運動世界の三つの物語(その4)

運動世界の三つの物語(その4)(上田法治療ジャーナル, Vol.23 No.2, p71-91, 2012) ”
 今回は、二つ目のおとぎ話の簡単解説です。長いです。(^^;)
 
 それでは、始めます。  

運動世界の三つの物語
葵の園・広島空港 西尾幸敏

【運動共和国物語の簡単解説】
 運動共和国では王国に比べて登場人物に違いがある。王国の登場人物の名前は皆身体の構造を示す名前で呼ばれる。骨、関節、内蔵器などに由来する。王国は、人の皮膚の内側に存在する器官によって成り立つ。つまり運動システムは身体の内側だけに存在する、と考えられているからだ。一方共和国では、パワ家(筋力)、サポ家(支持性)、フレクス家(柔軟性)、エド家(持久力)センソ家(感覚入力)など、構造物の名前ではなく、運動に関する機能や性質で呼ばれる。(ニューロ家の兄弟は、王国との対比のためそのまま構造名にしている)
 というのも運動共和国はシステム理論を基にしている。システム理論では、運動システムとは「運動に関する機能のつながり」のことである。解剖学的なつながりではない。だから運動システムを構成する要素は、器官の名前ではなく、機能で呼ばれることになる。それどころか皮膚の外側にある運動リソース(環境内にある様々なものや人)も必要に応じて運動システムとなる。床を歩くときは床が運動システムの一部だし、僕が「やあ」と手を挙げて挨拶するときは、挨拶された人も僕の運動システムの一部である。運動システムの作動に関係するものは全て、運動システムの一部と考える。だから、運動システムの大きさはいつもその場の状況に応じて変化する。車を運転するときは、50メートル先の信号は僕の運動システムに入るが、ベッドで本を読むときは、本とベッドと布団など数メートル以内のものが僕の運動システムとなる。
 正義と悪の対決はないものの、共和国物語も成長の物語である。特に筋力や神経系の調整機能は、後天的に作られていく部分が多い。生まれてすぐに重力の中で身体をどう動かすかを学んでいかなければならない。誰に教わるでもなく、重力に逆らって動き出し、歩き始める。無限の状況変化は、常に僕たちに「適応的に運動を変化させなさい」という運動問題を突き付けてきている。僕達1人1人の歴史は、運動問題解決の発展の歴史でもある。

 さて共和国のメンバーはとてもチームワークが良い。1人1人が献身的で、回りのことを考えながら協調して仕事をしていく。コルテが病に倒れたときは、筋の緊張や筋力が失われ、立つことさえできなくなる。過剰な柔軟性が目につく。そこでニューロ家の長兄スパイナが頑張って伸張反射を亢進したり、パワ家のビスエラ(筋の粘弾性システムvisco-elastic system)が頑張って筋緊張を生み出す。だが彼の生み出す筋緊張は状況に応じて細かな調整が利かないため、「悪い筋緊張で、正常の運動が出現するのを邪魔する」と誤解されたりする。
 いずれにしても人が歩いたり様々な動作ができるのは、常に体幹や頸部などを適度な硬さで姿勢保持できるような背景での筋緊張の調整が必要である。コルテが倒れることによって、普段背景で働いている機能が過剰に働いたり、背景ではなく前面に目立つようになる。こうなってくるといつでも動き自体が制限され、次第に動かない身体になっていく・・

 システム論を基にした「状況的アプローチ」では、筋力や柔軟性、持久力、環境などは運動のためのリソースとして考える。脳卒中後には麻痺が広範に見られるが、それは筋力というリソースが貧弱になったのである。筋力がなくなると手足の動きがなくなり、動きがなくなると感覚という入力も貧弱になる。麻痺側の感覚低下があるのはそのためである。
誤解して貰っては困るが、伸張性反射の亢進や粘弾性システムの過剰な働きが、正常な運動の出現を邪魔している第一のものではなく、それらは代償に過ぎない。一番の原因は神経筋活動が失われて、力が出なくなってしまうこと、つまり神経筋システムを使った筋力という運動リソースの低下あるいは消失である。
 また伸張反射の亢進や粘弾性システムの過活動によって筋肉は硬くなり、柔軟性というリソースも失われてくる。さらに長期に渡って動きがなくなると、廃用性の硬さ(拘縮)も発生して、ますます動かない身体になってしまう。
 状況的アプローチではまず貧弱になった運動リソースを少しでも豊かにしようとする。まず一番は柔軟性を改善する。柔軟性は運動範囲を広げ、潜在的な神経筋活動を呼び覚ましたりするのに効果がある。また動くことによって感覚入力の流れも出てくる。
 伸張反射の活動や粘弾性による筋の硬さも大事なリソースで、邪魔者扱いをする必要はない。まず柔軟性を改善し、適切な運動課題を重ねて、筋の硬さに関する再組織化を図っていくのが基本方針だ。実際、潜在的なリソースがあれば、以前とは違った作動をして、新しい運動スキルを生み出すかもしれない。(この具体的な例はたとえばTaub等の「不使用の学習」(1)がある。紙数の関係から詳述は避けるので章末の文献を参考にして欲しい)
 また仮に粘弾性システムを使って再び支持性を得ようとするなら、それはシステムの選択であり、セラピスト側が口を出す問題ではないと考える。
 運動課題を選ぶ条件の一つは、まず日常生活で実際に役立つような運動課題を選ぶことである。たとえば「歩く」という目標があるのなら、歩けば良いのだが逆に注意も必要だ。いつも同じ場所を同じように歩くと、歩き方は次第に洗練されてくる。つまり動きに無駄がなくなる。それはそれで良いことだが、実はエネルギー消費や筋活動量は最小になってしまう。そうするとリソースを豊富にする、という目標を達成することにはならない。これはある一つの環境下での運動の洗練を得ただけなのである。
 豊富なリソースとは大雑把に言えば「余力」のことである。余力があれば状況変化に対応することができる。筋力・持久力を豊かにするためには、様々な課題で量的・質的に豊富な筋活動を繰り返して余力を増やしていく必要がある。
 たとえば在宅のお年寄りが安定して暮らしておられる。転倒経験もない。ただ寒くなってきたのでこたつを出したら、こたつ布団の端に足をかけて転んでしまった、という話がある。在宅で変化のない生活をしていると、次第に動きは洗練されてくる。また無駄な活動はしなくなる。そしていつのまにか余力が失われてしまうのである。そしてある日こたつ布団の出現という環境変化が起きたときに対応できなくなってしまうのである。
 状況的アプローチでは、もう一つ運動スキルのことを考えておく必要がある。運動スキルとは、運動リソースを利用して運動課題を達成するための身体の使い方である。運動スキルは多彩な方が良い。つまり体の使い方を変化する状況の中で、様々に使えるのは、多彩な運動スキルのおかげである。その多彩な運動スキルが成り立つためには、豊富な運動リソースが必要なのである。中枢神経系は様々な状況の中で、多彩な運動リソースを用いて様々な運動スキルを駆使し、課題を達成していくのである。
 たとえばうどんを食べるとき、箸で食べれば良い。箸というリソースが無ければフォークでも、あるいはスプーンでも二本あればなんとかなる。何も無ければ冷めてから指で食べても良い。リソースは自由に置き換えることができるし、それぞれの運動リソースを使う運動スキルも自由に置き換えることができる。同じ課題を達成できるという意味で、箸もフォークも2本のスプーンも等価であり、それぞれの運動スキルも等価である。当然それらの選択肢が増えれば、状況変化に対する対応力も増える。
 だから運動リソースを豊富にするだけでなく、運動スキルを多彩にする意味でも同じ状況下で同じ運動課題ばかりしていてはダメである。それでは一つの運動スキルが洗練していくだけだ。一つの洗練した運動スキルだけでは、状況変化に対応できない。箸がなくなればうどんは食べられなくなってしまう。だから様々な環境変化を経験しながら、沢山の運動スキルを切り替えていく練習をする必要がある。(イヤ、もちろんこれは例として出したものでうどんはやはり、箸で食べるのが美味い)
 こうして運動課題の選択条件がはっきりしてくる。実際的な運動課題を選ぶこと。たとえば「歩く」ことが目標なら歩けば良いが、世界というものは無限に変化に富んでいる。だから、実際的と言うことは、様々な変化に富む環境の中で様々な条件下で、適応的に運動スキルを変化させながら歩く練習をするような課題を設定することである。
 ただこれは現実にはなかなか難しい。僕の勤める施設は山の中にあるので交通量が少なく、坂道やアスファルト路、道路の縁石、芝生、草むらなど安全に練習できる場所も多い。が、都市部の小さな訓練室では、環境を用意するだけで大変である。また訓練時間が1単位20分しかない中で、様々な歩行環境や歩行条件を整えるのも大変である。
 そこで訓練室レベルで手軽な実際的な運動課題を考えてみる。たとえば運動スキルには「転化」という現象が見られる。冬季オリンピックのメダリスト、スピードスケートの橋本聖子選手が夏のオリンピックの自転車競技に出たのは皆さんもご存知だろうか?なぜかスピードスケートのスキルは自転車競技のスキルに転化する。つまり転化は似た形の運動間で起きるのではなく、良く似た機能の運動間で起きると考えられる。たとえば両競技で似た機能とは「道具を使った狭い基底面内で動的なバランスを保持しながら、さらに両下肢に強い踏み伸ばしを交互に生み出す」ということである。
 これまで何度か紹介してきたが、僕の勤める施設ではより多様な歩行スキルに転化すると思われる沢山の運動課題を用意している。実習生でもその運動課題リストに従って、訓練をすると歩行速度や安定性は改善してくる。状況や環境を変化させるのも簡単である。これによって20分という個別の訓練時間を有効に使うこともできる。
 もう一つ運動課題を選択するための基準は、できる課題から始め、徐々に挑戦的な課題に移行していく必要がある。できる課題を積み重ねることは、自信や意欲につながる。できるにしたがって徐々に挑戦的な課題に移行するが、それでもある程度の成功の見込みの高いものの方が良い。
 また特に病気によって急激に身体が変化した後は、自分の身体がどうなっているか分からないものだ。何ができるか、できないかを探るための多様な課題を、多様な環境・状況の中でやってみることは役に立つ。これらは「探索的な課題」と呼んでいる。いつかまとめて紹介したい。
 さて柔軟性というリソースを徒手で改善し、筋力や持久力というリソースを豊富にすると同時に運動リソース・運動スキルを多彩にするための課題を提供すること。それをやり遂げ、積み重ねることが状況的アプローチの基本的内容である。まあ、言ってしまえばそれだけだ。
 運動スキルは、患者自身が見つけ学習していくものなので、セラピストが教えることはない。もちろん課題の失敗・成功に関するフィードバックや簡単なアドバイスは行うかもしれないが、患者の運動を修正したり、管理したりはしない。
 根本にある考えの一つは、人は生まれながらの運動問題解決者である、ということである。人の運動システムは、基本的にその場その場でベストを尽くしている、と考える。だから間違った運動をしているのではない。「間違った」と考えるとその時点で修正や管理をしたくなる。だから「間違った」とは考えない。「間違った」ではなく「貧弱な運動リソースの運動」と考える。あるいは「使われていない運動リソースに気づいていない」と考える。
 ベルン(Bernsteinのこと)が次のように言う。「学習とは過去の再現のためではなく、未来の問題に対処するための準備じゃよ」(2)つまり運動リソースを増やし、運動スキルを多彩にすることは、次の新しい状況の中で、相応しい運動課題のやり方を新奇に創造するときに役立つ。同じ課題を達成するのに、過去のうまくできたやり方が、状況の異なった未来に通じるわけではない。しかし課題を達成するための、その場で一番相応しい方法を沢山の選択肢の中から新たに工夫して置き換えることはできる。そのための準備だ。
 だからできるだけ運動リソースを豊富にすることを考える。豊富になった運動リソースを多彩に利用するための課題を沢山出して、運動スキルを多彩にするのである。そしてどのような運動スキルを獲得・選択されるかについては口を出さない。課題達成の方法が増えれば良いのである。これが状況的アプローチの基本姿勢である。

文献
・(1)Taubらは「不使用の学習」というアイデアを提案している。より効率的に課題を達成する過程で、使えるはずの運動リソースを使わないことを学習する可能性を述べている。
Taub E, et al.: Technique to improve chronic motor deficit after stroke. ArchPhys Med Rehabil, 74: 347-354:1993.
・(2)の部分は、以下の文献の「訳者後書き」の中の一文をベルンのセリフに書き換えたもの。語尾を「じゃよ」などと書き換えて申し訳ないです。
ニコライ・A・ベルンシュタイン;「デクステリティ 巧みさとその発達」,工藤和俊訳,佐々木正人監訳,金子書房, 2003.