実用理論事典-道具としての理論(その4)

実用理論事典-道具としての理論(その4)
 国立呉病院附属リハビリテーション学院(廃校になりました。今はありません^^;)
         理学療法士 西尾幸敏
(上田法治療研究会会報, Vol.8 No.2, p76-94, 1996) ”
 これは当時上田先生から教えられた本などを自分で読んでは気づいたことをメモしたものをまとめたものです。

 早い話、僕の勉強ノートで人前にさらすものではないのでしょうが、上田先生の勧めで他人に読んでもらうことを前提に書き直しました。僕にとっては勉強になりましたが他人は読んでどう思ったのでしょうか?・・・今少し読んでみると未熟で不遜、鼻持ちならないところもあって全てはとても読む気になりません。でもまあ、こんな感じでした・・・というところです。なぜかさらけ出そうという気になったのです^^;


これを機にこれを機に

 

実用理論事典-道具としての理論(その4)
           国立呉病院附属リハビリテーション学院
                       西尾幸敏

はじめに
 前回は多くのお叱りをいただいた。具体的な評価の方法を説明するといいながら全然ふれていないからだ。少し言い訳をします。実は自分の考えていることが少しはものになるかどうか実際にやってみたのである。親父や学生を相手にしたり、同僚の秋山さんや広島県立リハビリテーションセンターの勉強仲間と話し合ったりもした。しかし、どうもうまくないのである。これは意外に大仕事だということに気がついた。 というのは、システム理論を基にすると「評価は全面的に改革される」必要があることに気がついたからだ。おそらく具体的な訓練方法を考えるよりも大変である。それで評価を紹介するのは、当分後回しになる予定である。臨床ですぐに、容易に実施できて、しかもよりたくさんの人を説得できるものにしたいからである。

 さあ、それでは始めます。



アフォーダンスaffordance(その5)
 最初にアフォーダンスの意味を整理しておきたい。環境は多くの情報を発しているが、それらの情報には絶対的な意味や価値はない。人と出会うことによって始めて「意味」や「価値」を生ずる。その生まれた「意味」や「価値」がアフォーダンスである。アフォーダンスというのは、行為する私たちと環境との出会いによって生じるのだ。
 私たちは「アフォーダンス理論」から何を学んできたのだろうか?まず「人の運動変化は環境に依存している」といった内容のことである。『依存する』とはどういうことか?それは「人は環境との相互作用の中で見いだす『意味』あるいは『価値』によって行動している」ということだ。つまり『意味』や『価値』によって運動を生じさせ、一瞬一瞬に変化させ、運動学習をし、長期的には運動を発達させる。逆に言えば『意味のない』あるいは『価値のない』ことは基本的に、人の運動に変化を起こさないし、学習もされない。
 訓練室でセラピストから教えられた運動パターンは、訓練室を出たとたんに消えてしまうケースは多い。なぜならその運動パターンは訓練室でしか意味を持たないからだ。それならば訓練室でやる訓練は無意味かと言えば、そうでもない。たとえば患者さんの痛みを弱めること、筋力を改善すること、関節可動域を改善すること、全身の持久力を改善することは患者さんの意味を見いだす能力を変化させるはずである。自分一人で立つのが精一杯だった人が、一人で10メートル歩けるようになったとする。これだけで環境に見いだされるアフォーダンスは随分変化するはずである。結果アフォーダンスの変化は新たに運動を変化させる。
 だがこの辺りは、従来の訓練法では元々視野に入っていない。従来の訓練法では、運動変化の原因をさまざまな構成要素に還元する。そしてその要素に働きかける。しかし、アフォーダンスに相当する視点が欠けていたのである。結果、運動変化の原因は、筋力だの関節可動域、あるいはセラピストのハンドリングなどに還元されてしまう。セラピストは運動変化が自律的に起きること、たとえば本当に生活に必要な運動変化が訓練室以外、つまり生活環境で起きていることを知らない。多くの患者さんは自分自身で、必要な運動変化を起こしていけるのだ。
 「運動を生じさせ、変化させ、学習させる意味」としてのアフォーダンスを運動変化の中心に据えることは、患者を自立した存在として扱うということだ。セラピストの仕事は、患者さんの意味を見いだす能力を変化させることだ。後は患者さん自身の環境で、患者さん自身にとって意味のある運動変化を、患者さん自身が生み出していく。我々セラピストは、運動変化のほんの「きっかけ」となっているに過ぎない。だが、我々セラピストだけが提供できる「きっかけ」がある。
 僕はもう少し、このアフォーダンスを意識した訓練体系を確立したい。たとえば運動変化は、セラピストのハンドリングや筋力増強訓練だけによって、あるいはそれを中心に起きているのではないのだということをはっきりさせたい。運動の変化は、セラピストによらずとも、もっと自律的に起きているのだ。つまりアフォーダンスを中心にして。「運動はアフォーダンスを変化させ、変化したアフォーダンスは運動を変化させる」といった辺りをうまく評価と訓練実施に結びつけたいと思っている。

 最後にもう一度まとめておく。「我々セラピストの仕事は、運動を直接変化させることではない。運動変化そのものは、アフォーダンスを中心に患者さんが行うのである。我々はそのアフォーダンス、「価値を見いだす能力」を変化させる。たとえば身体の物理的能力(筋力や関節可動域など)、動機付け、環境操作(装具や家屋改造)などの手段を用いることによってである。」


運動コントロールモデルmotor control model
 これまで紹介してきた「反射型モデル」と「階層型モデル」では、「コントロール」という言葉は、少なくとも「何かが、何かを支配する、制御する」という意味で使われてきた。私たちにとってもこの意味は何の違和感もない。たとえば「反射型モデル」では「感覚入力」が、「階層型モデル」では「上位の運動プログラム」が「運動を生じさせ、制御する」という風に説明してきている。
 ところがこれから紹介する「システムモデル」では、「コントロール」とは明確に「何かが何かを支配する」という意味では使われない。同じ「コントロール」という言葉でありながら、意味が違っているのである。その意味とは、おおよそ「(いろいろなものが作用しあった結果として生まれ出た)秩序」というものだ。従ってシステム理論という枠組みの中では、「運動コントロール」は「運動に現れた秩序」という意味で使われている。
 一つの言葉が、異なった文脈の中では異なった意味を持つ。残念ながらこのような用語の混乱はずっと続いていくのだろう。いっそのこと「運動コントロール理論」は「運動秩序理論motor order theory」としたら都合が良い。「一瞬一瞬に起こる秩序ある運動変化がどのようにして生まれるかを説明するための理論」が運動秩序理論なら、話はもっとすっきりとするのである。


運動変化motor behavior change(その5)
  -運動コントロールの「システムモデル」
systems model of motor control (その1)
 さて、運動変化を説明するための反射型モデルや階層型モデルは、限界が明確になっている。それではもう一つのシステム理論はどうか。1967年まで、このベルンシュタインの理論は英語に翻訳されなかった。だからこのモデルが我々の選択肢に入ってまだ間がない。じっくり吟味をしてみよう。
 以下はHorak論文からの要約である。しかし少し難しいに違いない。はっきり言って僕には少し難しい。ここでは上田の真似をして、一つのアイデア毎に、僕なりの解釈を括弧に入れて挿入してある。面倒でもお付き合い願いたい。

 「運動コントロールのシステムモデルは、反射モデルや階層型モデルと同じくらい早くに紹介された。システムモデルは最初1932年ロシアの神経学者、ベルンシュタインNicoli Bernsteinによって提案された。」
 「システムモデルによると、運動は末梢的にあるいは中枢的に起こされるのではなく、多くのシステム間の相互作用の結果として出現する。各々のシステムはコントロールの異なった局面に関係している。運動のコントロールに影響するシステムは、比較、命令、そして記憶などのシステムを神経系内部に持っている。ただそればかりでなく、例えば筋骨や環境のような神経系外部のシステムも、運動のコントロールに影響する。コントロールに影響するシステムには上位も下位もない。関係するたくさんのシステムは同レベルにあるからである。運動コントロールは目的によって調整される。また目的は同じでも、異なった環境では異なったタイプの運動を生み出す。」
 「システムモデルの主な仮説を見てみよう。神経系は、課題目標を達成するように組織化される。システムモデルによると、運動は感覚経路や中枢プログラムによって規定されている筋の活性化パターンによって協調されるわけではない。そうではなくて、運動戦略がシステム間の相互作用から出現するので、正常運動は協調される。すなわち運動戦略は、神経系がコントロールを行っている運動の自由度を制限するために生じるのである。それ故に、コントロールとは、反射モデルのように筋や感覚受容器を支配することではなく、また階層型モデルのように筋活性化パターンを支配することでもない。つまりコントロールとは、運動学的な変数間の関係や課題目標の遂行のような運動行動の抽象的な局面を支配しているのである。現在行われている運動コントロールに関する多くの研究は、運動学的なあるいは動的な変数を制限する不変の関係を明確にしようとしている。その運動学的な変数とは、ベルンシュタインによって仮定された、神経システムが多くの自由度をコントロール(制御)するために使うコントロール戦略のことである。」
(課題目標とは、生きていく上で意味のある目標である。従って「食物をとる」という課題が「腕を伸ばす」と言う運動を生み出す。単に「腕を伸ばす」というのは、課題目標とは言えない。そして神経システムは課題目標を達成するために柔軟に変化・対応していると考えられる。しかしながら実際に生まれてくる運動は、神経系だけによって制御されているのではない。「運動戦略」と呼ばれる「法則」のようなものによって「運動に秩序を生み出す」と考えられる。「運動戦略」とは、神経系だけから生じるものではない。課題を達成するために、現に存在する様々の下位システム全体の相互作用から生じる法則のようなもの・・・かな?
 ただしHorakは、神経系がコントロール(運動)戦略を使うという風に表現している。運動戦略は、各サブシステムの相互作用から出てくるが、この運動戦略を神経系が使って、運動をコントロールする。この辺りわかりにくい。運動プログラムと運動戦略が置き換わっているだけではないか?どう違うのか?運動プログラムとは具体的な筋の活性化パターンである。運動戦略はいくつかのシステムに秩序を生み出す法則性である。だから違うのだ、となるのか・・・・・まあ、僕にはよく解らないところもあるのだ。
 もう一つ、『運動の自由度』問題は、後で『ベルンシュタイン問題』のところで説明します。今は無視して進みましょう。)

 「システムモデルのもう一つの仮説は、神経系は筋骨系や環境に関係した物理的な法則によって運動にかかる制限に適応するし、それを予言するということである。神経系は、予想された世界と実在の世界との相互作用を、絶え間なく比較する。それによって、神経系は課題目標を遂行するため最も効果的な、また運動学的に効率的な方法を実現するために、常にそのモデルを変化させる。」
(システム理論では、神経系は柔軟に変化し続けると捉えられている。その変化とは、経験の度に運動プログラムをよりたくさん蓄えて、肥大化していくような変化とは違う。上田の言うように「筋骨が神経系の奴隷として働いてるんじゃないゾ。筋骨はできることがもう決まっとるもんだで、しょうがにゃーで中枢神経系が奴隷のように働いとるんだにゃあ」といったところかもしれない。良く気がつく、働き者の奥さんのように甲斐甲斐しい変化をしているのではなかろうか。・・・もっとも今時そんな奥さんは珍しいのである。)

 ここまでのまとめ。運動の秩序は、神経系が事細かに制御しているから生まれているというわけではない。様々な要素(たとえば環境、筋骨、体力、記憶あるいは予期など)の相互作用から生まれてくる「運動戦略」という一つの法則によって運動の秩序が生まれてくる。中枢神経系の役割は、「一番偉い指揮官」と言うよりは「良く気のつく幹事さん」として考えられる。要は、中枢神経系が運動をコントロールするのだが、コントロールする内容もそのやり方も違う。『コントロール』は「上位から下位へ命令する」とか「脳が他の部分を支配する」という意味ではなく、「秩序を生み出す」といった感じで使われている。
 まだ先は長いので、ここで一旦休憩して別の話題を・・・


運動コントロールモデルmotor control model
 前の項目で述べたように、システムモデルでは、「コントロール」とは「支配、命令」という意味では使われない。同じ「コントロール」という言葉でありながら、意味が違っているのである。その意味とは、おおよそ「(いろいろなものが作用しあった結果として生まれ出た)秩序」というものだ。従ってシステム理論という枠組みの中では、「運動コントロール」は「運動に現れた秩序」という意味で使われている。
 一つの言葉が、異なった文脈の中では異なった意味を持つ。残念ながらこのような用語の混乱はずっと続いていくのだろう。いっそのこと「運動コントロール理論」は「運動秩序理論motor order theory」としたら都合が良いのかもしれない。「一瞬一瞬に起こる秩序ある運動変化がどのようにして生まれるかを説明するための理論」が運動秩序理論なら、話はもっとすっきりとするのである。


ベルンシュタイン問題Bernstein's problems(その1)
 ついに『来たか』という感じである。「実用理論事典」を書き始めた時から、できるだけ早い時期にこのテーマは扱わねばならないと思っていた。が、思ってはいたが書けなかったのである。何しろ手元にあるのは、英文原本の部分のコピーだけ。この2年間いくつかの業者に頼んだのだが、原本はどこでも手に入らなかった。いろいろな論文から断片的にアイデアは拾い集めたが、とても書く自信はなく悶々としてきたのである。
 ところが日本語で書かれた良い本が見つかった。現時点(96年4月中旬)ではまだ発刊されていないのだが、「岩波講座 認知科学4 運動」という本である。その中の第1章は、「アフォーダンス」でも紹介した佐々木正人という人が書いていて、そこでベルンシュタイン問題がまとめられている。これはPT・OTはもちろん、運動変化に興味のある人は、是非とも読むべきである。また、すでに既刊であるが「岩波講座 現代社会学4 身体と間身体の社会学」や「アクティブ・マインド 人間は動きの中で考える」もお薦めである。
 これらの本を読むと、これまでの日本の医療分野における人の運動の捉え方がいかに貧弱であったかと、身に滲みるのである。たとえば医療分野では、人の身体をまるで機械のように見ているなどと言うことがよく解る。そしてそれだけなのである。運動に認知や経験や、感情や社会がいかに影響しているかなどといった視点がとても貧弱なのだ。『全人間的アプローチ』などと称しても、基本的に人の運動を機械の運動と同じように見ていたんでは駄目だと思うのだ。

 さて本題に入ろう。ベルンシュタイン問題は二つある。一つは運動の『自由度問題degree-of-freedom problem』であり、もう一つは『文脈の多義性context-conditioned variability』の問題である。
1.自由度問題degree-of-freedom problem
 自由度とは「制御のために決定しなくてならない値」のことである。たとえば人の上肢には26の筋がある。また、少なくとも各筋には少なく見積もっても100の運動ユニットがある。従って一側の上肢をコントロールするために、26かける100、つまり2600の自由度をコントロールしなければならない。しかもこれが全身となれば非常に膨大な自由度となる。人の中枢神経系は、どのようにこの自由度をコントロールしているのだろうか?もし脳がそんなにもたくさんの決定を、生きている間続けなければならないと考えるのは非経済的だし、現実的ではない。
2.『文脈の多義性context-conditioned variability』
 プログラムによる中枢性の運動コントロールは、筋あるいは筋群の活動をいかに調整するかというところに焦点があるのだが、一つの筋の振る舞いは、主に3つの文脈性によって変化する。1番目は解剖学的多義性で、一つの筋が関節の位置によって主働筋にも拮抗筋にも変化するというものである。2番目は力学的多義性で、肘が伸びている時と曲がっている時では、同じ興奮が二頭筋に起きても結果は異なってしまう。3番目は、生理学的多義性である。一般に臨床神経学では、脊髄レベルは伝導路と呼ばれるものがあって、まるで上位の命令を糸電話の糸のように、脊髄前角細胞に伝えているだけのように考えられているようだ。しかし、一つの細胞は他の多くの細胞からの興奮を受け、同時にその一つの細胞が他の多くの細胞に伝える構造である。構造そのものに上位・下位の違いは認められず、従って単なる伝導路という構造も存在しない。多くの神経系を伝わるほど、命令は変容してしまうのである。
 これらが意味することは、筋を活性化するための一つの命令が、関節の位置や運動や神経細胞を伝わる途中に、常に一つの結果を生み出すのではなく、多くの異なった結果に終わってしまうことを示している。

 人の運動を筋の活動を調整することで決定しようとすると、「自由度」で述べたようなたくさんの決定するべき値があり、しかもその値は、「多義性」のところで述べたようにさらに様々な状況の中で複雑さを増していく。これでは無限の数のプログラムが必要になってしまい、脳がいくら容量があってもパンクしてしまう。コンピュータの類推から、人の運動を制御するプログラムというアイデアは非常に分かり易いものと錯覚してしまう。しかし人の運動を説明するための運動プログラムというのは、逆にものすごく難しく、複雑かつ無限に膨大なものとなるのだ。


装具療法orthotics therapy(その2)
 例のプラスチック製長下肢装具だが、その後の話である。この長下肢装具が親父の物理的移動能力を改善するのはどうやら間違いないようである。また、改善した移動能力が、親父の振るまい全体に変化を与えたのも事実である。しかし、それは長続きしなかった。しばらくすると、あまり動かない元の生活へと安定してしまった。たとえばそれは「寒いから、動きたくない」といった理由である。動かなくなるとあまり装具もつけなくなる。装具をつけなくなると「やっぱりつけた方が歩きやすいのう」などと言う。が、持続的に装着するところまでいかない。つまり装具をつけると言う環境の変化は、一時的に親父の振る舞いに変化を起こしたが、持続的な変化を起こすほどではなかった。どうすれば持続的な変化を起こせるのだろうか。
 この装具を紹介してくださった横浜病院の森中先生によれば、まず自分で装具の脱着ができる必要があるそうである。実際この装具は、練習によって多くの患者が自分で脱着できるようになるそうだ。親父はこれがうまくいかない。「人の力に頼らない」で行動し始めることに意味があるのかもしれない。しかし、しばらく親父と暮らしてみると、どうも違った問題がはるかに大きいようなのである。

 以前述べたように、僕は家ではあまり親父の訓練をしない。一つには訓練などと言うのは、人生においてあまり重要ではないからだ。きっと他に何か他にやりたいことがあって、その課題を達成するために訓練が必要になればそれは意味がある。しかし、人生において訓練がまず重要になるはずがない。親父は訓練という言葉が嫌いで、おふくろが「訓練しんさい」などと何度も励ますと、最後には「訓練じゃないんじゃ!」と怒る。もっともである。それでもおふくろも僕も女房も喜ぶものだから、「今日からきちんと歩く『訓練』をしょうて」などと言って家の回りを歩くことがある。自分の歩行能力を確かめて、ちょっぴり家族にも喜んでもらおうというのが親父にとっての訓練の意味らしい。
 訓練をしない代わりに、なるべく外に連れ出そうとしている。たとえば時々は回転寿司などに連れていく。無趣味な親父なので、たとえば外出に喜びを見つけて欲しいのだ。幸い女房は養護学校の教員なので、しょっちゅう障害のある子供達を連れ歩いている。従って親父を連れ出すという計画にも抵抗なく協力してくれる。僕の口からいうのも何だが、良くできた嫁なのかもしれない。しかし当の親父ときたら、「『体が不自由なくせに、そんなにまでして寿司が食いたいかいのう』とみんな思うとるわ」などと言うのである。性格もあるだろうが、まあ田舎に住んでいる人たちの平均的な感覚なのかもしれない。
 それでせっかくの長下肢装具も性能を発揮しきれないでいる。親父にとっては、長く歩くということには、あまり意味がないのである。「不自由な体をして・・・」といった辺りが邪魔をしているのだろう。どこかに行きたいなどという意欲が基本的に低いのである。逆に体は不自由でもしょっちゅう外に出たい人にとっては、装具というのは大きな武器になるに違いないのだが。

 こうしてみると面白いことに気がつく。私は二つの立場で親父を見ている。セラピストとして親父の運動変化を見ると、装具は大きな運動変化を起こしているように見える。セラピストの目から見ると、なかなか魅力的な手段である。しかし家族として、生活の中で装具を見ると、装具による変化など打ち消してしまうくらいもっと大きな流れがあるのである。それで訓練室の中などで、セラピストは患者さんの運動変化を過大に評価する傾向があるのではないだろうかなどと思ったりもする。この問題は面白いので、次回から「文脈性」という項目で扱う予定である。


運動変化motor behavior change(その6)
  -運動コントロールの「システムモデル」
systems model of motor control (その2)
 さて、再びHorakのシステムモデルの説明の続きである。

 「システムモデルの臨床的な意味の1つに、運動は行動的な目標を中心に組織化されるという仮説がある。単独に反射や運動パターンを引き出すよりもむしろ、同一であるとみなしうる機能的な課題に働きかけることが重要になってきている。」
(たとえば歩くために膝の屈伸を練習するのではなく、移動という文脈性の中で歩くことを練習することが重要であるということ。)

 「システムモデルでは、正常な運動戦略は、筋骨と環境の制限(constraints)との間の適当な相互作用によって形作られるとされている。それで、セラピストはそれらの制限を評価し操作するように試みる。例えば、多彩な姿勢と、様々な表面、視覚的なそしてバイオメカニカルな状態の下で練習するような課題を持つことによって、それらの制限を評価し操作するように試みる。多くの正常な筋活性化パターンは1つの課題目標を達成することができるので、システムモデルを用いるセラピストは、特定の筋活性化パターンを活動させるよりは、むしろ様々な方法で運動障害を解決する事を神経系が学習するように試みるだろう。」
(正常な状態では、一つの課題をいろいろな方法で達成することができると言うこと。と言うよりは、僕たちは普通、たくさんの解決手段を持った上で、現実に接している。たとえば私の長男は6歳だが、すでにいろいろな速度で二足移動ができるし、ジャンプもできるし、転げないで急激に立ち止まることもできる。もちろん四つ這いもできるし、片脚飛びで30m位は楽に移動する。片脚でくるっと回るし、重いランドセルを背負ってスキップできる・・・・など。それらの能力を持った上で、我が家の幾分散らかり気味の居間を移動する。つまり様々なやり方で居間を移動することができる。一方片麻痺の親父は、そんなことが全然できないのに同じ居間を移動する。その違いは容易に想像がつくと思う。
 従って、セラピストは何をするべきか?この問題はこの後出てくる「課題主導型アプローチ」で詳しく述るつもりである。)

 「脳損傷に続く運動障害は、神経コントロールの欠如を示すだけではない。それはシステムが傷ついたにも関わらず、課題目標を遂行するために、残ったシステムによる最高の試みをもまた表している。Gordonが以下のように述べている。『これは学習された運動パターンのような・・・代償的な戦略としての障害を見ているのだ』。」
(たとえば階層型モデルの立場では、片麻痺患者の歩行を『異常な、病的な』状態としてだけ見ているが、システムモデルでは違う。神経系が傷ついているのは確かなのだが、その傷ついたシステムで精一杯環境に適応した結果を見ている。それを軽々しく、『あなたは間違っているから、私が正解の運動パターンを教えてあげよう。』などと誰が言えよう。もっとも私の見るところ8割以上のセラピストは、善意からにしろそんなことを言っているようである。本当に私たちは『正解』のパターンなど知っているのだろうか?変化し続ける環境の中で、これがもっとも相応しいといった運動パターンを誰が教えられると言うのか・・・おっと、また少し攻撃的になってしまった。女房がこれを読むと「何を偉そうに!」などとおっしゃるに違いない。いや、同僚の秋山なら・・やはり「ちょっと偉そうじゃない?」などと眼鏡越しにおっしゃるに違いない。というわけで言いたいことは山ほどあるのだが、ここではこれくらいにしておくのである。)

 「システムモデルが臨床的に役立つ点は、システムモデルが様々な環境下での、運動行動の柔軟性と適応性を説明することができるという点だ。システム理論においては、機能的な目標と環境的な制限の両方が、運動を決定するために大きな役割を演じていると考えられる。同じ刺激が異なった運動の原因となるし、異なった刺激が似たような運動という結果に終わるのである。例えば、肩の上を同じように叩いても、もし恋人の到着を待っている間に感じるものと、暗い小道を歩いている間に感じるものと比べるのでは、異なった反応が引き出せるであろう。セラピストの挑戦とは、神経系によってコントロールされなければならない自由度を減少させるために、運動課題における機能的な目標を明確にし、環境的な制限に適応させることである。」
(彼女の論文の中で、私がもっとも好きな部分である。この話をしていたところ、同僚の秋山も面白いたとえを出してきた。「ジーンズならなんてことない動きでも、ミニスカートじゃ、そうはいかんよ。」なるほど、女性ならではである。もっとも私は、秋山がミニスカートをはいているのは見たことがない。)

 さてここまでのところ、何となく理解していただければ結構だと思う。この後、彼女の論文はシステムモデルの限界などへと進んでいくのだが、ここではこれだけにしておく。いずれにしても言葉や概念で、現実のすべてを置き換えるなどできないに違いない。それ故に、システム理論の限界とは果たして何であろうか、というのはまた別のお話で。


脳性運動障害cerebral motor disability(その2)
 前回に続いて小林さんから手紙をいただいた。
 「今まで、共同運動パターンなどを異常と決めつけていました。異常なものはやはり正常に近づけるという発想になりがちです。しかし異常パターンと今まで考えていたものが、Horakのいうように、課題を達成するために残ったシステムが作り出すある時点での最高の試みであり、学習された代償的戦略であるとすると、一概に異常とは言えなくなってきます。見る側の構えが肯定的であれば、上肢の屈曲共同運動に見えていたものが、なるほど、上肢のトルクを減じて挙げやすくする動きに見えてきました。またDuncanは、片麻痺を持つ人が膝を曲げようとしたときに股関節まで曲がってしまう現象(屈曲シナジー)を、二関節筋であるハムストリングスの弱化の代償として、少しでもバイオメカニカルな優位性を高めるものとして起こる、と見ています。
 こう考えると、治療的介入はどのようになされるのか疑問になってきます。以下のようなときは運動パターンの修正が必要と考えてよいのでしょうか。
1)ある代償的運動戦略が明らかに二次的な問題を起こす危険性が高く、しかも他の  ものを使える可能性がある場合。
2)ある代償的運動戦略が、回復過程の早期に構築され、硬直化している。そして、  後の回復によりもっと効率的な戦略を行う可能性がある場合。」

 さあ、みなさんはどう考えられるでしょう?これは結構みんなで議論していくのに面白いテーマではないでしょうか。
 以下に問題をもう一度まとめてみます。
 ①どのような代償運動で、どのような二次的な問題が起こるのか?
  また、そのような代償運動を止めて、他のやり方ができるのか?
 ②回復早期における代償戦略がそのまま固定化したと思われるもの。
  その後身体の回復・変化があったにも関わらずいつまでも続けられる代償運動。
  そのような代償運動を止めさせることは可能か?
 それぞれに何か思いつきや実例があったら発表して見ませんか?つまりこの誌上で議論して見ませんか?(匿名でも結構です。)まず具体的な例をたくさん出してみましょう。脳性麻痺でも片麻痺でもかまいません。これまで雑誌などに単発的に、しかも断定的にそのような例が載っていることがありましたが、それに対して特に批判や検討も行われず、無条件に再使用されている例もあります。ここでもう一度根本から考え直してみることも必要でしょう。何しろここでは従来の「脳性運動障害像」そのものの見直しをやっているのですから。「当たり前」という思いこみが一番危険です。


脳性運動障害cerebral motor disability(その3)
 前回「学生に重りをつける」実験を紹介したが、「実際にやってみてもうまくいかない」というご意見をいただいた。実際、上肢の先の方にだけ重りをつけたのでは、私たちは「振りをつける」戦略で持ち上げるようになる。実は重りの付け方にこつがあって、手関節に加えて「肩関節から上腕にかけて重垂ベルトをつける」のである。

 私の方からひとつ、とんでもない提案を・・・。
 「脳性運動障害者の採る運動戦略は私たちのものとそんなに違わない」のではないか(大胆すぎるかな?)。たとえば正常者でも、上肢に重りをつけ相対的な筋力低下を起こすと肘を曲げて肩を屈曲するという、片麻痺の人と同じ戦略を採ってしまう。新しい例を紹介しよう。立っている3歳の息子の肩に私の両手を置き、床面に向かって力を加えていく。すると息子の股関節は次第に内転して足幅が狭くなる。自分でも人をおんぶして立ってみると、楽に立つためには多少股関節内転した方が楽である。『脳性麻痺の四肢麻痺の子供などを立たせると、股関節が内転するが、同じ戦略なのでは?』
 何かご意見をお寄せください。


ベルンシュタイン問題Bernstein's problems(その2)
 ベルンシュタイン問題が指摘するのは次の点である。つまりある課題に対応した筋の活性化パターンを特定する運動プログラムがあるとすれば、膨大な大きさの運動プログラムが無数に必要となり、どうしたって脳はパンクしてしまう。決めなければならない値が多すぎるし、その値も解剖学的、運動学的、神経学的多義性の中でさらに複雑さを飛躍的に増す。環境の様相は無限で、その中で人の運動は一瞬一瞬に変化するし、ほとんど無限に変化する。筋の活性化パターンを決定するプログラムによって中枢的に制御するというアイデアはここで限界となる。
 ところがプログラム説の立場をとろうが、あるいは非プログラム説の立場をとるにしろ、いずれにしても「神経系が学習された運動において何を記憶しているのか?」と言うのは大いなる興味ではなかろうか?現にプログラム説を採ろうが採るまいが、人が「運動を覚えている」のは間違いない。筋や筋群の活性化パターンをプログラムとして蓄えているのではないとしたら、いったい何をどんな形で蓄えているのだろうか?ここではベルンシュタイン問題に対する解決策を検討してみよう。

 まずシュミットの言うようなスキーマ説あるいは一般運動プログラム説が出てくる。たとえば右手でアラビア文字を紙の上に鉛筆で書く練習をすることを考えてみよう。それができるようになった後では、黒板一杯にチョークで、あるいは右足で砂の上に習った文字を書くことができるはずである。それもその人らしい筆跡で。筋の活性化パターンで記憶していないというのはこれで明らかだ。鉛筆で紙の上に書いている間に、右肩周囲筋や右下肢の筋群を使った練習はしていないからである。
 それで鉛筆で紙に字を書いている過程を通じて、汎用プログラムを作り出していると仮定してみる。これは中枢神経系に貯蔵されるのだが、使うときには、環境の変化に応じて修正が可能である。そのプログラムでは速度や力の大きさ、あるいは使われる部位や効果器が容易に変更されうるとされる。つまり同じ動作を異なった運動パターンで実現することができる。これが一般運動プログラムと呼ばれる。これはどうも時間的なパターンとして作られているようだ。
 こうして一つの一般運動プログラムによってたくさんの運動が生み出されることが可能になり、脳内の容量の問題や学習の転移が容易に説明される。ところがよく考えてみると、異なった環境でのプログラムの修正が可能であるにしても、その修正はどのようになされていくのであろうか?この修正を行うのが、前回「運動変化その5」で述べたスキーマである。スキーマはある動作で一般化された規則である。結局、一般化された運動プログラムを一般化した規則によって修正するというのがその主なポイントになるらしい。
 が、僕にはどうも理解しがたいところがあるのだ。たとえば一般運動プログラムが運動の速度や力の大きさを変化させられるというのは何となく納得できるのだが、他の部位、つまり右上肢で覚えた運動を左下肢でも容易に一つのプログラムで実行するといった辺りがどうしてなんだろうと思うのである。各関節は構造や機能が違っているではないか。どうしてそれが可能になるのか?
 もともと運動プログラムという概念は、いつどのような大きさでどの筋を収縮させるかという点から出発しているのである。一般運動プログラムの中で、使われる筋を区別しないのなら、一般化されたルールの中で特定しなければならなくなってしまうので、一般化ルールすなわちスキーマは結局は、ルールの膨大化という問題を解決できなくなってしまうのではないだろうか。もう一つ、一般運動プログラムを修正するための一般化されたルールもまた、無限に変化する環境の中ではひたすら「あーでもない、こーでもない」とその量を増し続けるのではないかと思うのだが・・・・これでは振り出しに戻ってしまうではないか。
 
 このように運動の自由度を絞り込むために、中枢性あるいは上位レベルですべてを解決しようとすると、どうも結局のところベルンシュタイン問題を解決できないのではないだろうか。そこで中枢性にあるいは上位レベルだけで運動の自由度を絞り込まないですむ方法がいくつか考えられている。
 一つは、マス・スプリングモデルmass spring modelというものである。これはできるだけ中枢内のプログラムをダイエットしようとする試みで、プログラムは運動が最終点に止まるときの筋の硬さだけを特定して、運動の最終ポイントをコントロールするというものだ。運動は主働筋と拮抗筋の硬さが釣り合ったところで終わる。また、筋の硬さは筋の収縮だけではなく、筋の弾性からも生み出される。PolitとBizziによると一度正確にボタンを押すことを学習した猿を、脊髄後角で感覚遮断しなおかつ視覚を遮っても、また運動の開始点をいろいろ変化させても、猿は正確にボタンを押すことができるのだそうだ。つまり猿は、運動の最終点で運動を終わらせるように、筋の緊張を変化させる情報だけを蓄えているというものである。
 さて筋肉はスプリングのような弾性を持ったシステムでもある。そこで一つのジョイントでつないだ二本の棒を用意する。これに4本のスプリングを筋肉に見立てて、このジョイントをまたぐように等間隔につけたものを用意する。4本のスプリングで四方から引っ張られている『疑似肢』である。これをある方向に向けると、肢は振動した後に平衡点に達して静止する。一本のスプリングの硬さを変化させると、再び振動した後で新たな平衡点に静止する。この振動した後に平衡点に達するという性質は、人の書字などの複雑な運動にも見られるらしい。このように筋骨システムの弾性や制限といった性質を取り込むことによって、運動の自由度問題を解決することができるのかもしれない。
 これは明らかに階層型モデルでのプログラムによる中枢制御とは違っている。というのは中枢神経系の作用は、運動コントロールの一局面だけに影響を与えているのに過ぎないからだ。運動の別の局面では、筋骨系と環境が運動変化を支配していると考えられる。
 大砲の弾を撃つことを考えてみよう。着弾点を大まかに決めるのは砲手で、方向、角度を決める。しかし実際の砲弾の着弾点は、打ち出された瞬間に砲手の管理を離れてしまう。たとえば風や空気の抵抗などによって実際の着弾点は決定してしまう。つまり砲手のプログラムだけでは実際の着弾点は決定されない。人の場合、最終点での筋の緊張だけをプログラムとして正確に記憶する。最終点に至る過程は、筋骨システムにお任せである。運動の熟練とは、砲手が風向きや抵抗を計算に入れて方向・角度を決定するように、筋骨系の性質などをより正確に把握し計算に入れるようになることなのだろう。
 このモデルでは、運動の自由度を絞り込む場合のプログラムをなるべく小さくし、中枢での負担を軽くしようとしている。どの程度ダイエットの効果があるかは疑問だ。結局、大砲を撃つときの砲手の役割が非常に大きいことには間違いない。またこのモデルには複雑な運動を説明しがたいといった問題点が指摘されている。それでもヴァンサン(ⅡSTEP会議で議長を務めた人)は、システム論的な運動プログラム説として有望視しているようだ。(僕はこの人の論文に人柄の良さを感じて非常に好感を持っているのだ。だからついついひいき目に見てしまうのだ。)

 もう一つの解決方法は、ベルンシュタインがシナジーsynergyと呼んだ構造を運動の基本にすることである。それは、次回「ベルンシュタイン問題その3」で扱うことにする。


運動学習motor learning(その3)
 人は運動学習において「何を学んで」いるのだろうか?筋の活性化などのプログラムでないとしたら・・・
 システム理論では、「運動戦略」が学習されるということになるのだろう。運動戦略とは、運動システムを構成する様々な下位システムを協調させる規則のようなものである。少し具体的な例で考えてみる。何人かのグループで「本を作る」場合を考えてみよう。一人のリーダーが、自分を含め他のメンバー全員の行動予定表をみっちり作り、行動予定表からずれていないか常に観察し、思い通りにいくように指示を出し続ける、といったやり方はあまり現実的ではない。普通、グループの一人一人は自律的な存在である。一人一人の趣味や特技はもちろん、その人の持つ生活基盤も違っている。従って自分の思い通りに事を運ぼうとするリーダーはよく存在するが、その思惑通りに事が運ぶ事はまれである。
 これは人間という存在がかなり独立して振る舞うからである。つまり他人の思い通りにはなかなか振る舞わない。各人にはそれぞれの希望や夢がある。各人それぞれに、振る舞いを決定するためのルールがある。たとえば一人は、実際に発表したい作品がある。他の一人は皆とわいわい楽しみたいと思っているだけかもしれない。一人はグループの他のメンバーに好意を持っているのかもしれない。そういった人達の集まりにとって、たまたま「本を作る」という目標はとても「価値」のある課題となっている。そしてこの課題を達成するためにはやはりいくつかの規則が存在する。たとえば「活動には休まず、参加する」とかいったものである。
 この例で、人の運動システムを考えてみよう。人という存在は、何か意味のある課題を持つ。たとえば「食物を見つける」とか。その課題を達成するために個性の異なる、しかもかなり自律的なシステムが協力しあう。たとえば力を生み出す筋肉のシステムとか、ある方向への動きを可能にしたり制限したりする骨・関節のシステムとか記憶や認知の役割を持つ神経系システムとかである。それぞれのシステムは、それぞれのルールを持つ。骨・関節は重力の法則に従うし、筋は硬さを生み出すための独自のルールを持つ。それで全体として協力しあうための規則、つまり「運動戦略」が必要となる。
 様々な「運動戦略」が存在すると考えられるが、いろいろ経験してみるとやはり価値のある「運動戦略」が最終的に学習されるようになると思うのだ。たとえばエネルギー効率が一番良いとか。長く立位をとっているときは、筋の作用だけによって膝を伸展位に保つよりは、膝関節の靱帯などの制限なども利用した方が楽だとか、そのためには重心線が膝の前を通るような身体のアライメントをとることだとか、そんなことだと思う。
 だから運動戦略を教えられるかどうかと言えば、教えられない。患者さんの身体の状態とある環境が出会ったときにどのような運動戦略が生ずるか、わかりようがないではないか。結果をある程度理解したとしても、予測はかなり難しい。運動戦略がどのように生じてくるのか、どの方向に運動を導いていくのかすべては患者さん任せなのである。もっとも患者さんとて運動戦略を理解したり言葉にできるものではないが。私たちか自分の運動戦略を言葉にできないのと同じだ。結果ある意味で私たちの行う訓練は、次に何が出てくるかわからないさいころを振るような、予測不可能なものなのである。
 だが患者さんの運動戦略を変化させることはできる。私たちは患者さんの変化が好ましい方向に向かうことを期待して、いろいろな構成要素を変化させたりする。たとえば関節可動域を、筋力を、あるいは意欲などを変化させることによって、一つ一つのサブシステムの振る舞いを変えることによってである。それは最終的に全体の振る舞いを変えてしまうかもしれない。
 たとえば「意欲を高める」ことは、ある運動をより高頻度に生み出すかもしれない。それは局所的な筋力を高めるかもしれない。全体的な持久力を高めるかもしれない。しかしそれは同時に運動戦略を変化させ、その変化した運動戦略がより異なった運動とその秩序を生み出す。そういった期待はできる。ただその過程と結果を予測することはできないのである。


アフォーダンスaffordance(その6)
 「たとえば意欲を高めることは、ある運動をより高頻度に生み出すかもしれない。それは局所的な筋力を高めるかもしれない。全体的な持久力を高めるかもしれない。しかしそれは同時に『アフォーダンス』を変化させ、その変化した『アフォーダンス』がより異なった運動とその秩序を生み出す」
 前の項目の最後の段落の『運動戦略』を『アフォーダンス』に置き換えてみた。これまでのアフォーダンスの説明を読まれていれば、何の違和感もないのではないだろうか。システムモデルでいう「運動戦略」とは、アフォーダンスのことかもしれない。これ以降、「運動戦略」と「アフォーダンス」は同じ意味として扱っていくつもりだ。ただ、これらがまるっきり同じものかというとそうでもないかもしれない。しかし、認知心理学で生まれた「アフォーダンス」とPTの世界で使われる「運動戦略」が、いつまでも平行線を進むのも事態を複雑にするだけのようだ。それで不都合もないようなので、思い切って同じものとして扱うつもりである。


課題主導型アプローチtask-oriented approach(その1)
 今回の「はじめに」でも書いたように、評価より訓練の方を先に紹介する。評価にはクリアしないといけない難しい問題がいくつかあることがわかってきたので、すぐ実用になりそうにはない。逆にシステム理論を基にした訓練の方針は、これまでのところでいくつか明確になってきている。少しまとめてみよう。
 まず脳性運動障害者に見られるパターンは、決して異常ではない。たとえば筋力低下に対する精一杯の代償運動かもしれない。異常でないなら、あえて正常化する必要はない。もっとも「正常化」は必要なくても、「より効率化」あるいは「より安全化」する必要はあるかもしれない。
 さらに大事なのは、脳性運動障害者は自律的な学習者であるということだ。私たちセラピストには患者さんがどのような運動戦略(アフォーダンス)を得るかが予測できない。またセラピストは直接運動戦略を教えることはできない。最終的に運動戦略を得るのは患者さん自身なのである。それで私たちは患者さんを「自律的な学習者」として捉える必要がある。こちらが手足をとって細かく導かなければ「駄目だ!」などと考えるのは、患者さんが自ら認知し判断する経験を奪ってしまいかねない。
 ここでは最後にもう一つ挙げておく。それは運動戦略を生み出すための基盤(物理的能力)はやはり大きい方が良いということだ。筋力や持久力はできるだけ高い方が良い。10メートルよりは15メートル歩ける方がよい。しかもそれに加えて1メートル横歩きもできて、後ろにも50センチ歩けるとしたら、実際に「通路を進んでトイレに行く」場合に、より異なった結果を生むはずである。現実に適応するためのより効果的な運動戦略を生み出す可能性が高いということだ。



終わりに
 「障害者の役に立ちたい」などという動機からこの道を選んだ人が多いのだろうと思う。さすがに、よく気をつかわれる。僕が前回愚痴ったのを気にされたらしく、励ましの手紙など下さる方がいた。
 人間はやはり「共感」するとか、「共鳴」する動物である。まわりから気を使っていただくとやはり元気になるし、やる気にもなる。患者さんもきっとそうなのだ。テクニックや知識の偏重は、ともすれば患者さんを「機械としていじくり回す」ような態度を作り出しかねない。「人は互いに共鳴する」といったことを忘れがちになる。また「適応的な運動を経験させれば適応的な運動プログラムができて、適応的な運動をするようになる」といったプログラム説偏重の人も、ともすればこの辺りのことを忘れがちなのではなかろうか。何しろたくさん経験させてプログラムを作るのに忙しいので、共鳴する暇がなくなるのでは?・・・・偉そうなこと言いました。

 どうかご意見、ご批判、ご感想を下記まで送ってくださるようお願いいたします。

 〒737
 広島県呉市青山町3-1
 国立呉病院附属リハビリテーション学院
 西尾 幸敏



今回の引用文献等
<運動変化その5、その6>
・システムモデルの説明
→Horak FB: Assumptions Underlying Mo-tor Control for Neurologic
Rehabilitation. (ed. by Lister MJ): Contemporary Ma-nagement of Motor
Control Problems.Proceedings of the ⅡSTEP Conference. FOUNDATION
FOR PHYSICAL THERAPY,Virginia, 1991, pp 11-27.
<ベルンシュタイン問題その1>
・ベルンシュタイン問題の説明
→川人光男他編: 岩波講座 認知科学4 運動. 岩波書店.
<脳性運動障害その2>
(広島県立リハビリテーションセンターのOTの小林さんからいただいた手紙による)
・下肢の屈曲シナジーについて
→Duncan PW: Stroke: physical therapy assessment and treatment.(ed. by
Lister MJ): Contemporary Management of Motor Control Problems.
Proceedings of the ⅡSTEP Conference. FOUNDATION FOR PHYSICAL
THERAPY, Virginia, 1991, pp 209-217.

<ベルンシュタイン問題その2>
・スキーマ説について
→Schmidt RA: 運動学習とパフォーマンス. 調枝孝治監訳, 大修館書店.  
・マス・スプリング説について
→VanSant A: Motor control, motor learning,and motor development. (ed.
by Montgomery PC,Connolly BH): Motor Control and Physical Therapy.
CHATTANOOGA GROUP,INC., Tennessee, 1991.

参考文献
→井上俊他編: 岩波講座 現代社会学4 身体と間身体の社会学.岩波書店.
→佐伯胖・佐々木正人編: アクティブ・マインド 人間は動きの中で考える.東京大学出版会.