その8 Contexual therapy(その2)

 前回(その7)では、Context therapyアプローチを筆者達の言うままというよりはちょっと良いところを見つけて紹介してみました(^^ゞ今回は少し疑問に思うというか納得のいかないところ(^_^;を取り上げます。
 前回、「ちょっと驚くような内容なので」と紹介しましたが、今回この部分を詳しく書きます。これについては書くかどうかをかなり迷いました。システム論自体、初めて聞いた方もいると思いますし、そんな中でこんなオタク?な議論が分かってもらえるのかどうか・・というところです。
 でも言っておかないと、紹介した責任というのもありますので・・・腹の虫が治まらないというのもあります(^^;))
 では始めます。

Context therapyアプローチ-納得のいかないところ


 前回述べたように、Context therapyアプローチはシステム理論を基にした他のアプローチ、task-orientedやactivity-forcusedアプローチなどと概念を共有している。もちろん僕の提唱するCAMRもシステム理論を基にしているので共通する概念も多い。
 しかしシステム理論を基にした他のアプローチとも明らかに一線を画すところがあると彼らは言う。それは、子供の身体能力や障害には直接アプローチしないというのだ。そしてアプローチするのは環境と課題だけである、という。身体能力を直接変化させるようなアプローチはせず、環境と課題だけを変化させ、コンテキストに焦点を当てているという。
 だが、この主張自体がおかしい。task-orientedにしろactivity-forcusedにしろ、元々課題や環境要素を変化させるアプローチである。この文章を読む限り、Context therapyも課題や環境要素を変化させている訳で、違うところはなにもない。またそれらのアプローチが身体能力や障害を変化させることを直接の目標としているわけではない。あくまでも環境内での課題遂行のための機能の達成と改善を目標としている。これまたContext therapyと違ったところはないではないか。
 task-orientedにしろactivity-forcusedにしろContext therapyにしろ、課題と環境を変化させることで、課題を達成させようとしているし、その過程の中で運動スキルや筋力、柔軟性などの身体能力も自然と変化しているはずで、とても違いがあるとは思えない。
 これまでのシステム論的アプローチとの違いを言いたくて、無理をしているのか?と思ってしまう。あるいは気づいておられないのか?
 多分前回挙げられていた例が自分たちのアプローチが他と違う、とその象徴的な物として捉えているのでしょう。スクールバスのステップが高くて1人で乗り込めない脳性麻痺の子供がいる。普通のセラピストなら、子供の筋力改善や高い段差を登るための運動方略を見つけてもらうためにいろいろと子供にアプローチするところである。
 しかしそういった場合にも、Context therapyのセラピストは子供にアプローチせず、学校に電話をしてステップを低く改造してもらうのである。これにはこれで良いところがある。まず障害者だけが一方的に努力を要求されるのもおかしい。障害者に一方的に努力を押しつけない、という社会的な価値観が含まれているのだろう。
 またこの解決手段によって、子供はすぐに(論文によると翌日には)学校側が対応して1人でスクールバスに乗れる様になったとのこと。子供は新しい運動スキルを身につけるために長い期間、「1人でバスに乗れない」という苦痛と敗北感に悩まされることもない。環境をいじった方が解決が早く遙かに効果的であるとセラピストが判断すればそれで良しとする訳である。
 「どうだ!子供の身体能力にアプローチしなくても問題は解決しますよ」、と得意そうである。が、この考え方を推し進めるのであれば、寝返りができなくて動けない子供には「寝返り介助」ロボットを開発、歩きたいのに歩けない子供には「歩くの介助」ロボットを作ってあげる、ということになりそうである。やはりセラピストではなくなるじゃん、という話になってしまいそうである。PT・OTとしてどうなのか?何をしたいのか?というところがまったく見えてこない。
 また一方で子供の気持ちは実際どうだったのだろうか、と思う。ただ回りの努力だけで問題が解決して良かったのか?子供がそれを望んだのか?「高めの段差をできるだけ短い時間で上がる」という運動課題は実際的で挑戦的、達成してみたい良い運動課題ではなかったのか?と思ったりもする。

 もう一つ、Darrahらの大きな誤解と思えるところは、「課題と環境だけを変化させるから『状況』に焦点を当てている、としているところ。
 CAMRでは、「状況一体性」というアイデアを提案している。たとえばバスのステップを挙がる例では、最初1人ではできない、という失敗と失望の状況がある。しかし手すりを持つ位置や手すりに対しての体の位置関係を変えて練習をすると、「あれ、これならできるかもしれない」と感じるかもしれない。練習を繰り返しているうちに、上下肢で体を持ち上げる筋力が増えてきて、「前よりは上手くできるようになった」と喜ぶかもしれない。
 つまり運動スキルや運動リソースが変化しても、「もしかしたらできるかもしれない」という運動認知の変化を起こしうるし、変化した運動認知がより行動を変化させ、状況を変化させるかもしれない。運動変化と状況変化は常に一体であるし、片方が変化すればもう片方も変化するのである。システム論を唱えながら、状況を固定した状態のように捉えるところがどうも納得いかない。
 結局何を手段として、どこにアプローチしてもコンテキストは変化させられる。なにも、「身体能力に直接アプローチしない」とか「課題と環境調整だけにアプローチする」からコンテキストに焦点を当てている、というほどのこともないのではないか。
 むしろコンテキストに焦点を当てるなら、コンテキストの変化を評価してもらいたい。それならばコンテキストに焦点を当てている、と言えそうだ。が、実際に評価しているのは身体能力やADLの評価であってコンテキストの変化を評価したとは書いていない。
  
 彼女たちがこのような形でアイデアを展開したのは、幾つかの理由が想像できる。一つはシステム論に対する理解の仕方が実は一般とかなり異なっているのではないか。(これについては言いたいことは山ほどあるが長くなってしまうので止めておく。昔上田がDarrahの動的システム論について書いたエッセイを巻末に挙げているので参考にして欲しい)
 もう一つには家族療法の影響を受けていて、それをなんとか理学療法・作業療法の中で展開したい、という気持ちが強いのではないかと思う。(論文中でも家族療法を取り入れている、と明言している)
 これは家族療法とか短期療法と呼ばれる心理療法の一分野があり、これがまあ魅力的なのである。実は僕自身、この療法の方法論にとても惹かれていて、いつかこれを上手く理学療法に持ち込めないか、応用できないかとここ何年も試みているのである。だが使える場面は限られているし、なかなかうまくいかない。同様に彼女たちがやっていることはリハビリのセラピストととしては明らかに上手くいっていないように思える。彼女たちはPT、OTではなくまるで心理療法士やソーシャルワーカーのように振る舞っているようだし、そのことに疑問を感じていないように思えるところが不思議である。
 
 ただ、同じアイデアを自分とは明らかに違う視点から見ているものを読むのは大いに刺激になるものだと思う。今回のDarrahらの論文には正直疑問も大きかったが、得るものも大きかった。たとえば「障害者が社会適応のために最大限の努力をする」方略と「最小限の努力で適応できる」方略の両方の可能性が常にあるということに気づかされたこと。常にこの二つの可能性を視野に入れながらアプローチを進めることは大事なことではないか、と考えさせられた。(2013年 西尾幸敏)
 
今回の文献は前回と同じ
1)Context therapy: a new intervention approach for children with cerebral palsy: Darrah j et al., Developmental Medicine & Child Neurology, 2011, 53:615-620.
2)Focus on function: a cluster, randomizd controlled trial comparing child- versu context-focused intervention for young children with cerebral palsy: Law MC et al., Developmental Medicine & Child Neurology, 2011, 53:621-629.

 実は約10年前、僕が勝手に師匠と思っている上田正先生が、まさしくこのDarrahの動的システム論に関する論文を批判的に取り上げている。その中で上田はDarrahらが動的システム論を勘違いしているのではないか、と書いているが僕も今読んでそう思わなくもない。(歯切れが悪い・・・(^^ゞ)
 
上田正「動的システム論から見た脳性麻痺治療-試論-」 上田正の脳性麻痺学2010:255-273.