実用理論事典-道具としての理論(その2)
国立呉病院附属リハビリテーション学院(廃校になりました。今はありません^^;)
理学療法士 西尾幸敏
(上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995) ”
これは当時上田先生から教えられた本などを自分で読んでは気づいたことをメモしたものをまとめたものです。
これを機にこれを機に
国立呉病院附属リハビリテーション学院
西尾幸敏
はじめに
「実用理論事典(その1)」に対する反応はほんのわずかだった。とても寂しかったが仕方ない。しかしながら、少ない反応の中で非常に重要なものもあった。それは「なぜ人ではなく、椅子が座らせるのか、カキが食べさせるのか」というある女性からの質問だ。「人が決定しないで、モノが人に決定させるなどおかしい」というのがその主張である。「椅子が座らせるのではなく、人が座るのを決定しているのだ」とした方が良い、ということだ。「椅子が座ることをアフォードする」、「カキが食べることをアフォードする」という表現がよくなかったのかもしれない。まるで椅子やカキが人に行動させているようなイメージを持たせたのかもしれない。
私が伝えたかったのはこうである。モノや動物はたくさんの情報を発している。ただそれだけだ。人や動物もたくさんの要求、状態に関する情報を発している。そしてそれらの情報と情報が出会うときに、相互作用が生まれ、ある1つの現象が生じるのである。
たとえば、我が家の2歳になる息子はちくわが好きだ。お腹が空いているときに、ちくわがあろうものなら、すぐにかぶりつく。しかし、いったんお腹いっぱいになるとラッパのようにして遊んだり、太鼓のばちの様にして食器を叩きまくる。ちくわ自体は「食べれるよ」や「口にくわえて遊べるよ」や「持って叩けるよ」という情報を常に発している。しかし息子の状態や要求は変化している。空腹の状態とちくわが出会うと、「食べる」という現象を生じ、満腹の状態と出会うと「遊ぶ」という現象を生じる。
「いま空腹だから、食物であるちくわを食べよう」、「お腹一杯になったから、このちくわの形態を利用して遊ぼう」などといちいち息子が決定しているわけではない。ましてやちくわが決定しているわけではない。ちくわの発する情報と息子の状態が相互作用してその現象が起きているのだ。「アフォードする」というのは「何かが、誰かにさせる」という使役的な意味ではなく、「何かが(ことの成り行きとして)起こる」という意味なのである。
短い間なら、しなびたり腐ったりはしないで、ちくわの発する情報は一定している。満腹になった息子に対して、ちくわは「口にくわえて声を出すこと」をアフォードする。母親がそれを見て怒る。「おもちゃにするなら、もうだめ!」と言って、とりあげようとすると、ちくわを取り上げられたくない息子は再びちくわにかぶりつく。ちくわと息子の安定した関係に母親が加わったために、それらの相互作用は再び大きく変化したのである。
さて、前置きが長くなってしまった。ちくわなどにあまり関わっている余裕はなかった。実は今回の原稿の締め切りまであまり時間がないのだ。すごく焦っているのである。前回の約束通り、今回はなんとか新しい臨床での評価法までこぎつけるつもりである。
還元主義reductionism(その2)
-生態学的な視点と物理学的な視点
前回、「実用理論事典(その1)」で述べた脳性運動障害のための評価のポイントは以下の点である。これまで私たちが使っている評価というものは還元主義的なものだった。片麻痺患者の運動を理解するために、筋力や関節可動域や麻痺の程度、認知能力など運動の構成要素と考えられるものを調べ、それぞれの状態から全体の運動の振る舞いを理解しようとする。それはそれなりに重要なのだが、しかしながら人の体をたくさんの要素に分解して、私たちは満足のいく答えを得られるのだろうか、というのは前回言ったとおり。
「水を理解する」というところを思い出していただきたい。水を理解するために、水を水分子や水素や酸素の分子や原子に分解してそれぞれの振る舞いを理解するというのが還元的な見方である。もう一つは、水を私たちの五感で理解するというものだ。さて、この二つの見方に関しておもしろい例がある。
ゲーテとニュートンの『色の性質に関する主張』がそれである。二人とも光についての研究をしたのだが、それぞれに使った方法が違った。ニュートンはプリズムを通した光を白い面に写して観察した。こうすると光は虹色に分かれ、彼はそれぞれの色こそ、集まって白色光を構成する基本的な成分に違いないと考えた。またその違いは周波数の違いによって生じると考えた。物理学者によると赤という色は1メートルの620億分の1から800億分の1の波長で射す光のことらしい。
一方ゲーテの方もプリズムを使ったが、彼はプリズムを目に当てて光を直接自分の目で見るという方法をとった。するとどうだろう、澄んだ青空やきれいな紙の表面をみても何の変化も起きなかったのである。ところが紙の上に一点の汚れがあったり、青空に1つの雲があったりすると、突然さまざまな色が見え始める。こうしてゲーテは、色を生み出すのは「光と影の交換作用」であると結論する。
二人のアプローチもまたその結果も大きく違う。ニュートンは、色を物理学の枠組みでとらえた。彼は白色光がさまざまな色の光によって構成されると考えた。赤という色は、私たちの存在に関わりなく物理的に存在するらしい。一方、ゲーテは色を知覚の問題としてとらえた。色というのは人が知覚して初めて意味がある。ニュートンは還元主義であり、ゲーテは反還元主義あるいは全体論的である。多くの人はニュートンの方法の方が科学的だという印象を受けるだろう。事実ニュートンの方法は科学として認められ、ゲーテの方法は歴史の表舞台から消えてしまった。
しかし、ゲーテの方法の意味を考えてみよう。彼は色を人の存在あってのものと考えていたようだ。色を単に物理学の枠組みでとらえると、人間の感覚とは全く関係なく赤い色が存在するような気がするが、それは私たちにとって意味があるのだろうか?むしろ、私たち誰もが赤を赤と感じるという知覚を理解することが、私たちにとって意味のあることではないだろうか?荒涼とした無人の惑星のことを考えてみよう。その惑星には物理学的にさまざまな色が満ちあふれているかもしれない。しかしそれがどうしたというのだろう。色に対する興味などは私たちが存在して初めて意味のあることである。物理学の世界では、人と光が互いに切り放すことができないという点は無視されている。
このように現実の世界を、二つの視点から眺めることができる。1つは生態学的な視点である。生態学的な視点で語られるのは環境と動物の相互作用だ。動物と環境は切り放して考えることができない。動物は環境なくして生きていくことはできないし、環境とは生命体を含んだ世界である。つまり生命が存在しない世界は環境とはいえない。動物は環境の知覚者である。物理的な世界、すなわち原子や分子の存在や振る舞いを知覚しているわけではない。
もう一つは物理学的な視点である。これは原子よりもっと小さな世界から、銀河系を含む全宇宙までのすべてを包含している。物理学的な世界では、動物は複雑な運動をする「もの」として扱われる。現在の運動学や階層型のコントロール理論はそのような視点から人の運動を理解しようとする傾向がある。物理学的な視点はそれなりに非常に重要である。しかし基本的に人の運動を理解するためには、物理学的な視点は適していない。「環境を認知し環境内で行動する動物」としての人という視点を忘れては、人の運動など理解しえない。人を物として扱い、物理的な運動の側面のみを記述したところでいったい何の意味があるのだろうか。
余談だが、ゲーテは大の数学嫌いだったらしい。ゲーテの方法論はニュートン派からは「贋科学」呼ばわりされた。しかしながら、ゲーテの方法論は真の科学と呼ぶにふさわしい趣があると僕は考えているのだが・・・。
ここにあげているようなアイデアは、まだいろいろな視点から検討できるのだが、僕はそろそろ疲れてきたので、この辺でやめておこうと思う。
生態学的測定法eco-metrics(その1)
結局ここでの私の主張は、人の運動を要素に分けたりしないで、全体的に測定できないだろうかという点に集約される。つまり人の運動は変化するのだが、たとえば認知の問題で変化している間は、いくら筋力や関節可動域を測定しても、人の運動変化を説明することなどできない。また、仮に同時に筋力や可動域や認知、その他動機などを同時に評価できたところで、それからどのように総合的な評価を下すというのか?バラバラの評価から、1つの結果を予測できるのなら、誰も最初から苦労などしないのである。
前回の話を思い出していただきたい。片麻痺の父親は、最初壁と自転車で作られたすき間を見たときに、「わしはここを通れん。自転車を倒すじゃろう。」と言った。ところが、横歩きを試した後では、「通れるかもしれん」と言いだし、実際に通ってしまった。いっそのこと、「どのくらいの狭さまでなら通れると思う?」などと親父に聞いてみたら良かったのかもしれない。なぜならば「できる」「できない」の判断は、その人の身体的能力の認知や精神的な状態、環境との相互作用の結果だからである。最初に自転車と壁の間が80センチあったとする。運動戦略や身体認知の変化が起こって、「通れる」幅が50センチになったとすれば、より狭い場所での移動が可能になることを意味する。
それはさまざまな構成要素の相互作用の結果である。私たちはそれを追い続けることによって、その人の運動が全体としてどのように変化するかを理解できるのではないだろうか。ちょうどゲーテがプリズムをのぞいて色を理解したように、私たちは患者さんの判断を通して行動能力のレベルや運動変化を理解できないだろうか。
ただこのように単純に物理的な数値で表すと、他人との比較が難しくなる。たとえば40センチは一般的にいって狭いのだろうか、広いのだろうか?これには第一に体の大きさが関係していることが考えられる。体が大きければ通れる最小幅は当然大きい。じゃあ、体の大きさを基準にして、通れる幅がどうなのかを考えればよい。そうすれば以下に紹介するように、標準値らしいものが出てくるのである。
具体例を見てみよう。カエルは前方の植物の茎などのすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと飛び出さない。スライドで壁にさまざまな高さのバーを写し、どの程度の高さまで手を使わずに登れるかを大学生に視覚的に判断させると、被験者の股下の長さ、0.88倍のところがぎりぎりだった。視覚だけを頼りに、手を使わずに座れる椅子の高さは脚長の0.9倍の高さの椅子であり、バーが「くぐれる」か「くぐれない」かをたずねると、脚長の1.07倍のところを境に答えは変わる。ここであげているのは体の大きさと視覚的情報との相互作用の結果、出てきている数値である。老人では全身の柔軟性の方が脚長よりも、「登れる最大の段の高さ」の基準として適切らしい。
このように身体の大きさ、柔軟性、能力を基にして、環境との相互作用の結果を表すための尺度を使った測定法を生態学的測定法と呼ぶ。下肢長の1.1倍とか、安静歩行時の心拍数の2倍である。これらの数値は体格や身長に関わりなく、比率自体は普遍性を持っているらしい。物理的な測定値も、身体やその機能を基にして尺度を考え直すことによって新たな視点が見えてくるが、それはまた次回の話。
ここではこのアイデアを違った視点から検討してみたい。私の勉強会の学生の一人はこのアイデアに即座に反論した。「どのくらいの幅なら通れるか、通れないかを判断してもらってもしかたないんじゃありませんか。実際にできるかどうかが問題だと思います。いくらできると判断しても実際にはできないこともあるんですから。実際に通ってもらって最小の幅をその人の能力と考えるべきではありませんか。」つまりその人がどう判断するかよりも、その人が実際に持っている物理的な能力の方が重要なのだ、とその学生は言いたかったのである。案外、生態学的な視点と物理学的な視点との境界線はそのあたりにあるのだろう。
実際には、「できる」と考えることと「できない」と考えることは大きな結果の違いを生む。少し話をそらします。私がアメリカに留学しているときに、一人の若い日本人と友人になった。二人とも同じ英会話学校に通い、ともに「トシ」というニックネームを持っていた。彼は何事にも積極的で、よく私を誘っていろいろなところに行き、いろんなものを食べ、いろんな人と友達になった。一方私と言えば、彼のする事をそばで見ていたものだ。元来引っ込み思案でもあるが、心に常にあったのは「私は英語が理解できないし、しゃべれないからな」という思いであった。「もう少し理解できれば、もう少し話せれば、いろんな経験ができるのに・・・・」という無念の思いであった。ところがある日、英会話の能力試験を受けた結果、もう一人の「トシ」の英語の理解力は私とたいして変わらないことを知って愕然とした。私は自分自身会話ができないと思うことにより、自らの行動を制限していたのである。実際にもう一人の「トシ」と同じ程度の能力を持っているかどうかが問題なのではなく、その能力を使えるかどうか、つまり「できる」と思えるかどうかが問題だったのだ。
これまでは実際にできる、できないだけが評価の基本だった。実際に「できる」「できない」だけを評価するのは、英会話の試験のようなもので、必ずしも日常生活の様子を反映していない。また筋力検査や関節可動域の測定は、物理学の視点から能力を見ているにすぎない。それによって測定された能力が、うまくがたがた道で発揮できるかどうかはまた別問題である。人は機械ではない。だからこそ、生態学的な枠組みが必要になってくるのではないだろうか。
実際「できる」と思えることは、その人の実生活での行動範囲を広げることになる。そういった判断が、訓練と共に変化するとすれば、それこそ私たちの知りたいことではないだろうか。ある人が、自らの身体の物理的な能力がある環境の中でどのように発揮されると考えるかを評価するのは、人と「環境」との相互作用である運動を見ていくことになるのである。
もちろん、実際にやってもらうことも必要だ。患者さんができると思っても実際には失敗するかもしれない。そこで僕は、「人の判断」を中心にして、それに続く「実際の運動」を絡めて、運動評価の基本にしようと提案しているわけである。が、これを実行しようとするといくつかの問題が出てくる。この問題は次回から検討しよう。
留学したての頃には、レストランの前でよく自問自答したものだ。「うまくやれるか?」「やっぱりやめとこう、大学のカフェテリアまで我慢しよう。あそこならうまくやれる。」それから8カ月くらいたった頃には、私一人での行動範囲はかなり広がった。初めてのレストランを前にして、「うまく振る舞えるか?」「まあ、なんとかなるだろう。」と思うから、その店に入り貴重な経験が積めたのである。(生態学的測定法2に続く)
単一症例研究single case study
脳性運動障害に対する訓練の効果を研究する場合には、グループ研究がよく用いられる。実際そのような研究では、症例の数は多ければ多いほど良いと考えられているようだ。しかし、治療群や非治療群を対比させようとしても、年齢、性、重症度、知的レベル、社会的背景などを考えるとグループ化させること自体不可能だ。それを比べてどうのこうのと言うのもおかしい。しかも、そんなことは誰でも知っているのに、皆やたらとこの方法を使いたがる。他人はともかく僕自身、訳はわからないがそれらしい計算式を使うもんだから、高尚な感じがするし、使ってみるとなんだか自分が科学の使徒にでもなったような良い気分がするのも確かだ。
これに対して、単一症例研究法は数学的な説明などなくても、素直に「なるほど!」と思えるような研究方法である。なぜこれがこれまでの主流の研究法でないのかと、不思議に思える。方法としてはまず、「ベースラインをとる」。ベースラインをとるというのは普段の状態を記録しておくことだ。先の父親の例を引けば、まず自転車と壁の間の隙間を見せてどのくらいの幅なら通り抜けることができるかを測定しておく。適当な期間、適当な回数それを行ってまず普段の状態を知っておく。もしベースラインが安定していれば、その後に訓練を経て起きた運動変化は、自然回復によって起きたものとは違うと考えられる。
次に実際に適当な期間、訓練を行ってみる。こうしてこの訓練期間の終わりに測定した隙間の幅がより狭くなっていれば、父親の運動能力はそれだけ訓練によって変化したことになる。さてここでいったん、訓練をやめてみよう。それからしばらく放っておいて、時々評価を行う。何度か評価してみて、結果が最初のベースラインに戻っていれば、訓練効果は一時的なものだったと判断できるかもしれない。あるいは、最初にNDTの訓練を一定期間行い、次に上田法を一定期間行い訓練効果に違いがあるかどうかを判断することも可能である。このように治療効果などを評価するときには、非常に優れた方法ではないだろうか。
もっともこの方法とて、解釈に個人差が大きくなりやすいなどの問題は持っている。そう、どんなモデルやアイデアも長所や限界を持つということだ。それでもこれは、おすすめの一品である。
運動学習motor learning(その1)
シュミットによると、「訓練によって起こる持続的(半永久的)な運動変化」のことである。長い間この分野では、ある思いこみが存在していた。たとえば、「豊かなフィードバックはより良い運動学習を生む」というのものだ。特に小児の分野では、「豊かなフィードバックによって動機を高め、より適応的な行動を導き出す」とする行動療法などの影響もあって、私たちセラピストも「より早く、より適当なフィードバックをたくさん与えること」が大切と思ってきた。これは昔ソーンダイクという人が、フィードバックは接着剤のように刺激と反応を結びつけると考えて以来の伝統であるらしい。
ところが1980年代のはじめ頃から、豊かなフィードバックは必ずしも運動学習を促進しているわけではないということがわかってきたのである。たとえばシュミットの研究では、ある運動を学習する被験者を4つのグループに分けた。1番目のグループは課題を一度練習する度にフィードバックを与えられる。2番目のグループは、5回に一度フィードバックを与えられる。3番目、4番目のグループは、それぞれ10回、15回に一度フィードバックを与えられた。その練習期間中にパフォーマンスが測定された。結果、一回毎にフィードバックが行われるものが一番パフォーマンスが改善した。また15回に一度のフィードバックのものが一番改善が見られなかった。
「なんだ、ちっとも間違っていないじゃないか。フィードバックをたくさん与えたグループの方が結果がいいじゃない。」いや、まったくその通り。ところが、さてお立ち会い。練習終了後2日目にフィードバックなしで行われた保持テストでは、結果は逆転した。もっともパフォーマンスが良かったのは15回毎のグループ、最低は1回毎のグループだった。もし運動学習が「持続的な変化」を問題にしているのなら、1回毎のグループはちっとも運動学習をしないで、一時的な運動の改善だけを起こしていたことになる。
シュミットによると従来運動学習の効果を測るために、練習中のパフォーマンス(その場で観察される運動)の変化を見ていたことが問題である。情報をより高頻度に、より素早く、より正確に与えること、すなわち豊かなフィードバックを与えれば、練習中のパフォーマンスは一時的に改善する。2日目の保持テストにおいて、結果の悪い1回毎のグループにフィードバックが与えられるとパフォーマンスが改善し、与えられない時には低下することがわかっている。そして、その一時的なパフォーマンスの改善がより良い運動学習につながるとも考えられてきたのである。
フィードバックが運動学習を改善するというのは、間違いのない事実であるらしい。しかし豊かなフィードバックはパフォーマンスを著しく良くするが、運動学習を促進しない。さらにシュミットは、一時的なパフォーマンスの改善は、むしろ運動学習の妨げになるかもしれないとすら述べている。この具体的な説明については運動学習(その2)で述べる。
つまりその場で観察される一時的な運動(パフォーマンス)の変化と、運動学習(訓練によって起きる持続的な運動変化)は、まるっきり異なった現象ということだ。これは私たちにとって新しい視点である。私たちは長い間、人の運動変化はなにもかも同じものと考えてきた。一時的な運動変化と持続的な運動変化は同じ線上にあると、当然のごとく考えていたのである。だから、一時的な運動(パフォーマンス)が変化すれば、それを繰り返すことによってやがて永続的な運動変化(運動学習)につながると考えていたのである。
少し話がそれる。僕が新人の頃、ある研修会に参加した。そして、さる有名なインストラクターのデモンストレーションを見た。確かに、子供の姿勢や運動はその場で変化した。あたかもその場で新しい運動パターンを学習したように見えたものだ。皆は驚きのため息をもらした。その時ベテランのPTが質問した。「私の経験でいうと、訓練室を出るときには子供の運動は元に戻ってることが多いんですけど・・・」インストラクターがそれに答えて、「それは一時的な問題です。もっと長い目で見てください。一時的な変化でも繰り返し行えば、やがてその子のものになります」といった内容の説明を行った。それで質問者は納得し、その場は収まり、皆ほっとし、僕も「ああそうだな」と妙に納得したのを覚えている。でもそうではなかった。一時的な変化は、持続的な変化に結びついている可能性が低い。その二つの変化は異なったもの、それぞれ独立した現象であるかもしれないのだ。
その研修会があった頃(1980年代前半)に、サルモニやシュミットは、一時的な運動変化(パフォーマンス)が、運動学習(持続的な運動変化)とは違うかもしれないということに気づきつつあったのである。くやしい。僕の前には、運動変化の違いについて考える良い機会があったのに、それを見逃してしまったのである。「経験的にいって、一時的な変化は消えてしまい、持続的な運動変化はいつまでもでてこない」という発言を聞いていたのに。その質問をしたベテランPTが、シュミットを読んでいれば、今頃もっとくやしい思いをしているかもしれない。彼は実際になにが起きているかをよく知っていたのだ。(運動学習2に続く)
運動変化motor behavior change(その1)
ここでいったん、運動変化に関する私たちの知識を整理しておこうと思う。ヴァンサンがまとめているように、人の運動変化を見る視点は3つある。)1つは「運動コントロール」という視点で、「運動行動のコントロールはどのようにしてできあがるのか」という疑問を解決しようとする。それは一瞬一瞬に起こる運動変化を研究する。2番目のものは運動学習で、「運動行動は訓練や経験を通してどのように獲得されるか」という疑問を解決しようとする。これは時間、日、週、月、年単位で訓練や経験を通して変化する運動行動を研究する。3番目のものは、運動発達で「一生を通じて運動行動はどのように、またどうやって変化するか」という疑問を解決しようとする。これは月、年、何十年という単位で起きる運動変化を研究する。
これら3つの視点には共通する部分も多いが、その違いもまた明確に認識しておく必要がある。たとえば、先に「運動学習(その1)」で述べたように、一時的な運動変化と訓練や経験を通して起こる持続的な運動変化はまるっきり別物の可能性がある。運動学習を促進するつもりで、一時的なパフォーマンスばかりを改善していたのでは情けない。やっと私たちはそのことを認識しつつある。(運動変化2に続く)
階層型モデルhierarchical modelと複合型モデルheterarchical model(その1)
階層型モデルはジャクソンによって提案され、これまで長い間中枢神経系の構造および運動変化を説明するために使われてきた。このモデルでは、もっとも随意的な運動をコントロールする上位レベルからもっとも反射的な運動をコントロールする下位レベルへと、中枢神経系は階層型の構造をしていると考えられる。もっとも上位レベルは皮質であり、脳幹は中位レベル、下位レベルは脊髄である。随意運動は心の中に特定の目標を持って、意志によって開始され、運動の目的によって無限に多様な形で現れる。反対に反射運動は、刺激の強さと反応の現れ方や強さの間に固定的な関係があり、感覚刺激によって開始される。
このモデルの他の特徴は、感覚刺激によって始まる反射的な運動は、上位レベルの未熟な乳児や、脳卒中や脳性麻痺のように上位中枢が傷害された場合に支配的になるという点だ。つまり上位レベルのコントロールの欠如が、原始反射出現の原因となるわけだ。もし上位レベルのコントロールが健在ならば、運動は上位中枢内の運動プログラムによって、中枢性に生じると考えられる。これは運動コントロールの中枢主義centralistと呼ばれる。
(反対に反射運動は感覚によって末梢性に生じる。これが連鎖的に人の運動コントロールを組織化すると説明しようとする考え方もある。これは反射説と呼ばれ、かのシェリントンによって提案された。この場合運動は末梢の感覚刺激によって引き起こされ、コントロールされるので、運動コントロールの末梢主義peripheralistと呼ばれる。)
運動発達を考えてみよう。階層型では生まれたときの赤ちゃんの上位レベルは未熟である。しかし成熟につれて、赤ちゃんの運動は定型的な運動から、多様な随意運動へと変化していく、と説明される。運動コントロールを考えてみよう。見ただけではわからないが、非常に滑りやすい床があったとする。そこを歩いてみて、初めて滑るという経験をすると、それらの情報は上位脳にフィードバックされ、「滑らないように、また床の感触に注意するように」という命令が出され、歩行はお尻を引いた小さな歩幅の慎重な歩容へと変化する、と説明される。階層型モデルでは、前もって発達が決定され、また中枢神経系が運動変化の唯一の原因となる。
これに対して人の運動は階層型にコントロールされていない、という意見がいろいろな人から提案されている。人の運動変化は、神経学的なものであれ、認知的、環境的なものであれ、1つの原因によって起こることはないし、前もって決定されているわけではない。むしろ運動は多くのサブシステムから自己組織化によって起こる。運動の変化は異なった機能を持つすべてのシステムが、並列的に参加し、相互作用することによって起こる。状況によって、もっとも影響力を持つサブシステムは違ってくる。これはすでに上田法会員のみなさんにはおなじみのアイデアだろう。
この構造は、複合型heterarchicalと呼ばれる。少し僕の持っているイメージを書いてみます。階層型で乗り物を考えるなら、自動車のようなものである。自動車はもともと陸の上、それもそんなにでこぼこでない地面の上を移動するための機械である。その目的に沿って、エンジン、タイヤ、ハンドル、ブレーキなどが備えられる。一方複合型で乗り物を考えるなら、上の構造にボートやスクリューやキャタピラや歩行器、腕などを加えた乗り物である。それは自動車でも船でもないけれど、陸でも水上でも移動できる。その時どんな移動方法をとるかは、環境次第である。
「複合型」で考えると、人が持っている運動能力を説明しやすくなる。たとえば狼に育てられた少女のようなケースは、環境によっては人が四つ這いで素早く移動する能力を発達させることを示しているのではないだろうか。決してあらかじめ決定されていたわけではない。人はもともと四つ這いで早く走れる能力を持っているのである。
またATNRは現在、「努力を要する運動の枠組み」などと解りにくい説明がされている。人が自動車に似ていると仮定した時に、もしスクリューが見つかれば苦し紛れの解釈をするに違いないが、それに似ているのではないか。しかしもともと人はたくさんの異なった能力の寄せ集めであると仮定する。そしてATNRは二足歩行とは異なった移動能力であると考えられる。もし樹上で暮らすことが普通になれば、人はATNRを枝から枝への格好の主要移動パターンとして使うのではないだろうか。その場合は、二足歩行のパターンの方が反射的なものとして扱われるかもしれない。また水泳のクロールなどは、逆ATNRパターンである。つまり場合によっては二足歩行をする。時にはATNRパターンを使うし、時には逆ATNRパターンも使う。人は環境によっていろいろなパターンを使い分けるのである。
人は道路の上を移動するための自動車ではなく、複合移動機械であると仮定できる。人は何か特定の環境に適応するためにだけ必要なシステムを持って生まれてきたわけではなくて、いろいろな環境に適応するための異なったたくさんのシステムをごっちゃに持って生まれてきていると考えられる。複合型では、最初から移動方法は限定されていないのである。
結局階層型では、最初から移動方法が限定されている。「人は地上を二足歩行するもの」といった具合だ。だからATNRは、「随意運動を邪魔する」とか「進化の名残」とか、せいぜい「随意運動の構成要素」などと言われたりする。むしろ、人が最初から持っている「移動能力のひとつ」と考えた方が自然ではないだろうか。
アフォーダンスaffordance(その3)
私たちが環境から得ているアフォーダンスとは、結局知覚者にとっての価値あるいは意味のある情報のことである。環境はたくさんの情報を発している。と同時に、その情報を受けている私たち自身の体もたくさんの情報を発している。この二つの情報の相互作用から判断や行動が生まれる。私の親父が示した問題は、まさに自分自身の体が発している情報が急激に変化したため、知覚できる価値が変化してしまったということかもしれない。少し具体的に考えてみよう。
佐々木がアフォーダンスの説明に使っている例を挙げてみよう。一本の橋がある。その橋は体重100キログラムの知覚者には「渡れない」と、体重50キログラムの知覚者には「渡れる」と知覚される。そこで50キログラムの人間に50キログラムの重りをつけることにする。重りをつけた途端に、それまで「渡れる」と知覚していた橋が「渡れない」と見え始めるわけではない。50キログラムの重りをつけた者が橋にある「渡れない」というアフォーダンスを知覚できるようになるまでは、かなりの時間をかけた環境との交渉の経験が必要だ。その後で、橋を片足で揺らしてみるかもしれない。これまで観察することのなかった橋の微妙なたわみに気がつくかもしれない。こうして「渡れない」というアフォーダンスを知覚できるようになる。
親父の脳性運動障害を「重りをつけること」にたとえるのは少し安易だが、身体の発する情報が急激に変化したという意味では似たところもある。その変化によって、親父は適応的ではない行動や運動を繰り返す。しかし環境との相互作用を通じて再び、それまで見えていないアフォーダンスに気づき始める。たとえば退院当初は、孫たちが部屋中に散らかしたおもちゃを見て、「歩けん!」と怒っていた。床に所狭しとおかれたおもちゃやがらくたの類は、親父に「歩くことができん」とアフォードしていた。しかし現在では、あるおもちゃは「杖を使って向こうへ転がす」ことをアフォードするし、おもちゃ箱とクッションの間の隙間は、「割り込んで押しのけてしまう」ことをアフォードする。
親父は環境を動き回ることによって、自分自身の潜在的な活動能力に気づきつつある。杖一本で障害物をどかし、テレビのスイッチを入れ、家具の足に持ち手をひっかけては、引っ張って立ち上がるなど。杖一本を使うにしても、様々な使い方、目的を持っていることに気づくようになる。障害物を避けるために横歩きの能力に気づき、孫がそばでうろうろしていることに対して自分の身が安全かどうかを判断するようになる。環境を知るための活動はまた、自分自身のことを知るための活動でもあったのだ。
二年前、保健所の機能訓練事業で片麻痺のおじいちゃん、おばあちゃんにソーシャル・ダンスを教えたことがある。最初私には「どうせ正確にはできないんだから、できるようにやればいいや」という思いがあったし、彼らにしても「無理だ」という思いがあったらしい。ところがやっている間に不満が出始めたのである。それは「正しいダンスを教えてくれ」というものだ。実はその時点では、私自身も正しいルンバのステップを教えた方がいいと思い始めていた。できないと思っていたステップが、「実はできる」ということにお互い気づき始めていたのである。これも自分の身体の情報と回りの人たちからの情報との相互作用の結果、彼らのアフォーダンスが変化したからだと考えられる。かくして彼らは半年後に、発表会で華麗なボックスルンバを披露するに至った。誰一人自己流のステップで踊る人はいなかった。右片麻痺の人も左片麻痺の人もいろいろなパートナーと、同じステップで踊ることができるようになったのである。
親父は発症後1年たつが、いまだに段の上り下りに「どっちの足から降りたらええんかいのう」とよく聞く。入院中に理学療法士から言われた「段を上がるときは良い方から、降りるときは悪い方から」ということに今でもこだわっているようだ。段を前にするとそのことを思い出し、そばに誰かいれば必ず聞くのである。「ええ方から上がりゃあよかったんかいのう。悪い方かいのう」
もし自分で運動戦略を身につけたのなら、こんなことは起きないのだろう。最初に自分でいろいろ試す前に運動を他人に教えられたという経験が今でも残っているのではないだろうか。自分で試す前にすでに正解が存在しているとでも思っているのである。僕は必ず「好きな方から上がったら」といっている。そうすると使う脚は、状況に左右されることがわかる。本人はできると思ってやり、特に不安も感じていない。回りがとやかく言うよりも、自然に本人が学んでいく部分は多いのではないだろうか。
「正解」として特定の数少ないパターンを教えることは、患者の選択肢を狭めることになるのかもしれない。また環境を探り自身のことを知る過程も、セラピストが教えたりすることではないかもしれない。患者さんは新しい身体状況とそれが環境との間に作り出す新しい関係を自ら学んでいけるのだから。だから私たちの仕事は教えることではなく、患者さんのアフォーダンスがより適応的に変化するよう手伝うことなのだろう。(アフォーダンス4に続く)
終わりに
反省しなければならないことがある。そもそも私の立場は、「この世界を忠実に再現するモデルや理論は存在しえない。どんなモデルや理論にも長所と限界があり、それを知って道具として使う」というものだった。もっと客観的に、長所・短所を挙げるべきなのだが、すでに自分自身そのような態度はとれないことに気づいている。ほめにくいものはやっぱりほめにくい。
最近子供の臨床を見ていないので、小児のための評価法や訓練法を考えることができない。なかなか目の前にないと考えられないのは、私の悪い癖である。今回の原稿にしても、締め切りが目の前に迫らないと書き始めないのだから。これから紹介する具体的な評価や訓練法は親父とのつきあいの中で生まれたものだ。今、目の前にあるのは、親父の問題だけなのである。
次回は評価の実際と訓練の方針について考えてみたい。しかしながら、臨床にいない悲しさで、視点が次第に現実離れしていっているのではないかという不安がつきまとう。今ふと思いついたのだが、もしかしたらもうとっくに道を踏み外しているのか?
どうか御批判、御意見、御感想をお願いします。
〒737
広島県呉市青山町3-1
国立呉病院附属リハビリテーション学院
西尾 幸敏
今回の引用文献等
<還元主義その2>
・ゲーテとニュートンの話
→ジェイムズ・グリック:カオス-新しい科学をつくる. 新潮文庫, 1987.
・生態学的視点と物理学的視点
→J.J.ギブソン: 生態学的視覚論(古崎敬その他訳), サイエンス社, 1985.
<生態学的測定法>
・生態学的測定法の具体例
→佐々木正人: アフォーダンス-新しい認知の理論. 岩波科学ライブラリー12, 岩波書
店, 1994.
<単一症例研究>
・単一症例研究について
→網元 和: シングルケースパラダイム; その方法と適応. PTジャーナル
29:189-193, 1995.
<運動学習その1>
・フィードバックに関する研究
→Schmidt RA: 運動学習とパフォーマンス. 調枝孝治監訳, 大修館書店, 1994.
<運動変化その1>
・運動コントロール、運動学習、運動発達の定義
→VanSant A: Motor control, motor learning,and motor development. (ed.
by Montgomery PC,Connolly BH): Motor Control and Physical Therapy.
CHATTANOOGA GROUP,INC., Tennessee, 1991.
<階層型モデルと異構造型モデルその1>
・hierarchical modelの説明
→Horak FB: Assumptions Underlying Motor Control for Neurologic
Rehabilitation. (ed. by Lister MJ): Contemporary Management of Motor
Control Problems. Proceedings of the ⅡSTEP Conference. FOUNDATION
FOR PHYSICAL
THERAPY, Virginia, 1991, pp 34-44.
・heterarchical model
→Heriza C: Motor development:traditional and contemporary theories. (ed.
by Lister MJ): Contemporary Management of Motor Control Problems.
Proceedings of the ⅡSTEP Conference. FOUNDATION FOR PHYSICAL
THERAPY, Virginia, 1991, pp 99-126.
<アフォーダンスその4>
・体重の変化によるアフォーダンス変化の説明
→佐々木正人: アフォーダンス-新しい認知の理論. 岩波科学ライブラリー12, 岩波
書店, 1994.
国立呉病院附属リハビリテーション学院(廃校になりました。今はありません^^;)
理学療法士 西尾幸敏
(上田法治療研究会会報, No.19, p1-15, 1995) ”
これは当時上田先生から教えられた本などを自分で読んでは気づいたことをメモしたものをまとめたものです。
早い話、僕の勉強ノートで人前にさらすものではないのでしょうが、上田先生の勧めで他人に読んでもらうことを前提に書き直しました。僕にとっては勉強になりましたが他人は読んでどう思ったのでしょうか?・・・今少し読んでみると未熟で不遜、鼻持ちならないところもあって全てはとても読む気になりません。でもまあ、こんな感じでした・・・というところです。なぜかさらけ出そうという気になったのです^^;
これを機にこれを機に
実用理論事典-道具としての理論(その2)
国立呉病院附属リハビリテーション学院
西尾幸敏
はじめに
「実用理論事典(その1)」に対する反応はほんのわずかだった。とても寂しかったが仕方ない。しかしながら、少ない反応の中で非常に重要なものもあった。それは「なぜ人ではなく、椅子が座らせるのか、カキが食べさせるのか」というある女性からの質問だ。「人が決定しないで、モノが人に決定させるなどおかしい」というのがその主張である。「椅子が座らせるのではなく、人が座るのを決定しているのだ」とした方が良い、ということだ。「椅子が座ることをアフォードする」、「カキが食べることをアフォードする」という表現がよくなかったのかもしれない。まるで椅子やカキが人に行動させているようなイメージを持たせたのかもしれない。
私が伝えたかったのはこうである。モノや動物はたくさんの情報を発している。ただそれだけだ。人や動物もたくさんの要求、状態に関する情報を発している。そしてそれらの情報と情報が出会うときに、相互作用が生まれ、ある1つの現象が生じるのである。
たとえば、我が家の2歳になる息子はちくわが好きだ。お腹が空いているときに、ちくわがあろうものなら、すぐにかぶりつく。しかし、いったんお腹いっぱいになるとラッパのようにして遊んだり、太鼓のばちの様にして食器を叩きまくる。ちくわ自体は「食べれるよ」や「口にくわえて遊べるよ」や「持って叩けるよ」という情報を常に発している。しかし息子の状態や要求は変化している。空腹の状態とちくわが出会うと、「食べる」という現象を生じ、満腹の状態と出会うと「遊ぶ」という現象を生じる。
「いま空腹だから、食物であるちくわを食べよう」、「お腹一杯になったから、このちくわの形態を利用して遊ぼう」などといちいち息子が決定しているわけではない。ましてやちくわが決定しているわけではない。ちくわの発する情報と息子の状態が相互作用してその現象が起きているのだ。「アフォードする」というのは「何かが、誰かにさせる」という使役的な意味ではなく、「何かが(ことの成り行きとして)起こる」という意味なのである。
短い間なら、しなびたり腐ったりはしないで、ちくわの発する情報は一定している。満腹になった息子に対して、ちくわは「口にくわえて声を出すこと」をアフォードする。母親がそれを見て怒る。「おもちゃにするなら、もうだめ!」と言って、とりあげようとすると、ちくわを取り上げられたくない息子は再びちくわにかぶりつく。ちくわと息子の安定した関係に母親が加わったために、それらの相互作用は再び大きく変化したのである。
さて、前置きが長くなってしまった。ちくわなどにあまり関わっている余裕はなかった。実は今回の原稿の締め切りまであまり時間がないのだ。すごく焦っているのである。前回の約束通り、今回はなんとか新しい臨床での評価法までこぎつけるつもりである。
還元主義reductionism(その2)
-生態学的な視点と物理学的な視点
前回、「実用理論事典(その1)」で述べた脳性運動障害のための評価のポイントは以下の点である。これまで私たちが使っている評価というものは還元主義的なものだった。片麻痺患者の運動を理解するために、筋力や関節可動域や麻痺の程度、認知能力など運動の構成要素と考えられるものを調べ、それぞれの状態から全体の運動の振る舞いを理解しようとする。それはそれなりに重要なのだが、しかしながら人の体をたくさんの要素に分解して、私たちは満足のいく答えを得られるのだろうか、というのは前回言ったとおり。
「水を理解する」というところを思い出していただきたい。水を理解するために、水を水分子や水素や酸素の分子や原子に分解してそれぞれの振る舞いを理解するというのが還元的な見方である。もう一つは、水を私たちの五感で理解するというものだ。さて、この二つの見方に関しておもしろい例がある。
ゲーテとニュートンの『色の性質に関する主張』がそれである。二人とも光についての研究をしたのだが、それぞれに使った方法が違った。ニュートンはプリズムを通した光を白い面に写して観察した。こうすると光は虹色に分かれ、彼はそれぞれの色こそ、集まって白色光を構成する基本的な成分に違いないと考えた。またその違いは周波数の違いによって生じると考えた。物理学者によると赤という色は1メートルの620億分の1から800億分の1の波長で射す光のことらしい。
一方ゲーテの方もプリズムを使ったが、彼はプリズムを目に当てて光を直接自分の目で見るという方法をとった。するとどうだろう、澄んだ青空やきれいな紙の表面をみても何の変化も起きなかったのである。ところが紙の上に一点の汚れがあったり、青空に1つの雲があったりすると、突然さまざまな色が見え始める。こうしてゲーテは、色を生み出すのは「光と影の交換作用」であると結論する。
二人のアプローチもまたその結果も大きく違う。ニュートンは、色を物理学の枠組みでとらえた。彼は白色光がさまざまな色の光によって構成されると考えた。赤という色は、私たちの存在に関わりなく物理的に存在するらしい。一方、ゲーテは色を知覚の問題としてとらえた。色というのは人が知覚して初めて意味がある。ニュートンは還元主義であり、ゲーテは反還元主義あるいは全体論的である。多くの人はニュートンの方法の方が科学的だという印象を受けるだろう。事実ニュートンの方法は科学として認められ、ゲーテの方法は歴史の表舞台から消えてしまった。
しかし、ゲーテの方法の意味を考えてみよう。彼は色を人の存在あってのものと考えていたようだ。色を単に物理学の枠組みでとらえると、人間の感覚とは全く関係なく赤い色が存在するような気がするが、それは私たちにとって意味があるのだろうか?むしろ、私たち誰もが赤を赤と感じるという知覚を理解することが、私たちにとって意味のあることではないだろうか?荒涼とした無人の惑星のことを考えてみよう。その惑星には物理学的にさまざまな色が満ちあふれているかもしれない。しかしそれがどうしたというのだろう。色に対する興味などは私たちが存在して初めて意味のあることである。物理学の世界では、人と光が互いに切り放すことができないという点は無視されている。
このように現実の世界を、二つの視点から眺めることができる。1つは生態学的な視点である。生態学的な視点で語られるのは環境と動物の相互作用だ。動物と環境は切り放して考えることができない。動物は環境なくして生きていくことはできないし、環境とは生命体を含んだ世界である。つまり生命が存在しない世界は環境とはいえない。動物は環境の知覚者である。物理的な世界、すなわち原子や分子の存在や振る舞いを知覚しているわけではない。
もう一つは物理学的な視点である。これは原子よりもっと小さな世界から、銀河系を含む全宇宙までのすべてを包含している。物理学的な世界では、動物は複雑な運動をする「もの」として扱われる。現在の運動学や階層型のコントロール理論はそのような視点から人の運動を理解しようとする傾向がある。物理学的な視点はそれなりに非常に重要である。しかし基本的に人の運動を理解するためには、物理学的な視点は適していない。「環境を認知し環境内で行動する動物」としての人という視点を忘れては、人の運動など理解しえない。人を物として扱い、物理的な運動の側面のみを記述したところでいったい何の意味があるのだろうか。
余談だが、ゲーテは大の数学嫌いだったらしい。ゲーテの方法論はニュートン派からは「贋科学」呼ばわりされた。しかしながら、ゲーテの方法論は真の科学と呼ぶにふさわしい趣があると僕は考えているのだが・・・。
ここにあげているようなアイデアは、まだいろいろな視点から検討できるのだが、僕はそろそろ疲れてきたので、この辺でやめておこうと思う。
生態学的測定法eco-metrics(その1)
結局ここでの私の主張は、人の運動を要素に分けたりしないで、全体的に測定できないだろうかという点に集約される。つまり人の運動は変化するのだが、たとえば認知の問題で変化している間は、いくら筋力や関節可動域を測定しても、人の運動変化を説明することなどできない。また、仮に同時に筋力や可動域や認知、その他動機などを同時に評価できたところで、それからどのように総合的な評価を下すというのか?バラバラの評価から、1つの結果を予測できるのなら、誰も最初から苦労などしないのである。
前回の話を思い出していただきたい。片麻痺の父親は、最初壁と自転車で作られたすき間を見たときに、「わしはここを通れん。自転車を倒すじゃろう。」と言った。ところが、横歩きを試した後では、「通れるかもしれん」と言いだし、実際に通ってしまった。いっそのこと、「どのくらいの狭さまでなら通れると思う?」などと親父に聞いてみたら良かったのかもしれない。なぜならば「できる」「できない」の判断は、その人の身体的能力の認知や精神的な状態、環境との相互作用の結果だからである。最初に自転車と壁の間が80センチあったとする。運動戦略や身体認知の変化が起こって、「通れる」幅が50センチになったとすれば、より狭い場所での移動が可能になることを意味する。
それはさまざまな構成要素の相互作用の結果である。私たちはそれを追い続けることによって、その人の運動が全体としてどのように変化するかを理解できるのではないだろうか。ちょうどゲーテがプリズムをのぞいて色を理解したように、私たちは患者さんの判断を通して行動能力のレベルや運動変化を理解できないだろうか。
ただこのように単純に物理的な数値で表すと、他人との比較が難しくなる。たとえば40センチは一般的にいって狭いのだろうか、広いのだろうか?これには第一に体の大きさが関係していることが考えられる。体が大きければ通れる最小幅は当然大きい。じゃあ、体の大きさを基準にして、通れる幅がどうなのかを考えればよい。そうすれば以下に紹介するように、標準値らしいものが出てくるのである。
具体例を見てみよう。カエルは前方の植物の茎などのすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと飛び出さない。スライドで壁にさまざまな高さのバーを写し、どの程度の高さまで手を使わずに登れるかを大学生に視覚的に判断させると、被験者の股下の長さ、0.88倍のところがぎりぎりだった。視覚だけを頼りに、手を使わずに座れる椅子の高さは脚長の0.9倍の高さの椅子であり、バーが「くぐれる」か「くぐれない」かをたずねると、脚長の1.07倍のところを境に答えは変わる。ここであげているのは体の大きさと視覚的情報との相互作用の結果、出てきている数値である。老人では全身の柔軟性の方が脚長よりも、「登れる最大の段の高さ」の基準として適切らしい。
このように身体の大きさ、柔軟性、能力を基にして、環境との相互作用の結果を表すための尺度を使った測定法を生態学的測定法と呼ぶ。下肢長の1.1倍とか、安静歩行時の心拍数の2倍である。これらの数値は体格や身長に関わりなく、比率自体は普遍性を持っているらしい。物理的な測定値も、身体やその機能を基にして尺度を考え直すことによって新たな視点が見えてくるが、それはまた次回の話。
ここではこのアイデアを違った視点から検討してみたい。私の勉強会の学生の一人はこのアイデアに即座に反論した。「どのくらいの幅なら通れるか、通れないかを判断してもらってもしかたないんじゃありませんか。実際にできるかどうかが問題だと思います。いくらできると判断しても実際にはできないこともあるんですから。実際に通ってもらって最小の幅をその人の能力と考えるべきではありませんか。」つまりその人がどう判断するかよりも、その人が実際に持っている物理的な能力の方が重要なのだ、とその学生は言いたかったのである。案外、生態学的な視点と物理学的な視点との境界線はそのあたりにあるのだろう。
実際には、「できる」と考えることと「できない」と考えることは大きな結果の違いを生む。少し話をそらします。私がアメリカに留学しているときに、一人の若い日本人と友人になった。二人とも同じ英会話学校に通い、ともに「トシ」というニックネームを持っていた。彼は何事にも積極的で、よく私を誘っていろいろなところに行き、いろんなものを食べ、いろんな人と友達になった。一方私と言えば、彼のする事をそばで見ていたものだ。元来引っ込み思案でもあるが、心に常にあったのは「私は英語が理解できないし、しゃべれないからな」という思いであった。「もう少し理解できれば、もう少し話せれば、いろんな経験ができるのに・・・・」という無念の思いであった。ところがある日、英会話の能力試験を受けた結果、もう一人の「トシ」の英語の理解力は私とたいして変わらないことを知って愕然とした。私は自分自身会話ができないと思うことにより、自らの行動を制限していたのである。実際にもう一人の「トシ」と同じ程度の能力を持っているかどうかが問題なのではなく、その能力を使えるかどうか、つまり「できる」と思えるかどうかが問題だったのだ。
これまでは実際にできる、できないだけが評価の基本だった。実際に「できる」「できない」だけを評価するのは、英会話の試験のようなもので、必ずしも日常生活の様子を反映していない。また筋力検査や関節可動域の測定は、物理学の視点から能力を見ているにすぎない。それによって測定された能力が、うまくがたがた道で発揮できるかどうかはまた別問題である。人は機械ではない。だからこそ、生態学的な枠組みが必要になってくるのではないだろうか。
実際「できる」と思えることは、その人の実生活での行動範囲を広げることになる。そういった判断が、訓練と共に変化するとすれば、それこそ私たちの知りたいことではないだろうか。ある人が、自らの身体の物理的な能力がある環境の中でどのように発揮されると考えるかを評価するのは、人と「環境」との相互作用である運動を見ていくことになるのである。
もちろん、実際にやってもらうことも必要だ。患者さんができると思っても実際には失敗するかもしれない。そこで僕は、「人の判断」を中心にして、それに続く「実際の運動」を絡めて、運動評価の基本にしようと提案しているわけである。が、これを実行しようとするといくつかの問題が出てくる。この問題は次回から検討しよう。
留学したての頃には、レストランの前でよく自問自答したものだ。「うまくやれるか?」「やっぱりやめとこう、大学のカフェテリアまで我慢しよう。あそこならうまくやれる。」それから8カ月くらいたった頃には、私一人での行動範囲はかなり広がった。初めてのレストランを前にして、「うまく振る舞えるか?」「まあ、なんとかなるだろう。」と思うから、その店に入り貴重な経験が積めたのである。(生態学的測定法2に続く)
単一症例研究single case study
脳性運動障害に対する訓練の効果を研究する場合には、グループ研究がよく用いられる。実際そのような研究では、症例の数は多ければ多いほど良いと考えられているようだ。しかし、治療群や非治療群を対比させようとしても、年齢、性、重症度、知的レベル、社会的背景などを考えるとグループ化させること自体不可能だ。それを比べてどうのこうのと言うのもおかしい。しかも、そんなことは誰でも知っているのに、皆やたらとこの方法を使いたがる。他人はともかく僕自身、訳はわからないがそれらしい計算式を使うもんだから、高尚な感じがするし、使ってみるとなんだか自分が科学の使徒にでもなったような良い気分がするのも確かだ。
これに対して、単一症例研究法は数学的な説明などなくても、素直に「なるほど!」と思えるような研究方法である。なぜこれがこれまでの主流の研究法でないのかと、不思議に思える。方法としてはまず、「ベースラインをとる」。ベースラインをとるというのは普段の状態を記録しておくことだ。先の父親の例を引けば、まず自転車と壁の間の隙間を見せてどのくらいの幅なら通り抜けることができるかを測定しておく。適当な期間、適当な回数それを行ってまず普段の状態を知っておく。もしベースラインが安定していれば、その後に訓練を経て起きた運動変化は、自然回復によって起きたものとは違うと考えられる。
次に実際に適当な期間、訓練を行ってみる。こうしてこの訓練期間の終わりに測定した隙間の幅がより狭くなっていれば、父親の運動能力はそれだけ訓練によって変化したことになる。さてここでいったん、訓練をやめてみよう。それからしばらく放っておいて、時々評価を行う。何度か評価してみて、結果が最初のベースラインに戻っていれば、訓練効果は一時的なものだったと判断できるかもしれない。あるいは、最初にNDTの訓練を一定期間行い、次に上田法を一定期間行い訓練効果に違いがあるかどうかを判断することも可能である。このように治療効果などを評価するときには、非常に優れた方法ではないだろうか。
もっともこの方法とて、解釈に個人差が大きくなりやすいなどの問題は持っている。そう、どんなモデルやアイデアも長所や限界を持つということだ。それでもこれは、おすすめの一品である。
運動学習motor learning(その1)
シュミットによると、「訓練によって起こる持続的(半永久的)な運動変化」のことである。長い間この分野では、ある思いこみが存在していた。たとえば、「豊かなフィードバックはより良い運動学習を生む」というのものだ。特に小児の分野では、「豊かなフィードバックによって動機を高め、より適応的な行動を導き出す」とする行動療法などの影響もあって、私たちセラピストも「より早く、より適当なフィードバックをたくさん与えること」が大切と思ってきた。これは昔ソーンダイクという人が、フィードバックは接着剤のように刺激と反応を結びつけると考えて以来の伝統であるらしい。
ところが1980年代のはじめ頃から、豊かなフィードバックは必ずしも運動学習を促進しているわけではないということがわかってきたのである。たとえばシュミットの研究では、ある運動を学習する被験者を4つのグループに分けた。1番目のグループは課題を一度練習する度にフィードバックを与えられる。2番目のグループは、5回に一度フィードバックを与えられる。3番目、4番目のグループは、それぞれ10回、15回に一度フィードバックを与えられた。その練習期間中にパフォーマンスが測定された。結果、一回毎にフィードバックが行われるものが一番パフォーマンスが改善した。また15回に一度のフィードバックのものが一番改善が見られなかった。
「なんだ、ちっとも間違っていないじゃないか。フィードバックをたくさん与えたグループの方が結果がいいじゃない。」いや、まったくその通り。ところが、さてお立ち会い。練習終了後2日目にフィードバックなしで行われた保持テストでは、結果は逆転した。もっともパフォーマンスが良かったのは15回毎のグループ、最低は1回毎のグループだった。もし運動学習が「持続的な変化」を問題にしているのなら、1回毎のグループはちっとも運動学習をしないで、一時的な運動の改善だけを起こしていたことになる。
シュミットによると従来運動学習の効果を測るために、練習中のパフォーマンス(その場で観察される運動)の変化を見ていたことが問題である。情報をより高頻度に、より素早く、より正確に与えること、すなわち豊かなフィードバックを与えれば、練習中のパフォーマンスは一時的に改善する。2日目の保持テストにおいて、結果の悪い1回毎のグループにフィードバックが与えられるとパフォーマンスが改善し、与えられない時には低下することがわかっている。そして、その一時的なパフォーマンスの改善がより良い運動学習につながるとも考えられてきたのである。
フィードバックが運動学習を改善するというのは、間違いのない事実であるらしい。しかし豊かなフィードバックはパフォーマンスを著しく良くするが、運動学習を促進しない。さらにシュミットは、一時的なパフォーマンスの改善は、むしろ運動学習の妨げになるかもしれないとすら述べている。この具体的な説明については運動学習(その2)で述べる。
つまりその場で観察される一時的な運動(パフォーマンス)の変化と、運動学習(訓練によって起きる持続的な運動変化)は、まるっきり異なった現象ということだ。これは私たちにとって新しい視点である。私たちは長い間、人の運動変化はなにもかも同じものと考えてきた。一時的な運動変化と持続的な運動変化は同じ線上にあると、当然のごとく考えていたのである。だから、一時的な運動(パフォーマンス)が変化すれば、それを繰り返すことによってやがて永続的な運動変化(運動学習)につながると考えていたのである。
少し話がそれる。僕が新人の頃、ある研修会に参加した。そして、さる有名なインストラクターのデモンストレーションを見た。確かに、子供の姿勢や運動はその場で変化した。あたかもその場で新しい運動パターンを学習したように見えたものだ。皆は驚きのため息をもらした。その時ベテランのPTが質問した。「私の経験でいうと、訓練室を出るときには子供の運動は元に戻ってることが多いんですけど・・・」インストラクターがそれに答えて、「それは一時的な問題です。もっと長い目で見てください。一時的な変化でも繰り返し行えば、やがてその子のものになります」といった内容の説明を行った。それで質問者は納得し、その場は収まり、皆ほっとし、僕も「ああそうだな」と妙に納得したのを覚えている。でもそうではなかった。一時的な変化は、持続的な変化に結びついている可能性が低い。その二つの変化は異なったもの、それぞれ独立した現象であるかもしれないのだ。
その研修会があった頃(1980年代前半)に、サルモニやシュミットは、一時的な運動変化(パフォーマンス)が、運動学習(持続的な運動変化)とは違うかもしれないということに気づきつつあったのである。くやしい。僕の前には、運動変化の違いについて考える良い機会があったのに、それを見逃してしまったのである。「経験的にいって、一時的な変化は消えてしまい、持続的な運動変化はいつまでもでてこない」という発言を聞いていたのに。その質問をしたベテランPTが、シュミットを読んでいれば、今頃もっとくやしい思いをしているかもしれない。彼は実際になにが起きているかをよく知っていたのだ。(運動学習2に続く)
運動変化motor behavior change(その1)
ここでいったん、運動変化に関する私たちの知識を整理しておこうと思う。ヴァンサンがまとめているように、人の運動変化を見る視点は3つある。)1つは「運動コントロール」という視点で、「運動行動のコントロールはどのようにしてできあがるのか」という疑問を解決しようとする。それは一瞬一瞬に起こる運動変化を研究する。2番目のものは運動学習で、「運動行動は訓練や経験を通してどのように獲得されるか」という疑問を解決しようとする。これは時間、日、週、月、年単位で訓練や経験を通して変化する運動行動を研究する。3番目のものは、運動発達で「一生を通じて運動行動はどのように、またどうやって変化するか」という疑問を解決しようとする。これは月、年、何十年という単位で起きる運動変化を研究する。
これら3つの視点には共通する部分も多いが、その違いもまた明確に認識しておく必要がある。たとえば、先に「運動学習(その1)」で述べたように、一時的な運動変化と訓練や経験を通して起こる持続的な運動変化はまるっきり別物の可能性がある。運動学習を促進するつもりで、一時的なパフォーマンスばかりを改善していたのでは情けない。やっと私たちはそのことを認識しつつある。(運動変化2に続く)
階層型モデルhierarchical modelと複合型モデルheterarchical model(その1)
階層型モデルはジャクソンによって提案され、これまで長い間中枢神経系の構造および運動変化を説明するために使われてきた。このモデルでは、もっとも随意的な運動をコントロールする上位レベルからもっとも反射的な運動をコントロールする下位レベルへと、中枢神経系は階層型の構造をしていると考えられる。もっとも上位レベルは皮質であり、脳幹は中位レベル、下位レベルは脊髄である。随意運動は心の中に特定の目標を持って、意志によって開始され、運動の目的によって無限に多様な形で現れる。反対に反射運動は、刺激の強さと反応の現れ方や強さの間に固定的な関係があり、感覚刺激によって開始される。
このモデルの他の特徴は、感覚刺激によって始まる反射的な運動は、上位レベルの未熟な乳児や、脳卒中や脳性麻痺のように上位中枢が傷害された場合に支配的になるという点だ。つまり上位レベルのコントロールの欠如が、原始反射出現の原因となるわけだ。もし上位レベルのコントロールが健在ならば、運動は上位中枢内の運動プログラムによって、中枢性に生じると考えられる。これは運動コントロールの中枢主義centralistと呼ばれる。
(反対に反射運動は感覚によって末梢性に生じる。これが連鎖的に人の運動コントロールを組織化すると説明しようとする考え方もある。これは反射説と呼ばれ、かのシェリントンによって提案された。この場合運動は末梢の感覚刺激によって引き起こされ、コントロールされるので、運動コントロールの末梢主義peripheralistと呼ばれる。)
運動発達を考えてみよう。階層型では生まれたときの赤ちゃんの上位レベルは未熟である。しかし成熟につれて、赤ちゃんの運動は定型的な運動から、多様な随意運動へと変化していく、と説明される。運動コントロールを考えてみよう。見ただけではわからないが、非常に滑りやすい床があったとする。そこを歩いてみて、初めて滑るという経験をすると、それらの情報は上位脳にフィードバックされ、「滑らないように、また床の感触に注意するように」という命令が出され、歩行はお尻を引いた小さな歩幅の慎重な歩容へと変化する、と説明される。階層型モデルでは、前もって発達が決定され、また中枢神経系が運動変化の唯一の原因となる。
これに対して人の運動は階層型にコントロールされていない、という意見がいろいろな人から提案されている。人の運動変化は、神経学的なものであれ、認知的、環境的なものであれ、1つの原因によって起こることはないし、前もって決定されているわけではない。むしろ運動は多くのサブシステムから自己組織化によって起こる。運動の変化は異なった機能を持つすべてのシステムが、並列的に参加し、相互作用することによって起こる。状況によって、もっとも影響力を持つサブシステムは違ってくる。これはすでに上田法会員のみなさんにはおなじみのアイデアだろう。
この構造は、複合型heterarchicalと呼ばれる。少し僕の持っているイメージを書いてみます。階層型で乗り物を考えるなら、自動車のようなものである。自動車はもともと陸の上、それもそんなにでこぼこでない地面の上を移動するための機械である。その目的に沿って、エンジン、タイヤ、ハンドル、ブレーキなどが備えられる。一方複合型で乗り物を考えるなら、上の構造にボートやスクリューやキャタピラや歩行器、腕などを加えた乗り物である。それは自動車でも船でもないけれど、陸でも水上でも移動できる。その時どんな移動方法をとるかは、環境次第である。
「複合型」で考えると、人が持っている運動能力を説明しやすくなる。たとえば狼に育てられた少女のようなケースは、環境によっては人が四つ這いで素早く移動する能力を発達させることを示しているのではないだろうか。決してあらかじめ決定されていたわけではない。人はもともと四つ這いで早く走れる能力を持っているのである。
またATNRは現在、「努力を要する運動の枠組み」などと解りにくい説明がされている。人が自動車に似ていると仮定した時に、もしスクリューが見つかれば苦し紛れの解釈をするに違いないが、それに似ているのではないか。しかしもともと人はたくさんの異なった能力の寄せ集めであると仮定する。そしてATNRは二足歩行とは異なった移動能力であると考えられる。もし樹上で暮らすことが普通になれば、人はATNRを枝から枝への格好の主要移動パターンとして使うのではないだろうか。その場合は、二足歩行のパターンの方が反射的なものとして扱われるかもしれない。また水泳のクロールなどは、逆ATNRパターンである。つまり場合によっては二足歩行をする。時にはATNRパターンを使うし、時には逆ATNRパターンも使う。人は環境によっていろいろなパターンを使い分けるのである。
人は道路の上を移動するための自動車ではなく、複合移動機械であると仮定できる。人は何か特定の環境に適応するためにだけ必要なシステムを持って生まれてきたわけではなくて、いろいろな環境に適応するための異なったたくさんのシステムをごっちゃに持って生まれてきていると考えられる。複合型では、最初から移動方法は限定されていないのである。
結局階層型では、最初から移動方法が限定されている。「人は地上を二足歩行するもの」といった具合だ。だからATNRは、「随意運動を邪魔する」とか「進化の名残」とか、せいぜい「随意運動の構成要素」などと言われたりする。むしろ、人が最初から持っている「移動能力のひとつ」と考えた方が自然ではないだろうか。
アフォーダンスaffordance(その3)
私たちが環境から得ているアフォーダンスとは、結局知覚者にとっての価値あるいは意味のある情報のことである。環境はたくさんの情報を発している。と同時に、その情報を受けている私たち自身の体もたくさんの情報を発している。この二つの情報の相互作用から判断や行動が生まれる。私の親父が示した問題は、まさに自分自身の体が発している情報が急激に変化したため、知覚できる価値が変化してしまったということかもしれない。少し具体的に考えてみよう。
佐々木がアフォーダンスの説明に使っている例を挙げてみよう。一本の橋がある。その橋は体重100キログラムの知覚者には「渡れない」と、体重50キログラムの知覚者には「渡れる」と知覚される。そこで50キログラムの人間に50キログラムの重りをつけることにする。重りをつけた途端に、それまで「渡れる」と知覚していた橋が「渡れない」と見え始めるわけではない。50キログラムの重りをつけた者が橋にある「渡れない」というアフォーダンスを知覚できるようになるまでは、かなりの時間をかけた環境との交渉の経験が必要だ。その後で、橋を片足で揺らしてみるかもしれない。これまで観察することのなかった橋の微妙なたわみに気がつくかもしれない。こうして「渡れない」というアフォーダンスを知覚できるようになる。
親父の脳性運動障害を「重りをつけること」にたとえるのは少し安易だが、身体の発する情報が急激に変化したという意味では似たところもある。その変化によって、親父は適応的ではない行動や運動を繰り返す。しかし環境との相互作用を通じて再び、それまで見えていないアフォーダンスに気づき始める。たとえば退院当初は、孫たちが部屋中に散らかしたおもちゃを見て、「歩けん!」と怒っていた。床に所狭しとおかれたおもちゃやがらくたの類は、親父に「歩くことができん」とアフォードしていた。しかし現在では、あるおもちゃは「杖を使って向こうへ転がす」ことをアフォードするし、おもちゃ箱とクッションの間の隙間は、「割り込んで押しのけてしまう」ことをアフォードする。
親父は環境を動き回ることによって、自分自身の潜在的な活動能力に気づきつつある。杖一本で障害物をどかし、テレビのスイッチを入れ、家具の足に持ち手をひっかけては、引っ張って立ち上がるなど。杖一本を使うにしても、様々な使い方、目的を持っていることに気づくようになる。障害物を避けるために横歩きの能力に気づき、孫がそばでうろうろしていることに対して自分の身が安全かどうかを判断するようになる。環境を知るための活動はまた、自分自身のことを知るための活動でもあったのだ。
二年前、保健所の機能訓練事業で片麻痺のおじいちゃん、おばあちゃんにソーシャル・ダンスを教えたことがある。最初私には「どうせ正確にはできないんだから、できるようにやればいいや」という思いがあったし、彼らにしても「無理だ」という思いがあったらしい。ところがやっている間に不満が出始めたのである。それは「正しいダンスを教えてくれ」というものだ。実はその時点では、私自身も正しいルンバのステップを教えた方がいいと思い始めていた。できないと思っていたステップが、「実はできる」ということにお互い気づき始めていたのである。これも自分の身体の情報と回りの人たちからの情報との相互作用の結果、彼らのアフォーダンスが変化したからだと考えられる。かくして彼らは半年後に、発表会で華麗なボックスルンバを披露するに至った。誰一人自己流のステップで踊る人はいなかった。右片麻痺の人も左片麻痺の人もいろいろなパートナーと、同じステップで踊ることができるようになったのである。
親父は発症後1年たつが、いまだに段の上り下りに「どっちの足から降りたらええんかいのう」とよく聞く。入院中に理学療法士から言われた「段を上がるときは良い方から、降りるときは悪い方から」ということに今でもこだわっているようだ。段を前にするとそのことを思い出し、そばに誰かいれば必ず聞くのである。「ええ方から上がりゃあよかったんかいのう。悪い方かいのう」
もし自分で運動戦略を身につけたのなら、こんなことは起きないのだろう。最初に自分でいろいろ試す前に運動を他人に教えられたという経験が今でも残っているのではないだろうか。自分で試す前にすでに正解が存在しているとでも思っているのである。僕は必ず「好きな方から上がったら」といっている。そうすると使う脚は、状況に左右されることがわかる。本人はできると思ってやり、特に不安も感じていない。回りがとやかく言うよりも、自然に本人が学んでいく部分は多いのではないだろうか。
「正解」として特定の数少ないパターンを教えることは、患者の選択肢を狭めることになるのかもしれない。また環境を探り自身のことを知る過程も、セラピストが教えたりすることではないかもしれない。患者さんは新しい身体状況とそれが環境との間に作り出す新しい関係を自ら学んでいけるのだから。だから私たちの仕事は教えることではなく、患者さんのアフォーダンスがより適応的に変化するよう手伝うことなのだろう。(アフォーダンス4に続く)
終わりに
反省しなければならないことがある。そもそも私の立場は、「この世界を忠実に再現するモデルや理論は存在しえない。どんなモデルや理論にも長所と限界があり、それを知って道具として使う」というものだった。もっと客観的に、長所・短所を挙げるべきなのだが、すでに自分自身そのような態度はとれないことに気づいている。ほめにくいものはやっぱりほめにくい。
最近子供の臨床を見ていないので、小児のための評価法や訓練法を考えることができない。なかなか目の前にないと考えられないのは、私の悪い癖である。今回の原稿にしても、締め切りが目の前に迫らないと書き始めないのだから。これから紹介する具体的な評価や訓練法は親父とのつきあいの中で生まれたものだ。今、目の前にあるのは、親父の問題だけなのである。
次回は評価の実際と訓練の方針について考えてみたい。しかしながら、臨床にいない悲しさで、視点が次第に現実離れしていっているのではないかという不安がつきまとう。今ふと思いついたのだが、もしかしたらもうとっくに道を踏み外しているのか?
どうか御批判、御意見、御感想をお願いします。
〒737
広島県呉市青山町3-1
国立呉病院附属リハビリテーション学院
西尾 幸敏
今回の引用文献等
<還元主義その2>
・ゲーテとニュートンの話
→ジェイムズ・グリック:カオス-新しい科学をつくる. 新潮文庫, 1987.
・生態学的視点と物理学的視点
→J.J.ギブソン: 生態学的視覚論(古崎敬その他訳), サイエンス社, 1985.
<生態学的測定法>
・生態学的測定法の具体例
→佐々木正人: アフォーダンス-新しい認知の理論. 岩波科学ライブラリー12, 岩波書
店, 1994.
<単一症例研究>
・単一症例研究について
→網元 和: シングルケースパラダイム; その方法と適応. PTジャーナル
29:189-193, 1995.
<運動学習その1>
・フィードバックに関する研究
→Schmidt RA: 運動学習とパフォーマンス. 調枝孝治監訳, 大修館書店, 1994.
<運動変化その1>
・運動コントロール、運動学習、運動発達の定義
→VanSant A: Motor control, motor learning,and motor development. (ed.
by Montgomery PC,Connolly BH): Motor Control and Physical Therapy.
CHATTANOOGA GROUP,INC., Tennessee, 1991.
<階層型モデルと異構造型モデルその1>
・hierarchical modelの説明
→Horak FB: Assumptions Underlying Motor Control for Neurologic
Rehabilitation. (ed. by Lister MJ): Contemporary Management of Motor
Control Problems. Proceedings of the ⅡSTEP Conference. FOUNDATION
FOR PHYSICAL
THERAPY, Virginia, 1991, pp 34-44.
・heterarchical model
→Heriza C: Motor development:traditional and contemporary theories. (ed.
by Lister MJ): Contemporary Management of Motor Control Problems.
Proceedings of the ⅡSTEP Conference. FOUNDATION FOR PHYSICAL
THERAPY, Virginia, 1991, pp 99-126.
<アフォーダンスその4>
・体重の変化によるアフォーダンス変化の説明
→佐々木正人: アフォーダンス-新しい認知の理論. 岩波科学ライブラリー12, 岩波
書店, 1994.