医療的リハビリテーションで使われる二つの理論的枠組みの違い
-2つの異なる理論的枠組みから見る上田法 -
葵の園・広島空港 理学療法士 西尾幸敏
(上田法治療ジャーナル, Vol.24 No.1, p3-35, 2013) ”
続きです。まだまだ続きます。
医療的リハビリテーションで使われる二つの理論的枠組みの違い
-2つの異なる理論的枠組みから見る上田法 - その6
葵の園・広島空港 西尾幸敏
3.CAMRの反論-従来的アプローチの枠組みに対して
②偽解決の罠
偽(にせ)解決とは、家族療法で有名なワツラーウィックらが提案しているアイデアである。10)どういうものかというと、たとえば不眠症で悩んでいる方がいる。この方は眠れないものだから、次から次へといろいろな方法を試す。眠る前に足を温めるとか、リラックスした音楽や香りで部屋を満たす。パジャマを緩やかなものに替え、軽い運動をし、夜食を控え、室温を整え、枕を高価なものに替える。
一見これらの試みは不眠の問題解決法としてどれも良いものに思える。心身をリラックスさせ、いかにも眠りに誘いそうだ。
だが一向に眠れない。それもそのはずである。これらの方法はいずれも「眠ろう」という努力を促しているから。「眠気」というものは自然の生理的な欲求であって、「眠ろう、眠ろう」と努力して得られるものではない。眠ろうとする「努力」の対極にあるものである。「リラックスしよう」と頑張れば頑張るほど手足がこわばってくるのと同じだ。
このような一見「問題の解決」に見えるが、それを繰り返すことによって、その解決自体が問題になってしまうことをワツラーウィックらは「偽解決」と呼んでいる。
偽解決は、問題を解決しないばかりか、更に新たな問題を生み出す。最初はよくあるたまたま眠れなかった、というものに過ぎなかったものが、過剰に眠ろうと努力を重ねることで、「どうして俺はこんなに努力しているのに眠れないのだ。俺にはどこかとてつもなくまずいことが起きているに違いない。ああ、どうしよう・・」とますます苦痛と不安と焦燥に満ちた長い夜を生み出すという新しい問題を生み出す。
また偽解決のもう一つの特徴は、その方法を更に沢山、更に強く繰り返すことにある。たとえば子どもが服を脱ぎ散らかす。そこで母親がうるさく注意する。だがなかなか子どもは言うことをきかない。母親の小言はエスカレートし、「こんなことじゃ、あなたの将来が心配よ」とか言い始める。そして父親にもこの躾に参加して欲しい余り、「父親であるあなたがだらしないから、子どもがこんなふうになるのよ」などと飛び火し、回りをうんざりさせる。
母親は一刻も早く子どもに良い習慣をつけてあげようと一生懸命で、強く、更に強くと繰り返すのだが、これが子どもの反感を買い、夫の協力を遠ざけてしまい、家族の対立という新たな問題を生み出してしまうのである。
リハビリにおいてもこの偽解決はよく見られる。
たとえばもしセラピストが「片麻痺者は健常者の歩行をモデルとして学習するべき」という目標を持ったとしよう。そこでセラピストはなんとか筋緊張を整え、正しいアライメントを整え、片麻痺のクライエントができるだけ健常者の歩行に近付くように努力する。しかしなかなかその独特の左右差のある歩行は変化しない。そこでセラピストはますます筋緊張を整え、正しいアライメントを整えようと汗をかく。クライエントもそれに応えようと汗をかく。そして更に同じことを繰り返していく。
やがてこの繰り返しは新しい問題を生み出していく。いつまで経っても変化していないことに気がつくからだ。セラピストは、結果が出ないのは自分の技術の未熟さと思い、自信を失う。クライエントはセラピストの期待に応えられない自分の無力さに失望する。実際にセラピストもクライエントも自分の周りで、健常者と同じように歩くようになった同程度の麻痺の人を見たことがないにも関わらずである。誰もこの目標達成には成功していない。しかし、それでもそれぞれ自分の無力さに失望し、あるいは自分には努力が足りないと反省する。
まあセラピスト自身が反省するのは良いとしても、結果が出ないのはクライエントの努力が足りないからだとか、家族や他職種が邪魔をするからだなどとうそぶく人もいる。僕自身はセラピストになってから、何度となくこのような光景を見てきた。こうやって自分や相手を非難する人達は、どうして自分達が目指している目標が間違っていると疑わないのだろうか?理論が間違っていると疑わないのだろうか?おそらくそれが根本的な解決であると信じて疑わないからだろう。
結局いつまでも袋小路に入ったままで、他の可能性があることに気がつかなくなる。袋小路の中でずっと変化のないまま時を過ごすようになる。
他にも脳卒中後に、過緊張の状態となり、同時に分離した運動が見られなくなる。それで過緊張が運動の不分離の原因である、などと考える。(過緊張も運動の不分離も脳の細胞が壊れたのが原因で、どちらも結果に過ぎない。雷鳴を止めるために、稲妻に働きかけようとするようなものだ)
しかし、もしこの枠組みで上田法を用いるなら、やはりやっかいな問題を抱えることになる。上田法で過緊張を落として、一時的にこれまで見られなかった分離した運動が出てくるとしよう。しかし何度やっても一時的な変化を繰り返していることに気がつく。上田法で緊張を落としても、他の状況が変わらないなら一時的な変化をずっと繰り返す。これではいけないと更に強く強く繰り返す・・・
過緊張を落とすことが根本的な解決と思い、更に過緊張を落とすことに集中する。だがいずれ継続的な変化が起きていないことに気がつく。もし過緊張を落とすことが根本的な解決と思っていれば、いずれそうなり、無力感を感じるかもしれない。なまじ最初の効果が大きいものだから、「これで良くなるかも・・」という大きな期待を本人やご家族に与えてしまったかもしれない。過緊張という一つの要素に還元した枠組みで使うとこうなってしまう。
実はこの枠組みで上手く行く例もある。麻痺が軽度の場合、最初の数回ほど上田法を実施することで運動範囲や重心移動範囲が拡大し、ついで「隠れた運動余力」がクライエントの活動量増加によって発見され使われるようになる。こうなると、もう最初の運動スキルに加えて新しい運動スキルが連鎖的に創発され、運動パフォーマンスを変化させてしまうことがある。この場合、経過はどうあれこの枠組みが効果的に働くように見える。上田法の還元論的な説明で一番しっくりくるのはこのような限られた例である。麻痺が重くなるに連れて、上田法だけを実施している限り実際に継続的な運動パフォーマンスの変化は見られないままという例は多く経験する。
CAMRでは、当然異なった枠組みで上田法を捉える。詳細は後で述べるが、上田法は根本的な解決ではなく、達成可能な状況変化を起こすきっかけとして捉えるのである。