その12 探索とは何か?評価と探索の違いについて(その1)(田上幸生)

1.はじめに
 「未知の事柄などをさぐり調べること」、インターネットで「探索」という言葉の意味を調べると、このように書かれていました1)。この言葉は一般的にもよく用いられており、例えば以下のような場面で使われることもあるでしょう。「旅先の飲食街で、美味しいラーメン屋さんを探索するぞ!」「車で出かける前に、目的地までの所要時間が最短となるルートを探索してみよう!」「2050年までに、火星の有人探索を実現しよう!」、等々。
これらの状況をイメージしてみると、探索という言葉にはちょっとしたワクワク感が内包されているように思えます。未知の事柄などをさぐり調べる「探索」という行為は、もしかしたら僕たちに快感情をもたらす本能的、あるいはそれに近い本質的な行動様式の一つなのかもしれません。
このように考えると、「探索」というのはとても奥の深い魅力的なテーマのように思えます。しかしながら、この稿の目的はこれら幅広い場面で用いられる「探索」の全貌を明らかにすることではもちろんありません。ここでは僕の守備範囲、すなわち医療的リハビリテーションに関連した運動という分野に限定して、「探索」ということを考えてみたいと思います。
さらに言えば、僕は今現在システム論をベースにした日本生まれの治療概念である医療的リハビリテーションのための状況的アプローチ(Contextual Approach for Medical Rehabilitation; CAMR)2)を学び実践していますので、CAMRの考え方に基づいた見解を述べさせていただくことになると思います。
「探索」というのはすでに聞き慣れた、あるいは使い慣れた言葉や概念かもしれませんが、あらためて見直してみることで新たな意味や気づきが生まれてくる可能性もあります。このエッセイが、そんな温故知新のきっかけになれば望外の喜びです。さあ、それでは一緒に「探索」の探索に出かけましょう!

2.探索の必然性
人を含めて動物は、自ら動くことを宿命づけられていると言っても過言ではありません。弱肉強食の野生の世界では、動かなければすぐに他の動物のエサになってしまいます。運よくそれを免れたとしても、動かなければ捕食活動や生殖活動ができず、生命維持や種の保存もままなりません。当たり前ではありますが、動物とは文字通り“動くもの”なのですね。
そして動物が自ら動く時、そこには多かれ少なかれ探索という要素が含まれていると考えられます。つまり僕たちの運動は、探索という要素を必然的に伴っているのです。このように書くと、「え?本当にそうかな?」と疑問を持たれる方もおられるかもしれません。
例えば初めて経験する運動課題にチャレンジする時や、暗闇の中を手さぐりで進む場面などを考えてみると、比較的探索というイメージを持ちやすいと思います。このような場面では、自分の動きやその結果、運動状況などをモニターしながら注意深く動くことが多いでしょう。まさに探索しながら動いているわけです。これは経験的にも納得していただけるのではないでしょうか。
しかし、自宅でのトイレ移動や通勤路の歩行移動といった毎日繰り返されるような慣れ親しんだ動作あるいは熟練した動作などではどうでしょうか。おそらく何の迷いや不安もなく、ほとんど無意識的に実行されていることと思われます。このような場合、いったいどこに探索という要素の入り込む余地があるのでしょうか。このような疑問もごもっともです。この疑問を受けて、それでもなお探索の必然性を支持する二つの理由を以下に挙げてみたいと思います。
まず一つめは「僕たちはまったく同じ運動を繰り返すことはない」ということです。もし機械のようにあらかじめ決められた動きを寸分たがわず正確に繰り返すだけで何の問題もないのであれば、あるいは探索は必要ないのかもしれません。しかし、僕たちの運動はそのようにはなっていません。ここでHerizaの報告3)を参照してみましょう。図1は妊娠後40週の乳児による背臥位での蹴り動作における膝の動きの位相図で、横軸に速度、縦軸に関節角度をとってプロットされています。この図から、膝の動きの軌跡が毎回異なっている様子がわかります。蹴り動作という単純な動作を反復する場合においても、まったく同じ運動が繰り返されることはないのです。同様のことは、ゴルフや野球のスウィングにおいても確認されています。
創出される運動が毎回異なるということは、すべての運動には何らかの新奇性があるということを意味します。そして新奇な運動を行なう際には、意識的にしろ無意識的にしろ、未知な部分を探る探索という要素が含まれていると考えた方が妥当だと思われます。
二つめの理由は「状況は常に変化している」ということです。前述の通り行為者の運動は常に変化しており、その運動が起こる物理的・社会的環境もしかりです。その時その場の状況はこれらの相互作用によって生まれますので、その状況もまた常に変化するということは当然だと言えるでしょう。状況性を考慮すると、もし仮に行為者の運動が機械のように正確だったとしても、その運動には何らかの新奇性が備わっていることになります。運動が出現する場の環境要因は常に変化し、運動との相互作用も常に変化することになるからです。(2013年)