状況的アプローチ - 上田法技術を活かすための枠組み(その1)

”状況的アプローチ - 上田法技術を活かすための枠組み(上田法治療ジャーナル, Vol.22 No.2, p59-88, 2011) ”
 これから紹介するのは、上田法ジャーナルに掲載された西尾の論文です。全体は長いので、幾つかのバートに分けて紹介していきます。今回は1章から3章までです。尚文献リストは、最後のパートでまとめて紹介します。

状況的アプローチ
-上田法技術を活かすための枠組み
                葵の園・広島空港 理学療法士 西尾 幸敏
1. 技術は枠組みによって生み出す意味や価値が異なってくる
 上田法は、「脳性運動障害者の硬くなった身体を柔らかくし、柔軟性を改善するための技術」である。技術はそれ単独では、どのような価値や意味を生み出すかを決定しない。
 たとえば核融合の技術は高エネルギーを生み出す技術だが、国家戦略とか国同士の争いという枠組みで見ると原子爆弾という恐ろしい兵器を生み出すことになる。一方でエネルギーの日常生活での利用という枠組みで考えれば原子力発電所となる。(もっとも最近、原子力発電所は恐ろしい諸刃の剣であるということを改めて実感したが・・)
 つまり技術はその使われる枠組みによって、その生み出す意味や価値が異なってくる。上田法技術も当然ながら、どんな枠組みで使われるかによって、その生み出す意味や価値は変わってくる。
 さて、上田法技術を使う主な枠組みに二つある。階層型理論とシステム理論である。これらは「人がどのように運動をコントロールするか?」を説明するための理論的枠組みである。階層型理論を基にボバース法などの神経生理学的アプローチが生まれ、システム理論を基に生まれたのが課題主導型アプローチやここで紹介する状況的アプローチである。

 ここでは最初にこの2つの枠組、階層型理論とシステム理論、それぞれを基にしたアプローチを簡単に紹介しながら、上田法技術がどんな意味や価値を生み出すかを検討したい。
 また状況的アプローチについての詳しい説明を試みたいと思う。状況的アプローチは、ここ10年間の僕の臨床経験を基に、システム理論を枠組みとしてまとめてきたアプローチである。そのためここでは科学的、というよりは僕の臨床経験のまとめとして書かれている。多少の科学論文の引用などもあるが、多くは僕の日常生活や臨床家としての経験を基に書いている。
 この読み物が、有名な観光地の定番ツアーというよりは、ちょっとツアーコースから脇道に逸れる小さな冒険旅行であると思う。パンフレットに載っているような景観は見られないかもしれないが、小さな発見の楽しみがあるのではないか、と信じたい。
 そして多くの臨床家に読んでいただき、内容に検討を加えていただきたいし、大いに批判もいただきたいと思っている。一方で科学的な枠組みでの臨床研究の新しい方向性を少しでも示すことになれば幸いであると密かに(と書いてしまったが)思っている。
2. 理論はアイデアにすぎない
 この二つの理論について論じる前に、理論について少し考えておく必要がある。
まず理論とは「ある現象を説明するためのアイデア群」である。あくまでも「アイデアであって事実ではない」ということを肝に銘じておく必要がある。アイデアに過ぎないものを「事実である」と考えてしまうことでしばしば問題が起きる。
 「理論は正しい」はずだから、「結果が思うとおりにならないのは患者にやる気がないので」とか「私の技術が未熟なので」と他人や自分を責める光景をよく見てきた。しかし理論が間違っている可能性も大きい。
 次に大事なことは、理論は作業を進める上でとても便利な道具である。現象を説明できるので、それに沿って解決案や次の計画を導き出すことができる。そしてその計画に従って行動することができるからである。もちろんその解決案が間違っているかもしれないことは、いつも心に留めておく必要がある。
 以下では、理論は「作業を進める上での便利な道具」である、という視点で進めていく。これから階層型理論とシステム理論の二つを比べていくが、「どちらが事実に近いか?」という見方はここではしない。もう60年以上もそんな議論がされているので、ここで結論が出るとも思っていないからだ。
 むしろ二つの理論を臨床で使う時に、どちらが便利か、使い勝手が良いか、どちらが患者様にとって安心か、などの視点で論ずるつもりである。道具であると仮定すれば、そんな見方も許されるはずだ。
 ではまず階層型理論の方から紹介したい。こちらは皆さんにとってもお馴染みのアイデアなので理解しやすいと思う。
3.階層型理論と上田法技術
 階層型理論では、脳が運動の絶対的コントローラーで、脳の中に運動をコントロールするプログラムが形成されて、それが身体を操ると考える。階層型理論を枠組みとして生まれたアプローチにはボバース法や最近ではテレビで紹介された川平法1)などが知られている。
 脳性運動障害では、脳内の運動プログラムが壊れてしまった、と考えるので、これらのアプローチでは改めて運動を教えようとする。つまり感覚入力によって脳内に新たな運動プログラムを構成しようとする。
 ただ、どうせ教えるなら「より効率的で、きれいな運動が良い」と考えるだろう。そこで健常者の運動が規範とされる。さらに僕のように猫背で脚を引きずって歩いている中年男の歩き方よりも、希望に輝いた若人のはつらつとした歩き方をお手本にしようよ、というのは自然の流れだろう。(注1)
 わざわざ麻痺のある方の特異な運動パターンを規範とすることはない。それどころか、それらの運動は「代償的」とか「異常な」とか言われて、抑え込まれる傾向がある。異常な運動はできるだけ経験せず、健常者の典型的な運動だけを規範として経験するように考えられている。経験した運動が感覚として脳内に入力され、プログラムを形成すると考えるからだ。
 こうして階層型理論を基にしたアプローチでは、セラピストが患者に正しい運動(健常者の典型的な運動)を教えるので、両者の間には「指導する側」と「指導される側」の関係が生まれる。さらに言えば、人は間違った運動を憶える恐れがあると考えられるので、セラピストは患者の生活の色々な場面に目を光らせるようになり、「管理する側」と「管理される側」の関係と言っても良いだろう。
 このような脳性運動障害者の特異な運動を否定して、多数派である健常者の運動を押しつける、という階層型理論を基にしたアプローチを、熊谷は「少数派(脳性運動障害者)に過剰適応を強いる(多数派からの)同化的な発想のリハビリテーション」2)と述べている。
 熊谷自身、痙直型の四肢麻痺であり、小さい頃からボイタやボバースの訓練を受けてきた。麻痺があるのでできるはずもない健常者の運動パターンを規範として模倣するよう要求されて挫折したり、不条理さを感じたりしたことをその著書「リハビリの夜」で述べている。
 本来、人の運動システムは物理的なシステムだから力学的法則に従って動くはずなのに、「障害者の運動は非効率的(あるいは見栄えが良くない)、憶えるなら健常者の運動の方が良いだろう」みたいな社会的な価値観をまずルールとする訳だから無理が生じる。
 それも「管理する側」と「管理される側」の関係の中で、できるはずのない健常者の運動に近づくように要求されるのは、とても苦しい経験だろう。
 階層型理論とシステム理論、人の運動コントロールにおいて、どちらがより正しい理論かをここで論ずる気はないと最初に述べた。が、階層型理論を基にしたアプローチ(健常者への同化的な発想と結びついたもの)が脳性運動障害者にとって優しくない枠組みであることは確かだろう。

 さて階層型理論を基にしたアプローチの枠組みで使われる上田法技術は、健常者の運動を模倣するために「脳性運動障害者の筋のこわばりをとり、健常な運動に近づくため」に使われることになる。このアプローチでの目標は、あくまでも健常者の運動に近い運動を経験して、その感覚を脳内に送り込み、その運動プログラムを作ることにあるからである。
注1 階層型理論そのものが健常者の運動を規範とするという必然性はないのだが、階層型を基にアプローチを組み立てていく過程で、健常者への同化的な発想と結びついた物と予想される。