その10 問題解決に原因の探求は必要か?(その1)

西尾幸敏 2013/5/21
 あるべき姿(理想の姿)と現実の姿に違いがあると、人はそれを問題と感じるようです。そうして現実の姿をあるべき姿に近づけようと努力します。
 たとえば「脳性運動障害者は健常者の運動をモデルとするべき」などです。このように実現不可能な「あるべき目標」を持ってしまうと、新たな問題が形成されます。
 それはこんな具合です。クライエントにとってみれば実現不可能な目標を掲げられ、「それを達成できない自分」、「期待に添えない自分」に失望と怒り、絶望を感じます。
 またセラピストもセラピストで「いつまでも未熟な自分」、「努力の足りない自分」、そして時には自分の努力に「応えてくれないクライエント」を非難します。「この人はやる気がない。やる気さえ出してくれれば・・・」など。僕は理学療法士になって、随分このような状況を回りで見てきましたし、僕自身もそれに少なからず参加していました。
 ワツラーウィックらは、実際には解決方法なんか存在しないのにそんな目標を持ち続けることを「ユートピア・シンドローム」と呼んでいます。「脳性運動障害者が、健常者の運動を真似し、やがては健常者のように振る舞う」という前提も一つのユートピア像なのでしょう。
 元々脳性運動障害に対するアプローチに選択肢がなかったのかもしれません。もちろん昔から脳性運動障害に対して「正常化」ではなく、機能改善のための筋力強化アプローチの選択肢もあったのでしょう。が、僕が学生の頃には、「筋力強化」は間違ったアプローチと強く非難されていました。そして「正常化」のアプローチこそが正しいアプローチ、と言われてましたので自然にそうせざるを得なかったのです。そうしてクライエントは結果的に正常化することはなく、クライエントもセラピストも自分を責めたり、相手を責めたりの袋小路に入ってしまうのだと思います。

 最近あるセラピスト達は、「クライエントが自己実現するために、あるいは幸せになるために頑張りましょう」みたいな感じに見えることがあります。「他人が幸せになることを手伝う」とか「自己実現を手伝う」と言うことは良いことのように思えますが、ここにも実現不可能なユートピア像を見ます。
 元々「幸せの追求」とか「生き甲斐探し」とか「自己実現」とかは各個人の問題であり、各個人でやるものだと思います。健常者だろうが障害者だろうがその点については関係ない。健常者にしても障害者にしても同じようにもがいている問題でしょう。他人がとやかく言って手伝うことでもないと思います。
 むしろ、クライエントが自分自身で生き甲斐探しや自己実現を達成しようと努力できるような、準備状態になるようにお手伝いするまでが僕達の仕事ではないか。イヤもっと現実的に言えば、クライエントにとって目の前の問題が少しでも軽くなるようにお手伝いすることではないか、と思います。僕達にできることはそんなことではないか?
 CAMRでは、できるだけ現実的な枠組みで、無理をしなくてもなんとかならないか、という視点から考えていきます。たとえば「訓練室」の「20分」の訓練時間で、実生活の機能的改善が生み出せるかどうか?と問うことです。
 最近の流行は生活機能は実際の生活の場でなきゃダメ・・という意見も多いようですが、そればかりでないことを僕達はこれまでの経験を通して知っているはずです。つまりセラピストが実生活の行動に効果的に働きかけられるのはどの部分か、運動のどのレベルか、ということをはっきりさせることです。そうするこで訓練の場が、「訓練室」か「実際の生活の場」かは関係なく、効果が出せると言うことが分かってきます。
 
P.ワツラーウィック/J.ウィークランド/R.フィッシュ 長谷川啓三訳
 「変化の原理 問題の形成と解決」りぶらりあ選書/法政大学出版局