実用理論事典-道具としての理論(その1)

実用理論事典-道具としての理論(その1)
 国立呉病院附属リハビリテーション学院(廃校になりました。今はありません^^;)
         理学療法士 西尾幸敏
(上田法治療研究会会報, No.18, p17-29, 1995) ”
 これは当時上田先生から教えられた本などを自分で読んでは気づいたことをメモしたものをまとめたものです。

 早い話、僕の勉強ノートで人前にさらすものではないのでしょうが、上田先生の勧めで他人に読んでもらうことを前提に書き直しました。僕にとっては勉強になりましたが他人は読んでどう思ったのでしょうか?・・・今少し読んでみると未熟で不遜、鼻持ちならないところもあって全てはとても読む気になりません。でもまあ、こんな感じでした・・・というところです。なぜかさらけ出そうという気になったのです^^;


これを機にこれを機に

 

実用理論事典-道具としての理論(その1)
           国立呉病院附属リハビリテーション学院
                       西尾幸敏

はじめに
 普段は明るい親友のA君の元気がないとする。ふさぎ込んで口もきいてくれない。あなたはいくつかの理論、つまり現象を説明するためのアイデアを考えるだろう。酒の飲み過ぎか、彼女に振られたか、病気にでもなったか。あなたはこれらの理論に基づいて行動を起こすだろう。たとえば、近づいて臭いを確かめる。酒臭くなければ、彼の女友達に電話して事情を聞くかも知れない。特に問題がなければ、あなたは病気を疑い、彼を病院につれていこうとするだろう。
 理論は、「自然現象や社会現象がどうして起きるのかを説明するための抽象的なアイデア」である。私たちはそれを基に解決手段を導き出すことができる。つまり、理論は問題解決の道具と考えることができる。
 臨床家にとっては、理論を道具とみなすことは都合がよい。理論の真偽を気にしなくて済むからだ。ある現象を説明するために二つの理論が存在するとする。しかし道具として考えるならば、どちらの理論が真実に近いとか考える必要はない。道具であれば用途によって、向き不向きがあるのが当然である。スープを飲むならスプーンが良いし、肉を食べるならフォークがよい。つまり真実に近いあるいは近くないなどと思い悩まなくて済む。単に使い方の問題と考えれば良い。
 結局どのような旧式の理論でも、うまく使える場面があるはずだ。逆にどのような優れた理論にも限界がある。道具としてうまく使うためには、使用目的と向き不向き、使い勝手を十分理解しておく必要がある。この実用理論事典の目的は、臨床でまだ十分に道具として利用されていないアイデアを、臨床家が徹底的に道具として使用できるよう紹介することである。そうして、それを基に新しい評価法や訓練法のアウトラインを創り出していこうと思う。そのために、紹介されるアイデアは長所と限界が徹底的に追及されていくだろう。
 はっきりさせておきたいのは、私の立場である。ここで紹介される視点や理解の仕方は、あくまでも私自身のものである。つまり一理学療法士の、そして学問的には素人の意見だ。しかも私自身はどちらかというと、自分のお気に入りの道具なら、誰彼構わず勧めてしまう人間である。セールスマンに近いのかもしれない。「どうぞお使いになってみてください。決して損はさせません。」と言うわけである。もっと学問的なものを望まれる人は、最後に挙げた文献を参考にして欲しい。
 事典の最初の項目は、「アフォーダンス」から始まる。上田先生からの勧めでもあり、また私自身にとって、現在最もお気に入りの道具の一つである。普通の事典と違って、項目はあいうえおの語順に並べられたりしない。また、同じ項目が何度も繰り返しでてくる。一見すると無秩序に見えるが、ある秩序に従って書き進めてみるつもりである。



アフォーダンスaffordance(その1)
 私が何か書くときは、女房にそのアイデアを聞いて貰い、意見を聞くことにしている。彼女は養護学校の教員で、しばしば貴重な意見をくれる。今回、アフォーダンスに関する意見をまとめて聞いて貰った。彼女はいくつか質問を繰り返した後で次のように言った。「なんだか、たわごとにしか聞こえないわね。」
 アフォーダンスというアイデアを生み出したのは、ギブソンというアメリカの知覚心理学者である。彼のアイデアは全く理解しがたいところがある。「認知心理学の父」と呼ばれたナイサーが、ギブソンとの出会いを以下のように紹介している。
 「初めて会ったとき、私は彼が単なる利口な人だと思っていました。やがて時が経つにつれ、『まったく、なんて彼は頑固なやつなんだろう。どうして<情報は光の中にある>なんていい続けているんだ?彼は議論が好きなだけなのさ。』と考えました。その後三年、ある真夜中に、私は、彼が正しいと気づいて、飛び起きました。情報は光の中にある。だって、その他のどこにあり得るんですか。」
 ナイサーでさえ、理解するのに三年の月日がかかったのだ。私がうまく説明できず、女房が「たわごと」と感じても無理がない。
 佐々木は以下のように述べている。「ギブソンには『読んで理解する』範囲を越える部分がある。始めは何度読んでもなかなかわかった感じがしてこない。しかし、時間をかけて繰り返しその考え方につきあっているとじわじわと変化してくる何かがある。そして、いつか、それまでとはまったく違う世界を見ていることに気がつく。」
 私自身、現に理解しているとはいいがたい。それにも関わらず、紹介しようと言うのだから、あつかましいと思われるかも知れない。しかし、先に述べたように理論は道具なのである。道具は使う目的や名前を知っているだけでは駄目だ。道具を理解するためには、使ってみるしかない。私自身にとって「アフォーダンス」を道具として使う第一歩は、これで他人を説得してみることなのである。こうしてアフォーダンスの使い心地を試してみたいのだ。
 さてアフォーダンスだが、やはりまともに説明しても「たわごと」としか受け取られないに違いない。これからしばらくアフォーダンスを理解しやすくするために、他のアイデアをいくつか検討してみようと思う。(アフォーダンス2に続く)


還元主義reductionism(その1)
 成人片麻痺患者の歩き方を理解してみよう。現在の臨床での普通のやり方は、まず歩行を良く観察することから始まる。そして一般的な歩行と比べて、どこがどう違うのかが記録される。そしてそのような違いがどうして生じたのかを考えていく訳だ。
 手がかりとして、患側下肢の麻痺の程度が調べられる。連合反応や各反射の影響、平衡反応・立ち直り反応の消失のレベル、患肢の粗大筋力や健肢の筋力、関節可動域などが調べられる。さらに感覚や認知の検査が行われる。動機や意欲も評価されるかも知れない。
 上に調べられた検査項目は、一枚一枚の紙に記され、カルテに挟まれる。熟練したセラピストがそのカルテをぱらぱらとめくると、どうしてその片麻痺患者がそのような歩行をするのかが、直感的にわかるらしい。もっとも学生や経験の浅いセラピストには難しい。私にも難しい。そこでこのやり方がさらに将来進歩したと考えてみよう。
 このやり方のポイントは、歩行を構成する色々な要素に分け、そのそれぞれの要素がどのように振る舞っているかを明確にするところだ。たとえば滑らかな平地歩行で、ある患者さんの歩行には、体幹機能の低下が70%の影響力を持っている。患側下肢の麻痺が15%、健側下肢の筋力が10%、意欲その他が5%の影響力を持っている、といったことが明確になったとしよう。
 仮に上のような割合が明らかになれば、患者さんの歩行を変化させるためには、体幹の機能を改善しなければ意味がなくなる。何しろこれが患者さんの歩行に70%の影響力を持っているのだから。最初に10%にすぎない健側下肢筋力などに働きかけようとは思うまい。体幹の安定性が得られないために、代償的に下肢の痙性による尖足を強めるなどと考察すれば、まず体幹の安定性こそが重要な課題となる。
 このような考え方は還元主義と呼ばれる。たとえば片麻痺患者の歩行パターンなどは、それを構成する様々な要素からなる複雑な現象であり、これを理解するのは並大抵ではないと思われる。しかし、その複雑さは表面的なもので、より基本的で大きな影響力を持った要素、より重要な働きをする要素の振る舞いを理解できれば、その根元的な性質を理解できるとするような考え方である。上の例では、体幹の機能低下が最も重要な要素であり、それによって様々な歩行の性質(尖足、膝のロッキング、分回し歩行など)が説明できると考えるのである。つまり体幹機能に原因を還元(より根元的なものとして他の要らないものを切り捨てること)しているのである。
 この考え方は、比較的原因のはっきりしている疾患では有効である。たとえば下腿骨折後に長期間ギプス固定をしている患者さんの問題点なら、私たちは比較的簡単に挙げることができる。つまり筋力低下と関節可動域低下である。もちろん意欲や痛みも大事な要素だが、多くの場合は筋力と関節可動域の改善によって患者さんの運動を改善することができる。一般にはこの二つに原因を還元することによって、私たちは分析に時間やエネルギーを使うことなく短時間に患者の問題を改善できるわけだ。
 長い間、脳性運動障害においても還元主義が支配的であった。脳性運動障害の原因は、様々なものに還元されてきた。筋緊張の異常や姿勢反射の異常、相反性メカニズムの異常などだ。ボバース法はまさにこの3つの要素に原因を還元してきたと思われる。上田法は一面では、過緊張に原因を還元してきたように思う。
 この還元主義に対する反論は以下のようなものである。世の中の多くの現象は、様々な要素からなり、その相互作用の結果である。たった一つのあるいは少数の原因に還元しきれるものではない。ある原因に還元している中では、切り捨てられてしまう大事な要素があるのだ、と。また複雑なシステムでは、ある現象を決定するような重要な要因は、場面場面で変わってくることがある。Aという場面ではBという要因が、Cという場面ではDという要因が決定的な役割を演じるかもしれない。
 先の歩行の例を考えてみよう。体幹機能の低下がもっとも重要な役割を演じていると考えられるなら、セラピストは自然にその点に集中する。こうしてはからずも、他の部分は切り捨てられてしまう可能性が高い。一見すると重要な要素に集中しているようだし、問題もないと思われるが、状況が変われば全体のイメージも大きく変化してくるのである。そのような例を以下に挙げてみよう。
 私の父親は片麻痺である。彼の歩行を決定する要因はしばしば変化する。家の前には急な坂道があり、退院以来そこを歩いたことがない。「自分には急すぎる。」というのだ。さて私はPTでありながら、家庭内で訓練などしたことがない。しかしあまり母親がうるさく言うので、私は訓練をすることになった。父親はよほど嬉しかったらしく、随分一生懸命に動いた。私の指示通り、「やってみよう」と言い、その急な坂道を降りて登った。
 まだある。自転車と壁の間の細い通路を前にして、父親は「わしはここを通れん。自転車を倒すじゃろう。」と言った。私の返事は、「横向きに歩いたら?」だ。父親は少なくとも家に帰ってからは、横歩きの練習などしたことがない。父親は思案した上、健側・患側それぞれの方向への横歩きを試した。結局、「通れるかもしれんのう」と言い、健側方向への横歩きで通り抜けた。
 つまりこれらの例が示しているのは、歩行に大きな影響を与える決定要因は、場面場面で変化するということだ。急な坂道では意欲が、狭い通路では、どのように体を使うかという運動戦略が重要な決定因となったことが考えられる。麻痺の程度や健側の筋力は変化していないからだ。ある場面で、最も重要な構成要素が決定されても他の場面では違う構成要素が重要な働きをするかも知れない。
 「何だ、ごく当たり前のことを言ってるじゃないか」と思われる人もいるに違いない。経験豊かな臨床家ほど、障害に対しては還元主義的なアプローチを取りながらも、患者さんの顔色や意欲や生き甲斐のようなものを決して軽視しない。患者にとって重要な要素は、身体の問題、ましてやたった一つの要素だけではないことを知っているからだろう。そんな人にとってみれば、当たり前のことを言っているにすぎない。しかし、患者さんの意欲があろうがなかろうが、訓練室に来た途端、顔色も見ないでひたすら姿勢反応の促通をしたり、麻痺側下肢の筋緊張の異常にアプローチするセラピストも多い。
 それでも還元主義的な方法は魅力的である。特に固定的な関係を持った現象を理解するためには、還元主義は都合がよい。たとえば水を理解するために、酸素と水素からなる分子構造に還元することができる。「なるほど、水は酸素と水素からできているのか」と思えば、なんだか水のことがわかったような気になるから不思議だ。逆に酸素と水素から水を作り出すことも可能にする。なんと有意義な理解の仕方であろうかと思えてくる。
 それでも私たちが実際に知っている様々な水の性質、濡れる、滲みる、流れるなどといった実感とは随分かけ離れた理解の仕方だ。私たちは実際にはもっと違った方法で水を良く理解している。手を浸す、色々な器に入れてみる、浴びる、飲む、温度を変えてみる、など。
 同様に脳性運動障害、たとえば歩行をその構成要素に分解することは有意義かも知れないが、構成要素に分ければ分けるほど人の運動の特徴は、私たちの実感からかけ離れてしまう。過緊張の分布や関節可動域、健側筋力を調べたからと言って、そのバラバラの情報から歩行の様子を想像することは難しい。
 さらに、人の歩行の構成要素の振る舞いやその関係は水の構成要素ほど、一定した物ではない。常に変化し、捉えどころのない振る舞いであり、関係である。そんな複雑な関係をバラバラにして、より複雑な分析を行うなどナンセンスである。
 ある現象が様々な構成要素の結果であると言うことはみんな知っている。しかしいくつの構成要素が関係していようと、でてくる結果は、結局一つなのだ。わざわざ構成要素に分解しなくても、その結果がどのような物かを理解する方法があるのではないだろうか?たとえば幼い子どもは、水が水素と酸素からできていることを知らないが、生きていくために水がどのような物かをちゃんと理解しているように。その理解のための方法の一つがアフォーダンス理論かも知れないと私は考えている。(還元主義2に続く)


アフォーダンスaffordance(その2)
 アフォーダンスはギブソンの造語である。基になっているのはアフォードと言う動詞で、「~できる、提供する」という意味を持つ。アフォーダンスとは環境に存在する事物から、動物(人を含む)に与えられる価値や意味である。これまでのところ、価値や意味は人が判断するものであると考えられている。ところがギブソンは、見る者によって左右されない普遍的な価値が物から提供されると考えているのである。
 たとえば、ある人がむき身のカキ(牡蛎)を見たとする。これまでの考えで言うなら、過去に「食べることができる」という見るなり聞くなり食べるなりの経験をしており、それを基にカキが自分に取って食物であるという意味を人は判断するのである。しかしギブソンによるとそうではない。むき身のカキはもともと「食べれるよ」と語りかけているのである。しかも観察者(つまり私たちを含む動物)が空腹かどうかに関わりなく、語りかけているのである。
 一つの物体はたくさんの情報を提供しており、どの情報が受け取られるかは観察者との相互作用の結果による。台所の食卓の前の椅子を考えてみよう。普通この椅子は「座って」と語りかける。このことを座ることをアフォードすると表現しよう。幼児なら這いあがることをアフォードする。ゆで卵を持ったときに、座面でコンコン殻を割ることをアフォードするかも知れない。あるいは夫婦喧嘩の中では、相手を打ち据えるために振り上げることをアフォードするかも知れない(わが家の話ではない)。棚の上の物を取るときには、その上に立つことを・・・きりがないのでやめる。
 椅子が無限のアフォーダンスを持つように、私たちの暮らす環境も無限のアフォーダンスを含んでいる。それらは知覚すべき物として常に存在する。それらにどのような価値を見いだすかは、観察者による。
 誤解してはいけないのは、アフォーダンスは観察者の要求や状況によって、対象物に与えられる性質ではない。物が本来持っている誰にでも与えられる公共性のある情報なのである。たとえば、ある人にはむき身のカキは「気持ち悪いよ」と語りかけるかもしれない。だからといってカキの食べれるという物理的な性質が変わるわけではない。カキは誰に対しても多くの情報を提供する。しかし、その情報を見つけ取り上げるのは、受け手の能力や状態であったりする。
 「だからどうした」という読者の声が聞こえそうだ。「まるっきりのたわごとではないか」と。まったくだ。今のところ、このアイデアは脳性運動障害を理解することをアフォードしそうにないではないか。少し具体例を出さなければ。
 「還元主義(その1)」のところで父親の例を出した。自転車と壁の間の隙間を通るところをもう一度考えてみよう。最初壁と自転車で作られた隙間を前に、父親は通り抜けれないと言い、横歩きの戦略が出た後では、「通れるかも知れない」と言っている。この変化をどう理解したらいいだろうか?
 還元主義では、要素に分解していく。この場合は、認知という要素が変化したのかも知れない。さて認知はどのように変化したのか、どの程度変化したのか?認知の変化の程度はどの程度、「通れる」「通れない」という結果に反映されるだろうか?これを明確にしようとするのが還元主義的アプローチであるにも関わらず、これを明確にできないのが現状である。また仮に明確にしたところで、状況が異なれば変化してしまう、ごく一時的で特殊な関係に過ぎないかもしれない。水はどんなに見た目が変わろうともH2Oだが、認知と「通れる」「通れない」の間の関係など、あやふやでいくらでも変化しそうである。つまり他の場面で応用のできるような普遍的な関係ではない。ただし、少なくともこれまでの物の見方、枠組みでは難しいということだ。
 一つアフォーダンス理論を試してみよう。この場合、自転車と壁で作られたすき間は、「通れる」「通れない」という両方の価値を常に提供しているはずだ。つまり上の例では、親父の価値を見つけだし受け取る能力あるいは状態が変化したことになる。最初に親父は、「通れない」という意味を見いだしたが、運動戦略が変化した後では、「通れる」という意味を見いだした。
 親父の「通れる」「通れない」という判断の変化は、もちろんその構成要素である認知の変化に基づいているのかも知れない。しかしそれだけではないのだ。認知の変化だけを切り取って調べても意味がない。なぜなら問題は他の要素との相互作用にあるからである。つまり要点は運動戦略の変化後に他の要素、たとえば環境の情報との相互作用に変化があり、その結果親父の判断が変化したのである。
 環境はたくさんの情報を提供する。アフォーダンスが変化すると言うことは、観察者にとっての意味や価値が変化したことを意味する。もしアフォーダンスの変化を追えば、それは単に認知の変化でも身体の物理的な状態の変化でもない、あるいは単に精神状態の変化でもない、観察者に関するそれらすべての要素の相互作用の結果を理解していくことになるのではないだろうか?

 今のままでは、評価や訓練にどう使うかまだ分からない。しかし、ここから話を進めるために、もう少し回り道をする必要があるように思われる。(アフォーダンス3に続く)


位相空間phase space(その1)
 これは、「現代科学の最も強力な発明の一つ」らしい。それならここでもぜひ取り上げたい。一言で言えば、力学系の運動の状態を表すための架空の空間となるのだろうか。いずれにしても詳しい説明は、私にはできない。良くわからないところがある。しかし道具として有用であることは直感的にわかるのだ。
 「位相空間の中では、ある一瞬の力学系についての全情報は一点に集まる」のである。もしこれが本当なら素晴らしいことではないだろうか。先に「アフォーダンス(その2)」のところで述べたように、運動を構成する様々な要素とその相互作用に関するすべての情報を含んだ結果を、一つの点としてこの図では見ることができるかもしれない。
 図1を見ていただきたい。これは満期産乳児(A)、低リスクの未熟児(B)、高リスクの未熟児(C)の妊娠後40週における、背臥位での蹴り運動時の一側の膝の動きを表したものだ。膝の速度と位置が一点で表されている。速度と位置という二つの軸からなる二次元の平面が、この場合の位相空間となる。乳児の運動は一瞬一瞬に変化するから、時間の経過とともに位相空間の中の点も移動する。それぞれの図の軌跡は、3分間に起きた運動の変化をたどったものだ。
 満期産児の図は、大まかに8つの円を描いている。つまり3分間に8回の周期運動を繰り返している。一番動きが速く、運動の範囲も大きい。その軌跡は空間内のある範囲に留まっていることが分かる。低リスク児の軌跡は、3回の周期運動しか見せていない。運動の速度が低く、運動範囲も小さい。しかしながらこの軌跡も満期産児のものと同様に閉じた円を描いている。つまりパターン自体あるいは運動の質は満期産児と変わらないことが視覚的に理解できる。
 このように運動がある領域内に留まっている場合、その領域をアトラクター領域と呼ぶ。この場合、アトラクター領域は閉じた円を描いているので周期的なアトラクターと呼ばれる。これは十分納得のいくことで、蹴る、走る、ジャンプなどの下肢運動は普通、周期運動である。このようなアトラクターは、膝の角度や速度に一定した関係があること、すなわち私たちがよく言うところの協調性があることを示している。
 高リスク児は、運動範囲も小さく速度も低い。しかも満期産児等に比べてアトラクター領域はより広い範囲に分散する。高リスク児の運動は角度や速度に安定した関係が築かれていない。このように位相空間を使うことによって、運動の特徴を理解しやすくなるのである。
 ただし、この場合の位相空間上の一点はそのシステムに関わる全ての情報を含んでいるわけではない。それでもⅡSTEP会議のセラピスト達は、以下のように説明している。「人の運動システムは高次元なシステムだが、低次元に振る舞う。」つまり人の運動を構成する要素はたくさんあるから、情報を与える点が存在する空間は、速度と位置だけを持った二次元平面ではなく、もっとたくさんの軸を持った多次元空間が必要かといえばそうでもない。それは結局低次元に振る舞うのだから二次元平面で充分だということらしい。
 結局この項目についてはまだよくわからないことが多い。「事典」と名乗っておきながら恥ずかしい話だが、誰かこれについて教えて下さい。


カオスChaos、カオス的chaotic(その1)
 これまでのところ、複雑な現象をそれぞれ単独の構成要素に分解して、その振る舞いを調べても結局全体の結果との関係を明確にできない、と述べてきた。そこで関係を明確にするための尺度をこれまでとはまるっきり変えてみたらどうだろう。まるっきりこれまでとは違う尺度で同じ現象を見ると、それまではっきりしなかった物が明確になってくることがある。
 丁度、最近流行の立体図を見るような物だ。普通に見る限りでは、ランダムな点の集合にしか見えないのだが、寄り目になるようにして見ると、突然そのランダムな点の図から、鮮明な立体像が浮き出すのである。そのこれまでとはまるっきり違った尺度を提供するのが、アフォーダンス理論やこのカオス理論であると私は考えている。
 さて、カオスとは何だろうか?私の考えるところでは、(ほんとに私は勝手にものを考えるのが好きである)カオスは、ある現象の性質を表す言葉である。たとえば祭りという現象を言い表すときには、「にぎやか」とか「心うきうき」、「非日常的」などと表現する。どの表現もそれなりにしっくりくるものである。
 ところが世の中には、なんと表現して良いのかわからない性質がある。たとえば人の運動である。以前述べたように、人は同じ運動を繰り返すのが苦手である。プロゴルファーのスウィングを分解写真のような物で記録してみよう。一回一回で見ると、決して細かいところは同じ運動を繰り返していないことがわかる。プロでさえそうなのだから、アマチュアはどんなにひどいことか。それにも関わらず、全体としては紛れもなく、見てそれと分かるその人固有のフォームを作る。つまり同じ運動を繰り返していないのに、その人らしさを失うこともない。細かいところは違っていても、その人の雰囲気だけは安定している。
 また従来複雑な予測しがたい現象は複雑なシステムから、簡単な現象は簡単なシステムから生じると考えられてきた。ところが人のような複雑な運動システムからは「位相図」で述べたような比較的安定した単純な運動が出てくるし、水を温めるといった単純なシステムから、予測不可能な複雑な運動が生まれる。このような性質も言い表しがたい。
 しだ類のような植物を見てみよう。茎の分かれ方や葉の付き方は、一見すると規則正しく見えるのだが、良く見るといくつも不規則さを見つけだせる。子どもの頃、規則正しくないのが納得できず、次から次へと枝を取っては確かめたことがある。葉の付き方などになんだかそれらしいきまりが見られそうなのだが、あるいは直感的にはきまりがあるはずだと思いながらも、それを見つけられないもどかしさがあった。実際には2~3の簡単な規則で、しだの葉の形はコンピュータ上に再現できるのであるから、直感は正しかったわけだ。いずれにしても見ただけでは、規則正しいとも正しくないともいいがたい。
 前項の「位相空間」図1(A)を見ていただきたい。人の運動は決して前と同じ軌跡を繰り返さない。しかも中には随分違った軌跡もある。だからといって、この運動の性質を規則正しくないとは言えない。なぜならその軌跡は飛び出すことなくある範囲内にとどまっている。これは正確に同じ軌跡を繰り返すと言った秩序ではないが、無秩序とは言えない何らかの秩序を持っているのに違いない。その性質、これまでの見方では秩序など見られないのだが、それでも何らかの秩序を持っているといった性質をカオスと(カオス学者達は)呼んでいるのではないだろうか。
 カオスは従来、「無秩序」と訳されてきたが、この訳語がふさわしくないのは上に述べたとおり。とりあえずここでは従来の見方では秩序があるとは言えないが、決して無秩序とは言えない性質をカオスと呼ぶことにする。
 このカオスと呼べる性質を持った現象は身の回りにたくさんあるらしい。株価の変動から、日々繰り返す天気、生物の個体数の増減、心臓の鼓動、呼吸・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・その他たくさん。
ここで言っておきたいのは、もし人の運動がカオスという性質を持っているなら、その運動を変化させようとする私たちはそれを知っておく必要があるのではないだろうか、ということだ。そのうち、このアイデアを基にした運動変化のモデルが本シリーズで紹介される予定である。そのモデルからは訓練場面での新しい価値や意味が提案されるはずである。(カオス2に続く)



終わりに
 今回はここまでである。ぜひともみなさんの意見を伺いたいと思っている。未熟なところや間違いがあれば直したい。異なった意見があれば紹介したい。面白くなかったりわかりにくければ、もっと面白くするよう、わかりやすくするように頑張るつもりである。だから是非ともみなさんのご指導やご意見をいただければと思っている。
 今回はすぐに臨床で使えるところまでは、アイデアを検討できていない。次回には何とか臨床で使える評価法までたどり着きたいと思っている。
 最後に理論を道具として使う場合のこつを紹介しておきたい。それはアイデアをすぐに使ってみることである。自分自身訳が分かろうが分かるまいが使ってみることだ。たとえば食堂に行ったとき、メニューを見てラーメンにしようと思えば、「ラーメンを注文することをアフォードする」などと思ってみる。「このスープは、豚骨に加えて魚のだしが加えられている、などと考えるのは還元主義的かもしれない」と考える。
 あなたの恋人が気まぐれで理解しがたいところがあれば、「なんてカオスな人なんでしょう」などと思うのである。たとえ気まぐれに見えてもその人なりの秩序があるはずだから。そうこうする内に必ず、その道具としての使い勝手や意味が理解できると思うのだが。 

 意見は以下のところへお願いします。
 〒737
 広島県呉市青山町3-1
 国立呉病院附属リハビリテーション学院(今はありません)
 西尾 幸敏
     

今回の引用文献等
<はじめに>
・理論について
→Shepard K: Theory: criteria, importance, and impact. (ed. by Lister MJ):   
Contemporary Management of Motor Control Problems. Proceedings of the
ⅡSTEP
Conference. FOUNDATION FOR PHYSICAL THERAPY, Virginia, 1991, pp
5-10.
<アフォーダンスその1>
・ギブソンという人について「ギブソンには『読んで理解する』範囲を・・・・・」
 →佐々木正人: エコロジカル・マインド. 現代のエスプリ298号, 至文堂, 1992.
・ナイサーについての逸話「始めて会ったとき、私は彼が・・・・」
→上の文献で引用されていた部分を又引きさせていただいた。元の文献は、
 Baars: The cognitive revolution in psychology, 1986.
   その訳は島田厚「情報の定義について-J.J.ギブソンの投げた石-『かたちのイメ 
  ージの記号論』記号学研究11.
<還元主義その1>
・還元主義について
 →イミダス(集英社, 1995)より。
<アフォーダンスその2>
・アフォーダンスについて
→J.J.ギブソン: 生態学的視覚論(古崎敬その他訳), サイエンス社, 1985.
→佐々木正人: アフォーダンス-新しい認知の理論. 岩波科学ライブラリー12, 岩波書   
 店,1994.
<位相空間その1>
・「現代科学のもっとも・・・・」、「位相空間の中では・・・・」
 →ジェイムズ・グリック:カオス-新しい科学をつくる. 新潮文庫, 1987.
 →足の軌跡
・「人の運動システムは高次元なシステムだが・・・・・」
・赤ちゃんの下肢の運動の位相空間図
→Heriza C: Motor development:traditional and contemporary theories. (ed.
by Lister MJ): Contemporary Management of Motor Control Problems.
Proceedings of  the ⅡSTEP Conference. FOUNDATION FOR PHYSICAL
THERAPY, Virginia, 1991, pp99-126.
<カオスその1>
・カオスについて
 →ジェイムズ・グリック:カオス-新しい科学をつくる. 新潮文庫, 1987.
・「人は同じ運動を繰り返せない」
→西尾幸敏: 人は機械よりも上手にゴルフスウィングができるか?-人と機械の運動コ 
 ントロールの違い. 上田法研究会会報No.18, 1993.