医療的リハビリテーションで使われる二つの理論的枠組みの違い-二つの異なる理論的枠組みから見る上田法(その8)

医療的リハビリテーションで使われる二つの理論的枠組みの違い
   -2つの異なる理論的枠組みから見る上田法 -
葵の園・広島空港 理学療法士 西尾幸敏
(上田法治療ジャーナル, Vol.24 No.1, p3-35, 2013) ”
 続きです。まだまだ続きます。
 
   

医療的リハビリテーションで使われる二つの理論的枠組みの違い
   -2つの異なる理論的枠組みから見る上田法 - その8
葵の園・広島空港 西尾幸敏

3.CAMRの反論-従来的アプローチの枠組みに対して
④ユートピアン・シンドロームの罠
 トマス・モアがユートピアと名づけた島のお話を書いたのだが11)、その意味は「どこにもない国」の意味である。ユートピアとはどこにも存在しない理想郷、あるいは実現しえない理想という意味で使われている。
 ワツラーウィックらは次のように言う。
  「問題解決についてのこのユートピア期待のような極論は人が全てに通用する究極的な解決を見出した、もしくは見出すことが出来るという思い込みの結果として生み出されることがしばしばである。人が一旦この思い込みを持つと、その解決策を現実に当てはめてみようとすることが彼にとっては当然の成り行きとなる。実際もしもそうしなかったら自分自身に対して不正直であるということになる。そして我々がユートピア・シンドロームと名付けた、以下の三つの形態をその後とってゆくことになる」10)
 三つの形態とは以下の通りである。
 A. その目標へ到達不可能なのはその目標自体のせいではなく、到達出来ない自分の無力や努力の足りなさのせいである、と自分を責めてしまう。
 B. 目標へ到達出来ないのは自分のせいではない。目標は遠大であり、長く膨大な準備が必要なのだ。今日は到達出来ないが、これはやがて来る目標達成のための準備なのだ、等と夢から覚めることを怖れる。
現実逃避的というべきか。ワツラーウィックは、ジョージ・バーナード・ショーの言葉を引いている。「人生には二つの悲劇がある。一つは心から望むことを達成しないことであり、今ひとつはそれを得てしまうことだ」つまり目標に到達する気はなく、到達までの過程を楽しむことが目的になっている人生のことを皮肉った言葉だろう。
 C. 目標に到達出来ないのは、自分の努力がたりなかったのではなく、回りのせいだと自分以外を非難することである。
 日本では1970年代から「脳性麻痺は治る」という熱狂に包まれる12)。神経生理学的アプローチが流行し、多くのセラピストとクライエント、その家族はこのユートピアを夢見るようになる。そして一時の熱狂は見られないものの、現在も根強くそのユートピアは引き継がれているように思える。次のようなものだ。
 脳を構造的に治すとなると今のところ現実的な話ではないかもしれない。だが「脳を機能的に治す」(脳の働きを回復させる)となるとなんとなく可能性がありそうだ。なんといっても脳は学習能力が高いし、使われていない部分も多い。大雑把に言えば、この使われていない部分に失われた機能(たとえば身体をコントロールすること)を学習してもらい、機能的に麻痺を治すことができると考えるのである。
 もちろんこれが実現すれば理想的であるが、これらのアプローチが紹介されて、すでに40年以上の時間が経っているにも関わらず、機能的に脳が回復し、麻痺が治ったという話は聞いたことがない。
 また最近は脳卒中に対する脳の可塑的変化の可能性が示唆されているようだ13)。これによると脳細胞の可塑性の可能性が最近の脳科学の発達によって示されている。そして運動学習理論によって訓練が行われると片麻痺者に機能的改善が見られる。これで脳が構造的に治っている可能性があると暗に示されているようだ。
 だがこれはやや早計である。ある運動をすると、脳の回路に変化があるだけではあるまい。運動に使う身体の柔軟性が改善し、筋力が改善し筋の活動時間が長くなったりする。これらの中枢神経系以外の要素変化を受けて、脳内の回路も変化するという循環を描くはずである。単に脳内の回路変化だけに機能的改善を還元することはできまい。
 また仮にある課題達成運動を経験して、その経験が脳神経回路の変化として脳内に記録されたとする。では次の同様な課題達成の時に、その回路は過去の運動の経験を引っ張り出してくるのだろうか?まあ、そんなことはあるまい。サッカーやゴルフ、バスケットボールなどのスポーツ競技を見ると分かるが、実際の運動の局面では、同じ状況は決して繰り返されない。サッカーのシュートはいつも異なった運動局面の中で、同じ結果(枠内に向けてボールを蹴る)を要求される。常に適応を要求される新奇の状況が生じているのである。過去の運動を再現するだけでは済まされない。運動に熟練すると言うことは、常に異なった状況の中で、新しい運動を創発し、同じ結果を出そうとすることだ。
 回路が一つできると、それを基に同じ運動が繰り返されると考えがちだが、過去の運動を繰り返すことには余り価値がないのである。過去の運動を変化させ、常に新奇の解決方法として生み出すことに価値がある。
 従来的なアプローチは根本解決を志向して、しばしばその場では解決困難な目標を立てがちだ。CAMRでは、原因を積極的には追及しないし、達成不能な目標あるいは余りに遠大な目標で達成を先延ばしにするようなことはしない。その時、その場で達成可能な目標を持つように心掛ける。挑戦的ではあるが、達成可能な目標を立てて、その達成に向けて努力する。システムの作動が変化し、クライエントにとっての意味が生み出せることをクライエントもセラピストも感じることができる、ということが大事だから。クライエントの問題は今目の前にあるのだから。

 この章で見たような4つの罠にはまりやすいのは、原因を追及すること、しかも出来るだけ根本的な原因を追求しよう、といった従来型アプローチの還元論的な枠組みが基本にあるからだ。そしてより根本的な原因にアプローチすれば、より根本的な解決になるといった思い込みがどこかにあるのだろう。
 もちろんこのWhyのアプローチの枠組み自体がダメだ、などという気は全くない。それどころか多くの分野で有効であり、多くの成果を生み出している。ただ人の運動システムに対してはどうだろうか?先にも述べたが、人の運動システムは、その時その場で達成するべき課題に応じて、システムの境界をどんどん変化させ、その構成要素をどんどん変化させ、構成要素間の関係をどんどん変化させるものである。単純な因果の関係を想定しようとすると、誤りを生じやすい。
また障害に焦点を当て、障害そのものにアプローチしていく。障害自体は治しようがないものであるが、障害に焦点を当てている以上、根本的な解決は障害を何とかしようというものになる。最初から達成不可能な目標を選びやすいとも言える。
 こうして脳性運動障害では根本的な原因を探っていくと麻痺になり、これを根本的に解決しようとすると「麻痺を治す」というユートピア的な目標を持ってしまう。こうなると解決不能の目標を持つために新たに色々な問題を生じてしまう。あるいは遠大な目標なので簡単には達成出来ない、と開き直る。目の前に、すぐにでも問題を軽くして欲しいクライエントがいるにも関わらずである。
 目標が遠大であるにも関わらずやり方は、単純だ。健常者の運動の形を目標に、その運動を繰り返す。たとえセラピストが手伝ってでも、形を繰り返すことに価値があると考えてしまう。形の理解から始まった運動科学は、運動の形へのこだわりを自然に形成しているのだ。
 結局、原因追及とその解決を中心に、問題や手段や誤った問題、誤った手段なども派生してそれらがごちゃ混ぜとなり、ますますアプローチの状況を複雑にしているように見える。
 では逆に言うと、原因追及をしないでリハビリアプローチを組み立てることは可能か?という疑問を持たれる方も多いと思う。次の章ではそれについて考えてみたい。