実用理論事典-道具としての理論(その3)

実用理論事典-道具としての理論(その3)
 国立呉病院附属リハビリテーション学院(廃校になりました。今はありません^^;)
         理学療法士 西尾幸敏
(上田法治療研究会会報, Vol.8 No.1, p12-31, 1996) ”
 これは当時上田先生から教えられた本などを自分で読んでは気づいたことをメモしたものをまとめたものです。

 早い話、僕の勉強ノートで人前にさらすものではないのでしょうが、上田先生の勧めで他人に読んでもらうことを前提に書き直しました。僕にとっては勉強になりましたが他人は読んでどう思ったのでしょうか?・・・今少し読んでみると未熟で不遜、鼻持ちならないところもあって全てはとても読む気になりません。でもまあ、こんな感じでした・・・というところです。なぜかさらけ出そうという気になったのです^^;


これを機にこれを機に

 

実用理論事典-道具としての理論(その3)
           国立呉病院附属リハビリテーション学院
                       西尾幸敏

はじめに
 「実用理論事典」を書き始めて一年になる。この基になっているのは、一昨年の秋から学生と始めたカオス研究会での講義ノートである。研究会には、毎回顔を出す学生もいればたまにしか来ない学生もいる。従って講義ノートの内容は、一回完結である必要があった。いつ出席しても、あるいは初めて出席しても議論に参加できるようにしなければならないからだ。それでアイデア説明のためのこのような形式が生まれたのである。
 さて週平均6コマ(9時間)程度の講義をこなし、臨床実習訪問や学院事務の合間にこのような勉強会を開くのはとても辛かったが、逆に一番の楽しみでもあった。なにが楽しみといって、学生さんの遠慮のない意見はすごく参考になるのである。なにしろあーでもない、こーでもないと苦労して考えた説明をあっさり「わからない」の一言で片づけてしまう。こちらもついムキになって説明している間に時間などあっという間に経ってしまう。短い時間だが、とても充実していて楽しいのである。
 ところが実用理論辞典の方は、とても寂しい辛い作業なのである。というのは読者からの反応がほとんどないからだ。「その1」で私は「アイデアを人に勧めるセールスマン」と書いたが、反応があまりに少ないと、自分は全然うだつのあがらない行商人であったのかと思い始めるのである。一生懸命商品を勧めるのだが、誰も見向きもしてくれない。「あー、今日も一日何も売れなかったよ」家には腹を空かせた子どもが二人、「お父ちゃん、ひもじいよ」。女房はすでにふがいない亭主に愚痴をこぼす気力もない。「年の瀬も近いというのに、俺の人生はどうなってしまうんだ」と愚にもつかない連想が膨らんだところへ、手紙が三通。
 一通は「実用理論辞典」の内容に関する具体的な感想であり、コメント、指導、提案である。これは本文でも使わせてもらっている。さらに不勉強な私のためにいくつかの面白い論文も同封してあった。とてもありがたい。一通は、内容に関する質問の手紙。とてもありがたい。あと一通は何が書いてあるのか良くわからないところもあったが、やはりありがたい。三通すべて、これからの内容に反映させてもらうつもりだ。決して「見向きもされなかった」のではないのである。これならば、行商にも身が入ろうというもの。「さて、お立ち会い、本日とりいだしたるアイデアは・・・・・・」



運動変化motor behavior change
(その2)
 運動コントロール理論は、一瞬一瞬に起こる運動変化がどのようにして生まれてくるのかを説明しようとする。たとえば、狭い通路を歩いているときに、前から人がくると、身体を横向きにしてすり抜けようとする。この運動変化がどのようにして起こるのかを説明しようとするのが運動コントロール理論である。
 現在までに多くの運動コントロール理論が生まれてきたが、ホラックは、「何がコントロールされているのか?」という視点から、それらの理論を「反射モデル」、「階層型モデル」、「システムモデル」の3つのモデルに分類した。彼女によると反射モデルというのは、「筋肉」が、階層型モデルは「運動パターン」が、システムモデルでは「運動行動」がコントロールされるということになる。
 たとえば先ほどの例では、反射モデルでは目から入った刺激(人が来ている)によって、ある筋群たとえば頸の回旋筋群を活性化させ、頭部が横向きになると、それはさらに体幹・下肢といったより広範囲な筋群を連鎖的に活性化させていくことによって、身体を横向きにしてすり抜ける、と説明する。神経系の機能は直接、ある筋群を活性化することと考えられる。
 階層型モデルでは、コントロールされているのはいくつかの筋群の組み合わせである運動パターンがコントロールされる。つまり神経系の機能は、状況に応じて「横歩き(片脚を活性化させ軸足にし、反対脚を外転して横に出す)」という運動パターンを選択することである。
 さてシステムモデルでは、神経系は行動を直接産み出しているわけではない。神経系や環境や筋骨、その他のいろいろな要素の相互作用の結果、具体的な行動が生まれてくる。神経系という部分は、確かに独立した存在でありながら、その機能を全体から切り離して考えることはできない。たとえば認知というのは、環境との相互作用の結果であるから、神経系の機能とも言えるが、神経系単独では存在しえない機能でもある。先の例なら、神経系は隙間や身体情報やその他の要素と相互作用を起こし、その結果として横に歩くという運動行動が生じるのである。


運動変化motor behavior change
(その3)
  -運動コントロールの「反射モデル」
Reflex Model of motor control
 シェリントンSir Charles Sherringtonのあの有名な除脳猫の実験が、この理論の基になっているらしい。ある刺激に対して定型的な反応が出現する、つまり反射と呼ばれるものこそ、神経系の機能であると考えられている。神経系は感覚刺激を受け取っては、筋群を活動させる。また反射はすべての運動の基礎であり、正常運動は反射の連鎖の結果であると考えられる。従って、反射が刺激あるいは感覚入力によって起こる運動である以上、我々の運動はすべて刺激ないしは感覚入力が必要となる。運動を出力するために、末梢からの感覚入力を必要とするというこの考え方は、末梢主義者peripheralistの視点を持つ。
 反射型モデルの問題は、非常に早くから明らかになっていった。つまりシェリントンの同僚のブラウンが、運動が感覚遮断の動物でどのような感覚入力もなしに、可能であることを示した時から。それ以来、トーブは感覚遮断された猿の赤ん坊が、肢からの感覚入力なしに、這い、歩き、登り、そして自分自身で食べることを学習し、正常な運動発達を遂げたことを示した。PolitとBizziは、正確に目標へ腕を伸ばす訓練を受けた猿が、感覚遮断の後、視覚のフィードバックさえなしにその正確性を維持したことを量的に示した。また人間の胎児は、刺激によって引き出されるはずの反応を、子宮内ですでに行っているという観察も、感覚が運動に必要だという仮説に反対する。
 反射型モデルの他の問題は、運動をコントロールするはずの感覚フィードバックには少なからず時間がかかるということである。多くの素早い行動、たとえば歩行にしてもフィードバックによってではなく、予期的にコントロールされていることが知られている。踵接地の前には、下腿三頭筋は伸張されることを予期してあらかじめ収縮しているのである。これは筋電図によらなくても、我々の経験からもわかる。たとえば階段はもう終わったと思って踏み出したら、もう一段残っていたなどという場合である。足先からのフィードバックは間に合わず、運が悪ければ靱帯を損傷してしまう。また、従来刺激によって起こると考えられていた反射、たとえば立ち直りや平行反応などは、前庭などの感覚刺激に対する反応ではなく予期的な運動であることが示されている。ほとんどの運動は感覚刺激の前に開始されるのである。
 反射モデルのアイデアは、現在の多くの臨床場面に強い影響を与えている。セラピストは子供の姿勢運動能力を評価するために反射活動を見極めようとするし、刺激を調整して、悪い反射を抑え良い反射を促通しようとする。子供の運動能力を発達させるために感覚フィードバックが重要とも考えられている。(ここまではHorak論文からの要約)

 このような「人は刺激に対して反応する」とする考え方の影響は、運動コントロールだけでなく、様々な領域に見られる。たとえば心理学における行動主義である。行動主義のアイデアというのはまさに刺激に対する反応の連鎖である。ケストラーは「機械の中の幽霊」という本の中で、人を刺激に対して反応する機械のように単純化して扱う行動主義を批判するために次のような例を挙げている。それはちょっと前のアメリカの高名な教授達が書いた大学の教科書に実際に使われていたらしい。
  彼 「今何時ですか?」
  彼女「12時よ。」
  彼 「ありがとう。」
  彼女「どういたしまして。」
  彼 「一緒に食事をしませんか。」
  彼女「すてきだわ。」
 この会話は次のように説明される。最初、彼は彼女を見たという刺激に対して、最初の発話を始める。彼の発話は彼女に対して刺激となり「12時よ。」という反応を発する。今度はこれが彼を刺激する・・・以下同様。簡単な刺激が反応を起こし、それが次々に連鎖を起こして複雑な行動を形成するようになるというのである。一種の冗談のようにも思えるが、どうやら大まじめに論述されているようだ。
 さてこのような刺激-反応の図式は、人をひどく単純な存在として扱う。この単純さ(解りやすさ)を好ましいと思う人も多いようだ。それでこのアイデアがいかなる限界を持っていようとも、いまだに各方面で大きな影響力を持っていることもまた事実である。行動療法は現在も多くの臨床場面で使われているし、「患者が運動コントロールを獲得するため」に、”セラピスト”が固有感覚を入力する事が重要であるとはよく言われている。


運動変化motor behavior change(その4)
  -運動コントロールの「階層型モデル」
hierarchical model of Motor Control   
  (その1)
(以下はHorak論文からの要約である。)
 階層型モデルはジャクソンによって提案され、今日の臨床神経学の基礎となっている。このモデルでは、もっとも随意的な運動をコントロールする上位レベルからもっとも反射的な運動をコントロールする下位レベルへと、中枢神経系は階層型の構造をしていると考えられる。運動は上位中枢内の運動プログラムによって、中枢性に生じると考えられる。これは運動コントロールの中枢主義者centralistの視点を持つ。
 原始反射はもっとも未成熟な反応であり、成熟が起きるにつれ、乳児はそれらの反応を抑制し、立ち直り反応を発達させ始める。中枢神経系でより成熟が進むと、乳児は次に平衡反応を発達させ始める。従って階層型モデルでは、脳性障害は下位レベルの反射に対する高位レベルのコントロールが崩壊し、それによって反射が運動を支配しているためだと考えられる。また解放された下位レベルの原始反射は、高位レベルでの協調された正常運動をブロックすると考えられる。それで治療目標は、原始反射の存在を確かめ、原始反射が持続することを妨げ、より高位レベルでの協調された運動が可能となるように伸張反射の過剰活動を減少させることである。
 治療は、もっとも自動的な下位レベルから、より高位の随意的コントロールへと進むよう計画される。セラピストは、患者が下位レベルの定型的な運動から抜けだし、高位レベルが柔軟で随意的な運動をコントロールするように助けることを目標とする。
 階層型モデルの限界は、ここ何十年かの間に明白になってきている。一つには階層型モデルでは柔軟な適応的運動は上位レベルによってしか生み出されないとするが、実際にはそうではない。たとえばより高位からのいかなるコントロールも通わせぬために、脊髄を全横断面切断してある猫をトレッドミルの上に乗せてみる。すると歩くこと、早足、駆け足、引っ掻くこと、揺すること等の非常に洗練され、協調された移動運動パターンが、頭-尾方向へのコントロールなしに現れるのだ。事実、肢の運動を妨げるような刺激に対する反応は、機能的に変化に富んでいる。
 二つ目には、運動発達が反射的に生じる運動から、内的な命令による随意運動へと一歩一歩階段を上がるように発達するという仮説も誤っている。というのは、研究は運動発達がその様な順序を踏まないということを示している。
 三つ目は、随意コントロールと反射コントロールの間の境が実際には不明瞭であるということだ。すべての随意的運動では、自動的な共同的活動と姿勢調節が同時に起きている。多くの随意的な活動はしばしば感覚フィードバックによって自動的に調節されている。同様に、意志の作用は、反射反応にも影響することができる。単シナプスの伸張反射でさえ、猿と人ではトレーニングによって変容されることができる。
 四つ目は、有名な「運動の自由度」問題である。どのようにして人は指と手首の筋肉を使って小さな紙の上に、あるいは体幹と肩の筋肉を使って大きな黒板の上にその人のものとわかる独特のサインを、運動学的に書けるのだろうか?脳は人間が可能なすべての運動のための独自の筋活性化パターンを持つための十分な神経の数を持っているとは考えられない。このようにシステムモデルは、可能性として無限に産み出される運動パターンについての疑問を説明するために、進化してきた。つまり、神経系はいかにして、筋活動の細部を前もって規定することなしに、その様な多くの運動の自由度を組織的にコントロールできるのか?(運動の自由度問題は、そのうちに項目をもうけて説明される予定である。)


神経生理学的アプローチneurophisiologicalapproach(その1)
(以下はHorak論文からの要約である。ただし原文では、「神経生理学的アプローチ」の部分は「促通モデルfacilitation model」となっている。意味的には促通モデルと神経生理学的アプローチは置き換えても何ら問題はないように思えるので、筆者の一存で一般によく知られている「神経生理学的アプローチ」という言葉に置き換えさせてもらった。)
 1950年代に、神経生理学的アプローチのモデルがボバース夫妻(NDT)、KabatやVoss、Knott(PNF)、Brunnstrom(片麻痺の運動療法)等のセラピストや内科医によって発達した。彼らはその当時、中枢神経傷害による二次的な影響である筋肉、関節、皮膚、そして行動の変化を改善するよりも、むしろ神経系それ自身を改善するような治療的技術を発達させる必要があると考えていた。
 運動コントロールの反射モデルと階層型モデルを基にして、神経生理学的アプローチは発達した。従って中枢神経傷害は、高位コントロールの欠如と下位レベルでの原始的で異常な反射の解放の結果であると仮定された。ボバースによると脳性麻痺の運動障害とは、抑制の欠如と原始的な全体的なパターンと姿勢反射機構の不十分な発達の結果である。また「異常」な運動パターンは、中枢神経傷害の直接の結果であると仮定している。
 アプローチの主な目標は、1)正常運動パターンを促通する事。2)異常な筋緊張と原始反射を抑制することである。セラピストは運動パターンを導く徒手により、適当な固有感覚フィードバックを与えることによって、この促通と抑制を試みる。また触覚、前庭覚、筋の振動と温度変化は、筋を活性化させるために用いられる。神経促通モデルは反射と階層型モデルを基礎にしているため、治療的介入は、反射反応を刺激することによって低いレベルから始まり、それから次に自動的な反応に進み、それから分離した運動の随意的な細分化へと進む。
 また次のような仮定がある。より下位レベルの反射からより高位レベルの随意運動への緩やかな進歩が、困難なあるいはストレスのかかる状況下では逆戻りするかも知れない。そして、それはまた運動発達あるいは神経系の傷害からの患者の回復過程での特徴でもあると仮定している。
 このモデルはまた、ある発達的な年齢あるいはある回復段階で、原始反射の持続が正常運動を妨害すると仮定している。この持続的・支配的状態は、より成熟した姿勢適応反応の出現と活動を妨害し、それ故に運動発達の次の段階へ発達することを妨げる。
 問題点について述べよう。重要だがまだ検証されていない仮説の1つは、熟練したセラピストによって正常運動が経験されると、「神経系はより効果的に運動をコントロールできるように変化する」ということである。神経系は正常な運動パターンと同様に異常な運動パターンを学習することができると考えられる。それでアプローチによって治療された患者は、異常な代償的なパターンが深く染み込まないように、早期に歩行のような機能的な活動を始めることは、勧められなかった。
 さらにセラピストは次の点を不満として経験している。一つは、促通された正常運動パターンが、日々の生活の機能的な活動に反映しないということ。セラピストはボール上での腹臥位姿勢で緊張性頚反射を抑制し、正常な立ち直り反応を促通しているにも関わらず、それが患者の歩行の間のバランスに役だったり、つまずきに対して効果的に反応したりするという保証が少しもないことを理解している。人は、「私は歩きたい」とか「私は自分自身でたべられるようになりたい」とかいった実際の課題目標によって動機づけられる。患者が実際的な課題から分離されて、立ち直り反応や運動パターンの練習をするとは思えない。
 セラピストの持つもう一つの不満は、患者はしばしば治療の受け身的な受容者となる、あるいは少なくとも自発的に回復過程を進めるように励まされることがないという点である。セラピストによって始められる感覚刺激は、患者からの反応を促通あるいは抑制するために使われる。そのモデルは、神経系が自らの認知や活動を決定するように、自発的に働いているとは考えられていない。むしろ神経系は、セラピストによって他動的に変容されることを待ち受けているものとして扱っている。それは患者自身のリハビリテーションと健康に、患者が責任を感じたり活動することに批判的である。
 神経生理学的な研究は、他動的な感覚経験は自発的に生み出された感覚経験とは違うということを示している。例えばHeinとHeldは、子猫の視覚運動経路の発達において、自発的に移動している猫には問題なかったが、他動的に移動されている猫には問題があることを示した。またテニスのサーブのような運動技術は、課題それ自身から分離されて、運動の部分を練習することや、受け身的に他人を観察するよりも、結果の知識knowledge of resultに関わる認知的な情報によって実際の課題を練習する方がはるかにうまくできる。ほとんどのセラピストが、極端に他動的な身体訓練であるドーマン法Doman Delacattoには賛成していない。しかしながらドーマン法ほどでないにしろ、神経生理学的アプローチでも、患者の運動を引き出すという名目で、セラピストが手を使うという他動的な感覚入力によって治療が始まるのである。
 セラピストの三つめの不満は、それが筋骨や環境の影響を無視していることだ。神経生理学的アプローチでは、中枢神経性運動障害の原因は、「異常な運動パターン」であると仮定している。つまり治療目標は、神経系のみとなる。しかし、今は筋緊張の異常は、筋の生化学や他動的な弾性要素の強い変化に原因があるということが知られている。加えて神経疾患患者は、神経障害と同様に整形外科的障害にも苦しんでいるし、痛みや筋力低下、関節可動域の制限や姿勢アライメントの問題もある。それらが一次的な問題であって、そのために神経系がそれらに代償的に適応しているとは考えられていない。
 筋骨の制限と同様に、環境は運動の可能性を制限する。たとえば全体的に異常な運動パターンは、水の中でははるかに優美に見える。というのは重力の影響が弱まり、筋の弱さが問題とならないからである。セラピストが手で患者に支持を与えると、自由度を減少させることによって患者の運動を変化させていることを知っておくべきである。例えば手による支持が、安定性を提供し、関節を再調整し、運動パターンを正常化させているように見せているのである。神経生理学的モデルを使っている何人かのセラピストは、彼らの臨床的介入を手によるアプローチだけに制限している。患者はしかしながら、セラピストの手による導きなしに、非臨床的な環境で最終的に正常運動をコントロールする必要があるという点を無視してはいけない。
 神経生理学的モデルにおけるもう一つの不満は、正常運動をブロックしているとされる異常な筋緊張と原始反射を、セラピストがうまく抑制していると感じているときでさえ、正常運動パターンが自動的に出現しないことである。事実、異常な下位レベルのパターンを使って歩行している、あるいは傾斜板の上でバランスをとるような課題を遂行している患者は、原始的なパターンが抑制されている時には、逆にその課題を完全に遂行することができない。原始反射の抑制が、運動発達や回復を促進するという真の証拠は一切ない。実際に、Thelenとその仲間の研究は、乳児の初期歩行の促進は、より早い独立歩行という結果となったことを示している。彼女はいわゆる反射歩行の消失は高位レベルの神経機構の成熟によるのではなく、単に筋骨の制限によるということを示した。つまり筋力が一時的に重力に逆らって下肢を持ち上げられないほど弱まったと見えるのは、相対的に乳児の下肢の重量の増加によるのである。
 さらに多くのセラピストは、患者の運動の問題に対する疑問について、神経生理学的モデルが答えてくれないことに不満を覚えている。患者の示す運動パターンは、神経系の影響だけでは説明できないものが多い。筋力や環境の影響力をこのモデルでは説明できない。
 神経科学者もまた、反射型や階層型モデルに不満を感じている。彼らもまた、筋骨システムが運動にどのように影響しているのか、神経系がその影響にどう気づき、どう対応しているのかについて考え始めている。彼らは、神経系が単独に筋と関節をコントロールしているだけでなく、複雑な行動における神経系のコントロールと課題目標の遂行を関係付けするようになっている。運動コントロールの新しいシステムモデルが、神経科学者が疑問として持つ新しいタイプの質問によって進歩している間、神経学的リハビリテーションの新しい課題主導型モデルもまた進歩している。


脳性運動障害cerebral motor disability(その1)
 片麻痺患者さんの歩行を考えてみよう。患側上肢は屈曲したまま体幹に張り付き、動きがない。患側の腰が後ろへ引け、分回し歩行などを示したりする。どうしてこのような歩行になってしまうのか?神経生理学的アプローチでは、このような異常な運動パターンは、直接(一次的に)中枢神経傷害の結果としているのは、上の項目に述べたとおり。つまり上位レベルでのコントロールの喪失と下位レベルでの反射的な運動支配がその原因である。純粋にこの理論に従うならば、異常な運動パターンを抑え、正常運動パターンを経験させて、神経系内に新たに正常運動パターンを作るというのがその治療方針となる。
 ところがシステム理論では、そのような歩行の出現の直接の原因は中枢神経傷害ではないと考えられる。むしろ中枢神経傷害の直接の結果は、筋力低下であると考えられている。従って筋力低下や環境、その他の要素との相互作用との結果、そのような歩行パターンを示してしまうと考えられるのだ。
 「まさかっ」と思われる人も多いに違いない。実際NDTの研修会では、インストラクターが「中枢神経系運動障害に筋力低下はない」というNDTの公式見解を述べているのを何度も聞いてきた。このアイデアが世界の大きな流れであることも間違いない。これに対する反論をこれから述べていくのが、この「脳性運動障害」という項目の目的なのだが、ここではとりあえず堅苦しい理論は抜きにしておもしろい例を紹介してみたいと思う。

 秋山真理子というのは呉リハビリテーション学院の作業療法士であるが、その発想の豊かさと実務能力の高さにいつも私は感心してしまう。「障害体験」というテーマが彼女の担当講義の一つにあるのだが、3年前に「片麻痺の運動障害が経験できないだろうか」という相談を持ちかけてきた。「筋力低下がその第一原因」というアイデアにかなり影響され始めた頃だったので、相対的な筋力低下を起こすために、「半身に重りをたくさんつけたら」と答えておいた。彼女はその時乗り気ではなかったし、そのまま私も忘れていた。
 ところがつい最近になって、二人で「生態学的測定法」の実験を行うことで話が盛り上がった。議論の結果、「正常人の半身に重りをつけたら、その認知はどう変化するか」がそのテーマの1つとなり、彼女は持ち前の能力を発揮して、あっという間に予備実験の段取りをつけた。カオス研究会の学生二人が実験台となってくれた。一人は30代の男性、もう一人は20代の女性で共に健康である。彼らは片側の手足に砂嚢のベルトを着け、同側肩には砂嚢をぶら下げることとなった。
 ここで面白い現象が見られた。歩く時、重くした方の腰が引け、片麻痺者によく似た歩行を示すのである。自分自身で試したところ、徐々に重りを重くすると、ある重量を越え下肢に疲労が貯まってきた段階で、股関節を自然に外転・外旋位にした分回し様歩行を呈することがわかった。しかも、重りをつけた方の上肢が「自然に屈曲してしまわずにはいられない」のである。上肢の方は、重すぎると屈曲も見られずだらっと下がったままになる。患者さんでは、このような状況で亜脱臼を生じるのではないだろうか。相対的な筋力の低下によって、上肢が重すぎるのである。さらに肩を屈曲してもらうと、肘が曲がり、肩の屈曲外転が見られた。絵に描いたような屈曲共同パターンである。私も学生二人にも中枢神経系に異常はないと思うが、それでも片麻痺様歩行や上肢の連合運動や共同運動パターンが見られるのだ。
 簡単な実験なので、是非ともみなさんにも試していただきたい。脳性運動障害の運動パターンの原因がどうのこうのという難しい論文を読むまでもなく、「筋力が弱くて手足が重すぎ」てもそうなるのだということが実感できるのである。つまり中枢神経系の異常がなくとも、そういったいわゆる「異常パターン」は現れるのである。もちろん片麻痺患者の運動とまったく同じになるわけではない。安定性ははるかに高いし、速度もでるし、可動性もはるかに高い。ただ異常なパターンと呼ばれていたものはでるのだ。Mathiowetzらによると、片麻痺患者が上肢を挙げるときに肘を屈曲するのは、肘を曲げることによって上肢全体(てこの支点、作用点間の距離)を短くすることによって、なるべく上肢を挙げやすくするためであると説明している。読んだときにはなるほどと思ったが、実際にやってみるとはるかによく理解できるものである。

 考えてみると、これまで脳性運動障害者のあの変わった運動パターンの出現をうまく説明している理論は、神経生理学的アプローチのそれしかなかったのかもしれない。まさか筋力低下のような単純な理由であの複雑な現象がうまく説明できるなどとは、誰も思っていなかったのかもしれないし、階層型理論による説明の方がずっともっともらしくて格好良かったのかもしれない。
 安易に目の前の答えに飛びついてしまうのが私の悪い癖だとはわかっているのだが、やはり飛びついてしまおう。ここではとりあえず、「まず脳損傷の直接の結果は筋力低下であり、次にその筋力低下と環境や筋骨系その他の要因、神経系の代償などとの相互作用の結果、あの目に見える独特の運動パターンが生まれる」としておこう。この結論がこれからどう変化するだろうか?楽しみである。みなさん、ご意見、ご批判ください。

 もう一つ脳性運動障害者に出現する過緊張は、上位コントロールの消失による下位レベルでの伸張反射の解放現象ではなく、筋力低下に対するいろいろなシステム、特に筋の粘弾性システムの代償であるというアイデアを説明しておきたい。筋力低下という問題が起きても、やはり人は生きていくために環境に適応しなくてはいけない。重力に逆らって移動するためには、下肢筋の硬さを生み出す必要がある。
 Dietzらによると、人はもともと神経メカニズムの興奮によって筋を硬くするシステム(いわゆる神経筋単位として説明される)と同時に筋独自の性質を変化させて筋を硬くするシステム(筋の粘弾性システム)も持っている。脳性運動障害では、前者のメカニズムが失われ筋力低下を来すのだが、代わりに後者のメカニズムが筋の硬さを生み出す。粘弾性システムは神経システムほど素早い変化を起こさないので、脳性運動障害者のぎこちないゆっくりとした運動となって現れるというのである。


装具療法orthotics therapy(その1)
 脳損傷の運動能力に対する第一の影響が筋力低下ならば、下肢に対する二つの運動療法が考えられる。ひとつは下肢筋の筋力強化、もう一つは下肢に支持性を与える装具療法である。脳性運動障害者に対する筋力強化の方法論というのは、まだはっきりとしたものが確立されていないようだ。というより私の勉強不足なのだろう、あまりよく知らない。誰か教えてください。
 さて装具療法であるが、私はこれまであまり好きにはなれなった。というのは、身の回りで目に付く多くの装具類、特に小児のものは、いずれも不必要と思えるほど頑丈で重いものが多い。装具を着けたために、速度が低下したり歩くのを嫌がってしまうケースを見たことがある。不必要な頑丈さというものは、結局人の運動変化の性質を無視したものになってしまうのである。
 人の運動変化の性質を考えてみよう。人の歩行は、滑りやすい路面、がたがた道、坂道、ぬかるみ道など環境によってどんどん変化する。がたがた道にさしかかると、左右足部、膝、股関節が地面の凸凹を吸収して、重心が安定するわけであるが、各関節は様々に変化する必要があるわけだ。人の身体には数百の関節があり、実に多くの変化の度合い(自由度)を持っている。これは、一つの状況変化に対して本当に多様な反応を生み出す可能性を持っている。言い換えると一つの問題が生じると、それに対する複数の解決手段を持っていることになる。
 ところががっしりとした装具を身につけた状態では、装具を着けた部分の変化の度合いがなくなってしまう。そうすると路面の凸凹をどこで吸収するかというと、身体の他の部分によけいに負担がかかってしまうことになる。重心を安定させるために、より少ない関節で対処しなくてはならない。つまりより少ない解決手段で当たらねばならないことになり、全体に対するストレスも高まる。
 もしある程度の支持性を持っている患者さんならば、がっしりした装具よりも、適度な可動性を持ったものの方が好ましい。以前、あるテレビ番組でインドの木とゴムでできた下腿義足を紹介していたが、この義足をつけるとしゃがむことや、木登りもできてしまうのである。木の表面に足をかけると、義足が見事に木肌にしがみついてくれるのだ。適度な可動性は、状況変化に対する多様な解決法を提供する可能性がある。
 もう一点、過緊張は筋力低下の代償かもしれないと「脳性運動障害(その1)」で述べたが、もし患側下肢が不十分ながらある程度の支持性を持っているのならば、がっしりとした装具は”不必要”な支持性を提供していることになる。十分すぎる支持性は、患側下肢の筋力強化の可能性を逆に阻害するかもしれない。何しろ自ら支持性を生み出す必要がなくなってしまうのだから。支持性というのは、十分すぎるとだめなのである。適度でなくてはいけない。
 さらに筋力低下のある患者さんに、金属でできたあのような重い装具を着けても、患者さんに対する負担が増えるばかりで、歩くことがちっとも楽しくないだろうなとも思う。装具を処方してもなかなか使ってもらえないわけである。

 そういうわけで脳性運動障害者に対する装具療法には、私はあまり乗り気ではなかった。これまで金属の支柱でできたがっしりした装具しか知らなかったのである。それで興味を失っていたせいで、プラスチックの短下肢装具の可能性などにも関心はなかった。ところが先日、学院の実習地としてお世話になっている高知県の横浜病院というところにいって驚いた。片麻痺患者に対するプラスチック装具なのだが、下腿装具に大腿カフがついている。いわば長下肢装具なのである。足部だけでなく、膝関節にも支持性が与えられる。しかも膝・足関節には継ぎ手が付いており、足関節では背屈が、膝関節では屈曲が許されるようになっている。継ぎ手とプラスチックの性質(たわみ)によって、大きな可動性と下肢に対する適度な支持性が提供される。しかも軽量(約500g)。
 ビデオを見せてもらったが、ゆっくりとしか歩けなかった患者さんがそれを着けて訓練した後では、なんと走ってしまうのだ!文献を見ると、10m1分45秒で歩いていた患者さんがなんと12秒で歩けるようになってしまったとのこと。どうやらこの可動性やたわみ、カフのアライメントなどが片麻痺患者の運動変化を適度に助けるものになっているようだ。・・・これなら早速我が家の親父にも試さなくてはなるまい。

 装具はこの原稿の締切前にできたので、まだ十分に試していない。が、この日に備えて親父の歩行速度などを測っておいた。親父は片麻痺発症後2年経つが、一生懸命歩くと2回目には約7mを60秒平均で歩く。2回目が一番早く、その後は繰り返すに連れ、立ち止まることが多くなり、2分以上はかかるようになる。装具を初めて着けたときは、1回目67秒とあまりぱっとしないものだったが、2回目には50秒、3回目には45秒と変化を示した。親父はすでに慢性期の状態でたいした運動変化を示すことはなかったが、装具という要素が加わっただけで、全体的に大きな運動変化を起こしたことになる。
 今日で3日目だが、3回目29秒で歩いてしまった。1回2回と繰り返すに従い早くなる。これはもちろん、装具だけではなく、意欲も大いに関係しているのだろう。実は先に述べたビデオを親父も見ていて、それでやる気になっているのも確かなのだ。親父にとっては衝撃的な映像だったようだ。これまで訓練嫌いだった親父が、歩くから時間を計ってくれとうるさいのである。また、たまたま親父との相性が良い装具だったのかもしれない。どんなアプローチにも向き不向きはあるものだ。もっとも患側下肢に痛みや疲労感が出始めてしまった。運動量が急激に増えてしまったせいだろう。
 この装具を作っていただいた装具士さんの話だと、よく歩くようになった患者さんでは1年後に大腿周径が大きくなって、大腿カフがあわなくなり、大腿カフだけを取り替えたこともあるそうだ。そうしてみると、ある程度の運動量があれば筋力強化も可能なのかもしれない。


運動変化motor behavior change
(その5)
 階層型理論では、運動変化はプログラムによって起きると仮定されている。しかし現在、運動変化がプログラムによって起きているのか(プログラム説)自己組織化現象によっているのか(自己組織化説)というのが大きな議論の的である。プログラム説というのは、コンピュータによって制御されているロボットを思い浮かべることによって容易に理解できる。従ってプログラム説によって運動コントロールや運動発達、運動学習を説明すると比較的理解されやすい。私たちは実際にその例をよく知っているからだ。しかし自己組織化説あるいは非プログラム説によって、運動コントロールや運動発達、運動学習を説明されてもなかなか理解することができない。プログラムやそれによって動かされているコンピュータによらないで、複雑な動きをする機械を我々人類は未だよく知らないからだ。
 私の感じているところでは、自己組織化説が強力な説得力を持つというよりは、プログラム説の限界が明確になっているところがこの議論のポイントだと思う。運動学習を考えてみよう。たとえば、無限に変化する運動が運動プログラムとして蓄えられるなら、それこそ無限の運動プログラムが必要で、いくら脳の容量があるといっても限界がある。これを貯蔵の問題という。また、人はまったくやったことのない運動、ジャンプして1/4左に回転しながら、右手で頭、左手で足にタッチするといったことを一回でやることができるが、このためのプログラムが前もって用意されているとは考えにくい。これは新奇性の問題という。
 そこで出てきたものの一つがシュミットのスキーマschema説である。運動は貯蔵されたプログラムによるが、このプログラムは環境の変化に応じて修正が可能であるとした。この修正は、脳性運動障害cerebral motor disability(その5)
 これまでは、脳性運動障害の第一原因は「筋力低下」と言ってきたのだが、最近は風当たりが強くなってきた。「そんな言い方は変ではないか。一方で全体論を言いながら、他方で筋力低下のみに原因を求める(還元する)なんて・・」というわけだ。
 そういえば動的システム論で言う、「コントロール・パラメータ」などという言い方も変だ。面白いアイデアではあるが、「全ての現象に、明確なコントロール・パラメータが存在する」という風に考えるなら、これまでの
パラメータと呼ばれるものによって行われる。ある運動結果、たとえば投球距離は一つのパラメータとの関係を表すルールすなわちスキーマによって決定される。すなわち運動学習はスキーマ(ルール)を獲得することである。特定の投球距離(たとえば50m)に投げることを練習すると、他の投球距離すべてに一般化する学習が生じるのである。つまり新しい距離(たとえば20m)に投球する場合は、50mで獲得されたスキーマから、最善の推定を行うことができる・・・・といったことらしい。こうして貯蔵と新奇性の問題は解決される。めでたし、めでたし・・・
 しかしながら、それはムカデの足をたった二組だけ残して切り取っても、直ちにその4本足で協調された歩行を見せるといった、まるっきり新しい運動パターンの出現を説明することはできない。スキーマのルールというのは、確立されたプログラムを新しい状況に調整させるだけである。さて困った。
 プログラム説と自己組織化説の議論は、運動学習のみならず運動コントロール、運動発達の領域でも同様に起こっている。全体的にプログラム説は限界が明確にされつつあるようだ。
 かといって、自己組織化説は代替案としてプログラム説より受け入れにくいのも事実だ。複雑な身体システムではたくさんの要素間で相互作用が起こり、プログラムや指令なしに組織化や構造化を成し遂げる。ちょうど水が温度の上昇によって、対流といった構造を生み出すように。しかしこの「水の対流」が「人の運動」という類推になかなか行き着かないから困っているのである。なんともかけ離れているではないか。日本でどなたかが自己組織化型の歩行機械を作っておられるという話を聞いたことがあるが、どのようなものだろうか。具体的にこんなものですよという分かり易い例があれば、あっという間に説得力を持ったものになるだろう。
 
 良い批判は良い反論を生み出すに違いない。私はこの議論を楽しんでいるだけだが、臨床家は不満を感じるに違いない。「だからといって、どうしたらいいのだ!」この議論はあまりにも臨床と離れすぎているかもしれないが、それでも現在自分達が行っている訓練方針へ影響を与えている理論の限界や新しい訓練方針を理解する上で役に立つ・・・・はずである。


運動学習motor learning(その2)
 上記の運動変化(その5)を受けるのだが、刺激や反応を結びつけるプログラムやスキーマのような一般化するプログラムといったものは新しい運動の学習とは関係ないようだ。もし運動学習がプログラムによらないで起きているとすると新しい運動学習訓練はどうなるのだろうか?
 システム理論によると運動学習の原理は次のようなものになるはずだ。「運動は環境の中で組織化される。それならば運動学習自体も、それが起こるべき環境の中でしか起きない。」
 

アフォーダンスaffordance(その4)
 さらに上記の運動学習(その2)を受けるのだが、今回小林さんという方から手紙をいただいたのでそれを紹介したい。「(アフォーダンス1、2、3を読んで)臨床応用の部分に疑問があります。西尾の父が『横向きに歩いたら』という教授によってマイナスのアフォーダンスをプラスに変えた事実をどう考えたら良いのでしょうか。実際の運動は教えられるものではないが、運動戦略などは提供できるということでしょうか。また、アフォーダンスの探求は実際の環境での課題遂行を通じて起こりえると思われるのだが、そこに訓練室で探求されたアフォーダンスがどれほど役に立つのでしょうか。役に立たなければ、我々はもっと実際の生活場面にまで出かけていく必要があるだろう。また、同じような包囲光配列を持っていれば良いということになれば、訓練室に様々な環境を設定できる可能性がある。いかかでしょうか。」
 これはシステム理論の立場に立てば、至極当然の疑問である。もし「セラピストが患者に運動学習させるべき」と考えるならば、患者さんにとって必要な運動学習は、「患者さんが住むべき環境に入って行う」か、「訓練室を日常生活の場に近づける」必要があると思われる。当然、そのようなアプローチが生まれてくる必要がある。
 逆に、「セラピストは患者に具体的な運動学習をさせる必要がない」という立場も存在しうるかもしれない。つまり生活を送るために必要な運動の学習は、患者さんが生活の場で、自分一人で獲得するものだからだ。セラピストが生活の場に入ってくるのは、本来の環境というよりは、「セラピストのいるお茶の間」といった普通でない環境である。それ自体生活の場とは言えなくなってしまう可能性もある。しかし、セラピストが直接の運動学習に関わらないとしたら、何をしたらよいのだろうか?
 次のように考えてみたらどうだろう。生活を送るための運動の学習が生活の場でしかなされないならば、我々セラピストは、患者の運動を学習する能力を高めたり、改善するような方針を持つべきではないだろうか。つまり、患者が一人で生活の場で必要な運動をより効果的に学習できるように、あるいはより効果的な運動を学習できるような能力の改善を目標にするのである。現在の訓練は運動学習自体を行っているのではなく、むしろそのような機能を果たしている可能性が高い。
 もう一つ、このように考え始めると、私か親父に「横に歩く」という運動戦略を教えたことが良いことだったのかどうかわからなくなってくる。が、これはまた次の回に。

還元主義reducism(その3)
 この項目についてはもう止めるつもりだったが、これに関して上記の小林さんから指摘をいただいたので紹介したい。
 彼の指摘するポイントは二つ。これまでは人の運動変化の原因を神経系という一つの要素に還元してきた。この見方は直線因果関係観とも言うのだそうだ。つまり西尾は単に還元主義を否定したいのか、還元主義が直線因果関係観に陥りやすいということを批判したいのかよくわからない、というのが一つ目。これはまさしく良い指摘で、私が言いたかったのは後者の方。しかし坊主憎けりゃ、袈裟まで憎いという感じがあったのも確か。反省してます。還元主義というのは、現実に有用な見方です。間違いなく我々が手にしている大切な道具の一つです。
 さてもう一点。現在システム論者と名乗りを上げている人々は、中枢神経系以外の要素や、その要素間の関係に焦点を当てている。ところがいくら還元主義を否定しても、要素と要素間の関係から全体を説明しようとするなら、還元主義を越えていないではないか。還元主義を越えていない以上、その限界も還元主義と共にあると思う、というもの。
 この点は私には難しい。還元主義が何なのかよく解らないところもあるから。アメリカのPT達の論文を読んでみると、課題主導型アプローチは、行動全体を課題によって組織化しようという方法論と同時に、従来の要素還元的なアプローチの有用な部分を取り込もうとしているようだ。課題主導型アプローチが新しく出たからと言って、従来の成果を全く捨て去ってしまうのは馬鹿げている。むしろ全体を理解するための新しい見方でもって、従来のアプローチを見直すことは必要だろう。還元主義を越えているかどうかは別にして、それが現実的な態度だと私は思う。


入れ子nesting
 ギブソンによると環境は空と大地からできている。大地の上には、あるいは空の中には山や木や谷や川、鳥や動物や人工物といった様々なものが存在する。この環境はどのような構造をしているのであろうか。ギブソンは以下のように説明する。植物細胞や結晶、小石から樹木、岩、山々まで環境は様々な大きさの構成単位からできている。そして比較的小さな構成単位は、大きな単位の中に埋め込まれており、これを入れ子と名付けている。木の葉は小枝に、小枝は、より大きな枝に、それはまた幹に組み込まれて木となる。木は森に、森は峡谷に、峡谷は山に組み込まれる。あるものは他のものの部分となっている。これは階層をなしているとも考えられるが・・・階層と入れ子との違いはまた別の機会に述べてみたい。
 人の構造も入れ子であるかもしれない。知覚と運動という機能を持った指という構造は、同様の構造を持つ手に組み込まれる。手は、前腕あるいは腕という構造に組み込まれる。腕は全身に。このポイントは、知覚は脳で処理され、運動は腕で行われるといった分け方をしないことにある。指は知覚や運動における脳の下位構造ではなく、知覚も運動も指という部分の構造の中で起きるのである。それは腕全体でも、身体全体でも起きる・・・・「だからどうした?」といわれても困るのだが、まあ世界の構造はそんな風に考えられなくもないというところである。




おわりに
 「実用理論事典(その1)」のはじめに、この実用理論事典はある法則によって項目が並ぶと述べたが、実は入れ子状の構造をイメージしていたのだ。まず全体的な考え方の容器を作り、その中に脳性運動障害や評価や訓練の容器を作るつもりであった。書いている間に最初の容器の形が歪み、内側のものと重複し、秩序を失った構造になりつつある。最初からすべてを書き直したいが、今となってはもう仕方ないのである。こうなっては、自分が一番書きたいこと、すなわち新しい訓練方針と手段を書き終えるまでひたすら書き進むだけである。
 ところが新しい訓練方針や手段を書こうとすると、大きな問題に突き当たる。「理学療法士は患者に運動学習させる」という枠組みしか持っていなかった人は、「理学療法士は患者に具体的な運動学習はさせていない」というアイデアを伝えられても、強い疑念や反感、不快を抱くだけだ。単に意見表明ならすぐにすんでしまうのだが、私はこのアイデアを少しでも理解して欲しいのである。いや、なんとしても説得したい。従ってやたらと議論の遠回りをしてしまう。「本来運動学習とは何なのか?現在運動学習と呼んでいるものは、本当に運動学習であるのか?」といった辺りの議論がどうしても必要なのである。こうして、最初3回で終わるはずだった実用理論事典は肥大化の道を歩んでいるのである。
 どうかご意見、ご批判、ご感想を下記まで送ってくださるようお願いいたします。

 〒737
 広島県呉市青山町3-1
 国立呉病院附属リハビリテーション学院
 西尾 幸敏



今回の引用文献等
<運動変化その2、その3、その4>と<神経生理学的アプローチその1>
・反射型、階層型モデル、神経生理学的アプローチの説明
→Horak FB: Assumptions Underlying Mo-tor Control for Neurologic
Rehabilitation. (ed. by Lister MJ): Contemporary Ma-nagement of Motor
Control Problems. Pro-ceedings of the ⅡSTEP Conference. FOUND-
ATION FOR PHYSICAL THERAPY, Virginia, 1991, pp 11-27.
・行動主義の説明
 →アーサー・ケストラー: 機械の中の幽霊. 日高敏隆, 長野敬訳, ちくま学  芸文庫.
<脳性運動障害その1>
・脳性運動障害の主要な問題は筋力低下
→Craik RL: Abnormalities of Motor Be-havior. (ed. by Lister MJ):
ContemporaryManagement of Motor Control Problems.Proceedings
of the ⅡSTEP Conference.FOUNDATION FOR PHYSICAL THERAPY,
Virgin-ia, 1991, pp 155-164.
・片麻痺患者が上肢を挙上するときに肘を曲げる理由
→Mathiowetz V, Haugen JB: Motor Beha-vior Research: Implications for
therapeutic Approaches to Central Nervous Syst-em Dysfunction. The
American Journal of Occupational therapy,48:8:733-745, 1994.
・筋の硬さを生み出すメカニズム
→Dietz V,Berger W: Normal and impair-ed regulation of muscle stiffness
in gait: A new hypothesis about muscle hyp-ertonia. Experimental
Neurology, 79: 680-687,1983.
<装具療法その1>
・プラスチック製下肢装具 Plastic-Knee-Ankle-Orthosis(PKAFO)
 →森中義広: 下肢装具療法の一説. 理学療法ジャーナル, 24:8:546-548, 1990.
<運動変化その5>
・貯蔵の問題、新奇性の問題、スキーマ説について
 →Schmidt RA: 運動学習とパフォーマンス. 調枝孝治監訳, 大修館書店,  
・スキーマ説の限界について
 →Newell KM: Motor Skill Acquisition. Annu Rev Psycol, 42:213-37, 1991.
<アフォーダンスその4>
<還元主義その3>
 (広島県立リハビリテーションセンターのOTの小林さんからいただいた手紙による)
<入れ子>
・入れ子について
 →J.J.ギブソン: 生態学的視覚論(古崎敬その他訳), サイエンス社, 1985.