飛ばせ!‐運動と状況性(その4)
 前回出た様に「顎を引き、胸を張って手足を大きく振って地面を蹴る」ような運動の形は平らで誰も居ない特定の状況で生まれる歩行の形であると述べた。その形は凍った路面やぬかるんだグラウンド、凸凹のある田舎道では全く意味をなさない歩き方だ。
 つまり僕達が日常目にし、仕事のネタにしている運動は「状況」とは切っても切れないものだ。だから専門家である僕達は常に「状況の中での運動」を理解する必要がある。
 一人の人間の歩行の形は、様々な状況の中で無限に変化するのが当たり前だ。たとえば砂地では膝を高く持ち上げ、氷の上では滑らないように小刻みによちよちと歩く。水溜まりではできるだけ濡れないように爪先立ちで浅いところを探しながら歩く。大観衆の前で緊張したときには同側の手と脚が一緒に出たりする。酔っぱらった時は千鳥足だし、人混みを進むときは流れにあわせて速度を変え、横歩きをしたり、時には後ろに下がりながら進む。急な斜面では両手を支えに使ったりする。
 見た目の形で歩行を理解することにはあまり意味が無い。状況によって形を変えるからだ。むしろ見た目の形ではなく作動の特徴で見たときに始めて健常者の歩行の真の姿が見えてくる。さまざまな状況の中で、形はその状況に相応しいように変化する。つまり健常者の歩行の特徴とは、「さまざまな状況の中で形を変えてでも歩行という機能を維持するような」歩行である。つまり健常者の歩行の特徴は、形にあるのではなくその作動にあるのである。
 僕達セラピストは歩行の見た目の形ではなく,作動の特徴を理解してそれを障害のある人達の指導に活かすべきなのだ。片麻痺の方が、アスファルトでも室内と同じようなつま先を引きずるような歩行の形で歩けば、つま先が引っかかるに決まっている。だから状況に応じて歩行の形が変化するような作動を生み出すようなアプローチをするべきなのである。
(こう説明すると、「では室内ではなにも言わないが,アスファルト道路を歩くときには『足を高く挙げて』と指導すればよいのか?」とよく聞かれる。いや、そんな口先で指示しても持続的な運動変化は起きませんよ。せいぜい2-3回足を高く持ち上げてまた元に戻ってしまいます。「持続的な運動変化を出すためにはどうするか?」にも運動システムの作動の特徴を知る必要があります。たとえば歩行を、重心移動・支持・振出のような作動で理解する必要があります。それはまた別の機会に述べましょう)
 「正しい答えが存在していて、それを学びさえすれば良い」というのは間違いです。いつも人は自分自身で何が良いかを考えていくしかないのです。そのために何が必要か?・・・というのが今回のテーマです。そして来週のお題は「『正しい訓練幻想』もあるのココロなのだ!」・・・続く

 

2019年9月10日

「正しさ幻想」をぶっ飛ばせ!‐運動と状況性(その5)
 今回は予告で述べたように「正しい訓練幻想もある」について書く予定でしたが、前回アップした内容についての反省と説明に変更しました。
 前回、「見た目の形で歩行を理解することにはあまり意味が無い」と書いてしまって、ある方から疑問を受けました。確かに言葉足らずで誤解を生んだかもしれません。
 もちろん僕達が歩行の形を見ることには大きな意味があります。
 たとえばワイドベースであれば、運動システムがバランスの維持に問題を感じているので、基底面を広げるという問題解決を図っていることがわかります。1点2点歩行であれば、患側下肢の支持性に問題を感じているので健側上肢と杖で患側下肢の支持性を補って問題解決を図っているのがわかります。鶏歩ではつま先が引っかからないように膝を高く挙げることで運動システムが問題解決を図っています。
 必然的に運動システムの作動は結果として形に表れますし、逆に歩行の形を見ることで運動システムの作動を知ることも多く、評価として形を見ることにはとても意味があります。そしてその形に作動の意味を結びつけることでより有効な理解の仕方になります。それを「見た目の形で歩行を理解することにはあまり意味が無い」と書いてしまって混乱を招いたようです。
 僕が前回まで書いていたのは、障害のある方に健常者の歩行の形をモデルに「形をできるだけ近づけるように、似せるように」という目標を掲げること、訓練の評価や目標として「形」だけを取り上げることには、「意味が無い」ということです。
 形を中心に見ているとついつい健常者の形が基準となりますし、ついつい健常者の形が無意識に目標になってしまうこともあるでしょう。
 また障害のある方が健常者の形を真似ることを目標とするのは健常者というマジョリティからの同化主義です。社会的な一つの価値観です。人の運動システムの専門家としての知識や思考から生まれる目標ではありません。
 だから形だけでなく作動の視点からも運動を理解すれば、「健常者の運動の形が正しい」とする幻想から離れられますよというのが本来言いたかったことです。僕自身、まだまだ浅慮で文章表現も不十分であります。反省しつつ、来週から元のテーマに戻ります(^^;)・・・続く

 

2019年9月17日

「正しさ幻想」をぶっ飛ばせ!‐運動と状況性(その6)
 最近では若いセラピスト達は正しいアプローチがあると考えている人が多いようだ。まあ、実際に「○○ガイドライン」のような本が出ていて、お勧めの治療が有効さの段階に分けられて紹介されたりしている。どうも科学的な根拠によって有効さが分けられたりしているような感じを受けるが、まあ、僕にはよくわからない。しかしまあ、悪くないと思う。盲信しなければ、あるいは状況に応じてセラピストが判断できるならば、とても有用だろうと思う。
 実は先日、次のような例があった。
 40代の女性で脳卒中後、両麻痺の状態で全身に過緊張が見られ、アクティブな可動域は右肘のわずかの屈伸と手指を小さな範囲で握ったり離したりできる程度だ。不定期だが1日に何度か全身に強い過緊張が現れ、その間は発熱と大量の発汗がある。真冬でも暖房を切って扇風機の風を当てないと熱くて仕方がないそうだ。
 コミュニケーションは右手の中にこちらの指を入れて質問し、強く握ってもらう。たとえば「痛かったら強く握って」、「痛くなかったら強く握って」と両方の質問をして確かめるのだ。顔面も過緊張のためほとんど仮面様の顔貌になっている。
 うちは老健で、この方は回復期から来られた。この方の回復期でのリハビリなのだが、どうも装具を作って二人がかりでの全介助での歩行練習を何ヶ月も行ってきたとのこと。両足とも尖足変形をしているので、尖足変形に合わせた装具を作っている。報告書に「そちらでも歩行訓練を行ってくれ」と書いてあったので一度試してみると、装具を履かされ二人がかりでよいしょと立たされるわけだから、当然全身の緊張を高くしてますます硬くして、苦しそうに息をしながら耐えておられるという感じだった。当然である。自分では動けない。他人が勝手に持ちあげ、立たせ、手足を動かすのだ。不安や恐怖から身体を硬くするという反応しかできないのだろう。
 「どうして二人がかりで立たせ、無理矢理歩かせる練習をするのか?」と家族やケアマネが前の病院で聞いたところ、「身体の機能は使わせないとダメになる。早期から立つことによって身体の様々な機能は使われ維持される。またそれらの身体の運動の経験は感覚として脳へ伝えられて、脳を活性化する良い刺激になる。脳の血流も増えるんで、脳にとってもとても良いのです」と言われたそうだ。
 「それを聞いてどう思いました?」と聞くと、ご家族が「そう言われればそんなものかと思った。こんな状態からでも歩いていれば歩けるようになれるのかと最初は希望を持てて嬉しかった。でも娘は苦しそうだし、何ヶ月たってもまったく変化していないし、むしろ以前より硬くなって動きも減ってきている。最近では毎日のように発熱と発汗が起きている・・・良くなるよりは悪くなっているのでは?・・でも諦めてはいけないと言われたので・・・・・」と言われた。
 確かに多くの脳卒中患者さんにとって立って歩くことは良いプログラムだと思う。ガイドラインにだって早期から装具を着けて立位・歩行をすることは勧められている。まさしく正解、正しいアプローチのように思える。だけどどんな場合でもとは言えない。
 どんな場合に良くてどんな場合は悪いのか?その判断はやはりセラピスト自身がしないといけないのである。(続く)テム論 #因果関係論 #原因解決アプローチ #状況変化アプローチ #運動システム #CAMR #リハビリ #PT・OTが現場ですぐに役立つリハビリのコミュ力(金原出版)#
 

 

2019年9月24日

「正しさ幻想」をぶっ飛ばせ!‐運動と状況性(その7)
 前回紹介した患者さんだが、尖足に合わせた長下肢装具を作り、それらを毎日装着して二人がかりで全介助で立たせて歩かせるというのは大変な苦労に違いない。PTとしては大変でもやりがいを感じそうだし、毎日良い刺激を与えているという実感もあったかも知れない。
 しかしご家族の言うように、次第に硬さが増して動きが少なくなっていることを軽視するべきではない。繰り返し全身の緊張が高まり、毎日のように発熱・発汗が見られ苦しんでいる様子を軽視するべきではない。
 自分たちの訓練の経過を見ながら良い結果になっているかどうかを判断するのは私たちの仕事の基本だろう。家族の感想に耳を傾けて「状況は悪くなっている」と疑問を持つべきだし、実際、身体の随意的な運動はほぼ右肘と手指のわずかな運動だけだったことにも留意するべきだ。
 だが、ここには「正しい訓練像」に対する盲信が見られたのだと思う。脳性運動障害の原因は脳の細胞が壊れたことだ。だから脳を刺激するという。脳の構造的・機能的可塑性を信じてのことだろう。だが、この「脳を刺激する」と「他動的に二人がかりで立たせる」には納得のできる根拠があるのだろうか?
 僕には「脳は記憶装置のようなものだから、運動感覚を入力すると運動ができるようになる」と盲信しているように思える。まるでキーボードからブログラムを入力するコンピュータのように他人が手足を動かして脳に感覚入力をしているということなのだろうか。
 つまりセラピストの目指している感覚入力とは、立って歩くという感覚入力なのだろうか?いや、そもそも四肢麻痺の重度の方は何度繰り返しても、自力での立位は難しい。それとも残存している健康な脳細胞に感覚入力して、失われた機能を再生しよう(つまり麻痺を治そう)としているのだろうか?どうも釈然としない。
 更に重要なのは自ら動いて試行錯誤を繰り返しているという感覚入力ならわかるが、他人が他動的に無理矢理立位姿勢をとらせているのである。一番大事なのはこの点ではないだろうか?
 他人が無理矢理身体を動かせば、結果は不安と恐れである。この方は重度で運動のために残されたリソースは限られている。だから立たされることに対しては、身体を強く緊張させることだけがアクティブに起こせる反応なのである。セラピストは他動的にでも立たせればやがて立つことを学習すると考えているとしたら、実際に学習されていることはセラピストの意図しているものとは丸っきり違って身体を硬くすることだけなのではないか。手段が目的に適っていないのである。
 まあ、理屈はともかく・・・訓練を継続するに従って、ご家族でも「状況は悪くなっている」と感じていたのに、セラピストはその悪化と思える状況を無視した、あるいは気づけなかった。セラピストは「脳を刺激することが良い」というアイデアを盲信し過ぎていたので家族も気づいている状況の悪化に気づけなかったのではないか?(続く)


2019年10月1日

「正しさ幻想」をぶっ飛ばせ!‐運動と状況性(その8)
 立位訓練を進めるに従って良い状況変化の徴候はまったく見られず、状況が悪くなっている。
 僕は話を聞いたり、状態を見てまず「定期的に過緊張が高まるのは苦しいだろうな。発熱と発汗を繰り返すのは本人にとっては苦しい状況だろうな」と思った。また可動域が非常に小さいことも気になる。棒のように硬くなって動けなくなられている。多様な運動を生み出すための二つの重要な要素は柔軟性と筋力である。まず焦点を当てるべきは過緊張と柔軟性低下の状態だろう。
 CAMR(カムル:Contextual Approach for Medical Rehabilitaiton)というアイデアはシステム論を基にしていて「原因を必要としない問題解決の方法」である。また運動システムを内部の視点から作動を通して理解する。そして作動原理を仮定して、それに基づいて問題解決を進めることを原則としている。
 そのCAMRが提唱する人の運動システムの作動原理に「運動システムは必要な運動課題を達成しようとするし、もし達成に問題が起こると自立的に問題解決を図る」というのがある。
 脳卒中ではまず弛緩性の麻痺が起こる。弛緩性麻痺によって身体は可動性のある骨格が水の袋に入ったような状態だ。つまり重力によって床に押しつけられ、安定するまで広がる。これでは動くことができない。そこで運動システムは自律的な問題解決を図る。身体の中に残存する身体を硬くするメカニズムを探しだし、それらを総動員して身体を硬くするわけだ。こうして支持性を得ようとするのだが、これはCAMRでは外骨格系方略と呼ばれる問題解決だ。(人の運動システムはこのような問題解決方略が他に5種類あると考えられる)
 彼女の場合もその外骨格系方略が強くなりすぎている状態と考えられる。問題解決方略は障害によって多くの身体リソースが失われた状態の中での応急的なあり合わせの問題解決である。上手くいく場合もあるが、重度の場合はむしろ新しい問題を生み出している可能性が高い。つまり今回の患者さんのように硬くなりすぎる、など。
 アクティブな運動がほとんどない中で、二人がかりで立たされるのだ。身体を硬くして反応するしかない。つまり身体を硬くするメカニズムだけが暴走してしまうのだ。運動システムが問題解決のために生み出した解決法が暴走して、簡単に硬くなりすぎることで、柔軟性低下や発熱・発汗、痛みなど「新たな問題」を生み出してしまったのかもしれない。(続く)


 

2019年10月8日

「正しさ幻想」をぶっ飛ばせ!‐運動と状況性(最終回)
 前回述べたように、僕が考えたことは「二人がかりでほぼ他動的に立たせることが却って患者さんの硬さを強めているのではないか?」ということだ。そこで僕はまず両親に僕の考えを説明して納得してもらい、装具を履いての立位・歩行練習を止めていただいた。代わりに上田法という徒手療法を用いて全身の柔軟性を改善することを図った。上田法は脳性運動障害後の過緊張を低下させる徒手療法だ。それまでの徒手療法全般が原因を探してその原因にアプローチするものであるのに対して、原因を特定せず多要素多部位に同時にアプローチするという特徴を持っている。そして柔らかくなり可動域の広がった右上肢で様々なアクティブな運動課題を行ってもらった。
 1ヶ月後には母親から「最近は楽そうになって、表情も穏やかになった。緊張が強くなって震えたり、発熱と汗をかくことが減った。手が前と違って動くようになり、離れたところから手を上げてもらうことで言いたいことがわかるようになった。手で顔を触ろうとするので、クッションを巻いた棒を作って渡すと、自分で顔や耳を掻くようになった・・・・」と喜びの声をいただいた。
 もちろんだからといってこれが唯一の正解の訓練とも思ってはいない。他にも状況を良くする方法はいくつも存在するだろう。
 僕が言いたかったのは、理屈がそれらしいからと盲信して、実際の状況を見なくなるのはとてもマズイということだ。「理論は正しいはずだから」と簡単に信じてしまい、実際の状況を無視してしまうところが怖い。もし状況が良くない、悪くなっている恐れがあるなら、ひるまずに別の治療方略を試みるべきだ。
 なぜなら理論とはある立場から現象を説明するためのアイデアに過ぎない。そんなアイデアに過ぎないものを真実のように思ってしまうところが怖いのだ。ある現象を説明するための立場は一つだけではない。学校で習うような理論の立場は、運動システムを目に見える構造で捉え、ある現象を説明するために要素や部位に分けて、特定の要素や部位が全体の現象の原因であると因果関係による説明を行う。(要素還元論の視点)
 一方CAMRの立場では、運動システムを作動で捉え、ある現象を説明するために要素・部位間の相互作用や関係性から生まれる状況として説明する。(システム論の視点)
 またCAMRでは理論は道具であると考えている。問題の説明と解決のための道具である。道具であれば状況によって使い分けるのが当たり前だ。たとえば地面を掘るにしても砂地ならスコップ、岩だらけならツルハシがより具合がよい。
 つまり二つの理論、要素還元論とシステム論の長所・短所を理解して状況によって使い分けるようになれば良いのだ。そうすれば自分で考え、判断ができるようになる。一つの立場での試みが悪いようなら別の立場から治療方略を立てる。
 もちろんCAMR理論も信じる必要はない。信じることから始めるなら宗教と一緒だからだ。ただ道具としての使い心地、長所と短所を知って状況に応じて使い分ければ良いのだ。しかし要素還元論の視点しか持っていないと要素還元論の視点しか正しいと思えなくなってくる。他の選択肢がないからだ。こんなところから盲信が始まってしまうのではないか。
 セラピストとして二つの理論を道具として持っていれば、一つの現象は「こうも見えるが、あのようにも見える」と1人で理解し、比べることができる。そして二つの視点を比べてどちらの道具がこの場合有効であるかを判断すれば良いのだ。自然に全体の状況を自分自身の目で見て判断するようになるし、状況を見る力もついてくる。
 そうすれば「正しい訓練方法があって誰かが教えてくれる」という「正しい訓練幻想」をあなた自身の力でぶっ飛ばすことができるはずだ。正しい訓練が一つあるのではない。それぞれの状況に応じたより良い考え方と訓練があるだけなのだ。(終わり)次回からは「5回でわかる人の運動システムの秘密-システム論の視点から(仮題)の予定です。お楽しみに!(^^)