医療的リハビリテーションで使われる二つの理論的枠組みの違い
-2つの異なる理論的枠組みから見る上田法 -
葵の園・広島空港 理学療法士 西尾幸敏
(上田法治療ジャーナル, Vol.24 No.1, p3-35, 2013) ”
続きです。まだまだ続きます。
医療的リハビリテーションで使われる二つの理論的枠組みの違い
-2つの異なる理論的枠組みから見る上田法 - その7
葵の園・広島空港 西尾幸敏
3.CAMRの反論-従来的アプローチの枠組みに対して
③形にこだわることの罠
テレビを見ても、盛んに「正しい運動の仕方を専門家の先生が教える」と言った内容の番組が後を絶たない。社会全体で正しい運動の形があり、専門家がそれを指導するべきと考えているようだ。
リハビリももちろんその傾向が強く、健常者の運動をモデルとしてその「正しい動き」をセラピストがクライエントに教え、繰り返し練習しようとする試みはよく見られる。健常者の動きを繰り返せば、それが感覚入力として脳に記憶され、自然に健常者の動きを再現出来ることになると考える人もいるようだ。
しかし脳性運動障害の場合、クライエント自身が健常者の動きを再現することはできないので、セラピストが介助して、その形を真似させることが行われたりする。こうなると他人に動かされた体の感覚を入力していることになるので、いくら記憶したところで自分で体を動かすようになるとは思えない。
これは完全に目標と手段のズレを生じている。次のようなアメリカンジョークがある。
外灯の下で何かを探している酔っ払いに、警官が声をかける。「何かお探しですか?」「鍵をなくしたんだ」と酔っ払いが答える。「ここでなくしたんですか?」と警官が問うと酔っ払いが「イヤ、落としたのはあっちの暗いところだけど・・こっちの方が明るくて探しやすいからね」
探しやすさを優先して、灯りのある場所を選んでしまったように、運動の形を再現することを優先して、他人が体を動かしてしまった、ということではないか。
またひたすら同じ形の運動を繰り返すのだが、これも変な話である。健常者の運動は状況変化に応じて、どんどん形を変えてでも機能を維持しようとする。たとえば歩行なら、屋内、坂道、砂利道、氷の上、砂の上などと状況が変化するに連れて「歩行の形を変化させてでも歩行という機能を維持」しようとする。これが健常者の運動システムの特徴である。
それなのに、様々な状況変化に対してたった一つの運動の形を教えて、それで乗り切りなさい、というのは変だろう。実際たった一つの歩行の形で、様々な状況を歩いている健常者はいないのである。「一つの運動の形を再現する」というのは、形にこだわった科学から生まれた「誤った目標」ではなかろうか。
従来の運動科学が運動の形にこだわってきたので、学生向けの教科書にも、健常歩行は運動の形を基にしたものが紹介されている。立脚期と遊脚期の割合だとかである。この状況の中では、誰もが自然に目標を「運動の形」にしてしまう。
あるいは「間違った形を憶えてはいけない」とクライエントに対して非常に管理的・支配的になってくる場合もある。日常生活で1人で歩くと間違った形を憶えやすいから、歩くのは訓練場面だけとし、普段は歩くことを禁じられたこともあった。
しかし形はむしろ変化して当然である。障害があれば、運動システムの中身が健常者とは異なるので、同じ形になるはずがないし、なる必要もない。障害によって変化した運動システムの中で、形を変化させてでもなんとか歩行という機能を生み出しているのである。
CAMRでは健常者の歩行の特徴が、状況変化に対して形を維持することにあるのではなく、機能を維持するという性質に基礎を置いている6) 。そして状況変化に応じていかに機能を維持するようになるか、という目標を立てるのである。