その5 因果関係の罠(その1)

 僕の理学療法学生時代、実習に出ると、1期10週の間に10-15人の患者様を担当させていただくことは珍しくなかった。まあ実習地の業務のお手伝いをさせられていたわけで、良いことではないというのが最近の風潮だ。が、実習時代に沢山の患者さんを見ることはいろいろな意味で悪い経験ではなかったと思う・・と言うとまた色々言われそうだから、あまり言わないのである。では始めます。


 整形中心の実習地に行くと、そこの実習指導者から「西尾君、○○さんの□□歩行の原因は何か?」などと聞かれたものだ。大抵「××筋の筋力低下」とか、「△関節の可動域制限」というところに話は落ち着く。これで筋力検査や可動域検査の結果に、××筋の筋力低下や△関節の可動域制限があれば、ウハウハ言って「××筋の筋力強化」とか「△関節の可動域訓練」に取り組んだ物だ。(読みにくくてすいません)
 このようなアプローチは「因果関係論的アプローチ」と呼ぶことができるだろう。ある現象があれば、その現象の原因となる要因を仮定して、要因と現象との間に因果の関係を想定する。理学療法だけでなく医学、あるいは科学全般でごく一般的な考え方の枠組みである。
 僕達が評価と呼ぶものは、実はこの因果関係論の枠組みで考えられることが多い。病気や怪我の後に、ある現象が見られるようになる。その現象を作り出している原因を探り、その原因にアプローチする訳だ。僕達の仕事の一部は、そのような「原因」という犯人捜しをすることなのだ。
 しかし犯人とした「筋力や可動域の低下」が捜査、いや検査の結果と一致しないことも多い。検査のやり方が下手と言われたこともあるが、大抵は「理屈通りにはいかんな・・」などと呟いておしまいになったものだ。(昔の実習地では、自然に逆らわないというかおおらかな雰囲気というのが多かった(^^;)「分からない物は分からない。よくあること。理屈通りにはいかないよ」で済ませてしまう。実は僕もよくそれで済ませてしまう(^^;))
 因果関係の捉え方は、心理学の本によると人が生まれながらに持っている理論的な思考であるらしい。非常に有効な捉え方で、科学の発達に大いに貢献している面もあるが、一方で注意しないといけないという点もしばしば指摘されている。

 マトゥラーナとヴァレラの「オートポイエーシス」という本の巻頭言にビアが次の様な例を挙げている。
 今まで自動車を見たことがない人が、初めて自動車を見る。自動車というのは人をある地点から他の地点へ運ぶ機械であるとその人は理解する。ところが、ある時その人の前で自動車が止まって動かなくなる。ドライバーが出てきて、ボンネットのふたを開け、ラジエータに水を入れる。すると再び自動車は動き出す。これを見たその人は、「自動車は水で動く機械」であると思うかもしれない。
 これが因果関係論の落とし穴である。水という入力に対して、走るという出力があるわけで、人はそこに因果関係を見てしまう。これはまず自動車というシステム全体の作動を理解していないというところから生じる誤解である。
 人の運動システムでもこの例と同じことが言えるのではないだろうか。確かに私たちは人の運動システムの構造、作動についてある程度の知識を持っている。しかし運動システム全体の作動の過程や作動状態を変化させる物についてはまだよくわかっていないところもある。そのような状態で単純な直線的な因果関係論的視点を持ち込むのは軽はずみなことかもしれない。 
 たとえば脳卒中後に、筋緊張が上がってくる。筋緊張が上がると分離した運動が見られなくなる。そして筋緊張の亢進が運動の不分離の原因である、などと考えられる。でもこの思考には変なところがあると思うのである。(さあ、どこが変でしょう?それとも変ではない?)(その2へ続く)(2013年 西尾幸敏)

 今回の文献。前回紹介した「知恵の樹」の作者が著した本です。僕自身、面白いと人に勧められる本ではありません。何かしら難しかったというか、読みたい人はどうぞ・・
「オートポイエーシス-生命システムとはなにか」H.R.マトゥラーナ, F.J.ヴァレラ, 河本英夫訳, 国文社, 1991.