実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回)

実用理論事典-道具としての理論(その6 最終回)
 国立呉病院附属リハビリテーション学院(廃校になりました。今はありません^^;)
         理学療法士 西尾幸敏
(上田法治療研究会会報, Vol.8 No.3, p120-135, 1996) ”
 これは当時上田先生から教えられた本などを自分で読んでは気づいたことをメモしたものをまとめたものです。

 早い話、僕の勉強ノートで人前にさらすものではないのでしょうが、上田先生の勧めで他人に読んでもらうことを前提に書き直しました。僕にとっては勉強になりましたが他人は読んでどう思ったのでしょうか?・・・今少し読んでみると未熟で不遜、鼻持ちならないところもあって全てはとても読む気になりません。でもまあ、こんな感じでした・・・というところです。なぜかさらけ出そうという気になったのです^^;


これを機にこれを機に

 

理学療法士・作業療法士のための実用理論事典
      -道具としての理論(その6 最終回)

<ここまでのあらすじ>(←そんなものあったのか?!)
 西尾はリハビリテーション学院の一教官である。まじめな理学療法士である。厚生省内の綱紀粛正よりは、自分個人の将来の年金生活を心配しているようなさえない中年男でもある。しかも跡取り。それで妻、子供と共に年老いた両親と同居している。父親は片麻痺後遺症であり、言葉巧みに人を操る一方、寝たきり老人候補者でもある。油断もすきもないったらありゃしない。
 そんな西尾だが、ある日現在行われている脳性運動障害者のリハビリテーションの問題点にちょっと気がついてしまう。普通ならばさえない中年男は、「世の中、こんなもんさっ」と、肩をすくめただけで、この話は終わってしまうはずだった。そう、「ちょっと気づいた」だけで終わるところだったのである。が、偶然出会った上田師に導かれ、思想の激流(ちょっと大袈裟)へとはまってしまう。システム理論、カオス、動的システム理論、生態学的アプローチ、アフォーダンス・・・・。やがて西尾は、大いなる野望を抱くにいたる。それは神経学的リハビリテーションの流れを変えようと言うものだ。そう、神経学的リハ革命のための中年戦士へと変身したのである。
 革命戦士となった以上、何かと戦わなくては。最初西尾は、還元主義と生態学的枠組みに対する物理学的枠組みの視点の両者に問題があると考え、還元主義と物理学的枠組みの視点に対して攻撃を始める。最初はがむしゃらに突き進むだけだったので問題はなかった。その敵は明らかだと思っていたのだ。そのうち戦場で出会った小林から、「因果関係論」や「今のシステム理論は還元主義の枠組みから抜け出していない」という情報を得るのだが(実用理論事典その3)、視野の狭くなっている西尾は、何のことかさっぱりわからず、「ええい、何を言ってやがんでぃ」と気づきもしなかったのである。
 その後、auto- estimaticsという新兵器も開発した。(もっとも性能・効果は今の所不明。)意気揚々と新たな戦いに挑もうとしたところ、今度は三村から「システム理論で因果関係を云々するのはおかしい」との批判を受ける(実用理論事典その5)。ふと小林の言葉も蘇ってきた。そして今初めて気がついたのだ。これまで自分の味方だと思っていたシステム理論の中にも大きな敵が存在する!それはコントロール・パラメータという名を借りた「因果関係論」なのだ。問題なのは、この敵があまりにも自分自身の中に深く根付いていること。「まったく、因果関係論なしで一体どうやって物事の変化を説明することができるのだ?そう、因果関係論を捨てたら後に何が残るというのだ。おしまいだよ・・・。因果関係論は悪くないのでは?」「いや、違うのだ。因果関係論を持ち込む限り、いくらシステム理論の外観をとろうと、基本的な変化は起きないのだ!」途方に暮れる西尾。直感的に因果関係論に問題があるというのはわかるのだ。しかし一体どこが悪いのか?苦悩する中年戦士の行く末はいかに?


因果関係論cause-and-effect model
 「脳性運動障害(その4)」で取り上げたのだが、コントロール・パラメータというのは、還元主義のやり方(物事を構成要素に分解し、ある変化の原因を特定の構成要素に還元する)と同じではないかという疑問を述べたが、稲荷山医療福祉センターの三村さんから早速反応があった。要約すると、「ある現象の変化を説明するために、因果関係論を必ずしも持ち込む必要はない。因果関係論を持ち込まなくても、様々な現象変化を説明することは可能である」ということである。氏の提案は以下の通り。
 「僕のアイデアではやはり痙性や脳性運動障害の原因を筋力低下であるという原因-結果で示すような還元論的解釈はシステム論としての新しい見地をまだ得ていないように思えます。つまり筋力低下や痙性も強いて言えば結果に過ぎないということです。そこで1つの人間としてのシステムを次のように考えてみました。
    

    図1

 このモデル(図1)では人間というシステムの中にA、B、C、D、E・・というサブシステムが存在します。そして、それぞれが筋や神経や骨格系であります。そしてこの人間システムは、環境の中で能動的に生存するためにA、B、C、D、E・・というサブシステムを並べ替えるという自己組織化を起こすのです。つまりB、C、D、E、A・・となったのが重力下における筋力アップしている人間のシステムであり、中枢性の運動障害の場合はこの並びがB、C、D、A、E・・となった結果、痙性と筋力低下の両方を持つことになったというわけであります。ですから筋力低下と痙性はお互いに因果関係を持つのではなく同時に生じるのです。」
 この後、氏は痙性をneural stiffnessとmuscular stiffness(注の二つに分類して説明が続く。赤ちゃんの時には、筋力低下とneural stiffnessが存在する。やがて身体の成長に伴いシステムの並び替えが起こり、脳性麻痺児は筋力の変化とneural stiffnessとmuscular stiffnessが現れるようになる。氏の経験では、muscular stiffnessは出生の初期にはあまり目立たず、子供の成長と共にneural stiffnessだけで追いつかなくなった時に、muscular stiffnessが見られるようになるという。最後に、「なんとなく原因-結果という還元主義的な匂いが薄れてきた気がしませんか?」と結ばれていた。
 ああ、しまった。なるほど、状況変化の説明を「因果関係論」を使わずにやれば良かったのだ。悔しい、そんなこと思いもよらなかった。
(注 氏の使われていたのは「neural spasticity」、「muscular spasticity」だが、元々「spasticity」 = 「neural sapaticity」の意味があるようだ。それで「筋性の」、「神経性の」という意味で過緊張を分類するなら「stiffness(硬さ)」の方が相応しいようなので、そのようにさせていただいた。)

 さて、因果関係について少し考えてみよう。ビアが自動車の例を扱っているのでこれを使ってみる・・・
 非常に分析的だが、まだ一度も自動車を見たことがない人がいたとする。彼が道路端に座って、自動車というものを観察する機会を得る。彼は次のように考えるだろう。「どうやら自動車というものは、人やものをある場所から他の場所へと運ぶ機械であるらしい」
 そのうち一台の自動車が彼の前で止まる。どうやら動かなくなってしまったようだ。運転手が降りてきて、ラジエーターのキャップをはずし、水を注ぎ込む。その後再び自動車は走り始める。機械一般が外部からの燃料補給を必要とするところから、観察者は「自動車は水を燃料として動く機械である」と考えるかもしれない。無理からぬことである。水は紛れもなく自動車に対する入力であり、走るというのはそれに続く出力である。二つの出来事は時間の経過と共に起こる。
 このように因果関係論というのは、現象の過程そのものではなく、観察者の心の中で創られた物語である。自動車のシステムを観察者が外から眺めて、そう認知したというだけなのだ。
 もし何が起きているのか正確に理解したければ、自動車のことを良く知っておく必要がある。知っていればラジエーターに水を入れることの意味は誤解されることはない。このことは正常運動変化や脳性運動障害を見る場合にも言えることなのだろう。私たちは人の運動とは何かと言うことを良く知っておく必要がある。ところが実際には、医師・理学療法士・作業療法士の間で、運動とは何かについて議論されることはまれである。私たちはまるでそんなことはもう分かっているかのように振る舞うことが多い。ところがちっとも分かってなんかいないのだ。
 たとえば運動学習の過程では何が起きているのか?プログラム説か非プログラム説か?様々な活動をする時の「その人のらしさ」はどうして生まれてくるのか?運動学習では「その人らしさ」を保ったまま何が変化しているのか?人はなぜ運動のやり方を意識した途端、ぎこちなくなるのか?身体的には動けるはずの人が寝たきりになってしまうのはなぜなのだろう?・・・・

 ずいぶん話の内容が蛇行してしまったような気もするが、まあ理解のために、因果関係論がまずいのだったら、何か他にうまい説明はないものだろうか?ここしばらくは因果関係論を批判することによって、新しい考え方を身につけるつもりである。もっとも因果関係論を捨ててしまう気もない。これはこれで人を説得するときに実に有用な道具である。おまけにすごく使い慣れているのだ。

 三村氏のアイデアというよりは、姿勢に参った。いとも簡単に因果関係論のしがらみから抜け出そうとしているではないか。「ちっくしょう、今に見てろよ」とますますライバル意識を燃え上がらせる中年革命戦士、西尾であった。


脳性運動障害cerebral motor disability(その5)
 「安易に目の前の答えに飛びついてしまうのが私の悪い癖だとはわかっているのだが、やはり飛びついてしまおう。ここではとりあえず、『まず脳損傷の直接の結果は筋力低下であり、次にその筋力低下と環境や筋骨系その他の要因、神経系の代償などとの相互作用の結果、あの目に見える独特の運動パターンが生まれる』としておこう。この結論がこれからどう変化するだろうか?楽しみである。みなさん、ご意見、ご批判ください。」と、脳性運動障害(その1)で述べたのだが、やはり変化してしまった。筋力低下が脳性運動障害の原因ではなかったのかもしれない。
 実は機会あって、最近ある脳性麻痺の子供さんの筋力強化を行うことになった。尖足、股関節内転の強い子供さんで、僕は徹底的に下肢の筋力強化を行ってみた。最初の8週間は、筋力強化の訓練は大きな変化を子供に起こしたように見えた。立位姿勢や立位でできることが大きく変化して、家族や親戚や手伝ってくれた学生も驚いた。尖足が改善し、椅子から椅子へとわたり歩きのできる距離が大きく伸びたのだ。僕も「予想通り」とばかり、いい気分になっていた。
 ところがその後立位姿勢の変化が止まってしまった。様々に異なった訓練を組み合わせたりしたが変化が生まれなくなった。さらにショックなことには、立位時の場面によっては、再び尖足が強まり始めたのである。改善した尖足肢位も見られるが、場面によっては尖足を強めていることもある。確かにある要素の変化は、全体の振る舞いに変化を起こす。しかしシステム全体は新たに安定するだけである。新たに安定した点と、元の安定点とはそんなに変わっていないのかもしれない。まあ、ここですぐに結論づけようとするのが僕の悪い癖であるが・・・。

 考えてみれば、筋力強化で脳性運動障害者の姿勢や運動が持続的に変化し続けるなら、もうとっくに誰かが筋力強化のアプローチの体系を確立しているはずである。単純にそうではないから、先人達は「筋力低下=原因」ではないという風に考えたはずである。何と僕は軽率だったことか。
 単純な因果関係論などで説明できないシステムの作動があるのである。僕の軽はずみな提言を、しばらくの間支持してくださった人たちがいます。「ごめんなさい。私が間違っておりました」また小林さん・三村さんの他にも、筋力低下が原因というのはおかしいと指摘してくださった人たちが何人もいます。ありがとうございます。助かりました・・・と収まるかと思えば、この後、また新たな展開が続くのである。乞、ご期待。


自己評価法auto-estimatics(その2)
 実は前項に書いた脳性麻痺の子供さんだが、自己評価法を使った最初の患者さんでもある。何をしたかというと、丸椅子を二つ準備する。一つの丸椅子につかまり立ちをしてもらう。そして他の椅子を少しずつ離していく、あるいは離した所から少しずつ近づけていく。それで座ることなしにもう一つの椅子に渡り歩きできるかどうかを聞くのである。
 最初はひどいものだった。子供さんが両手を思いっきり広げると長さは約1メートルある。子供は一瞬でも手を離して立つことができないので、どんなに椅子の間が開いていても1メートルを越えることはないはずなのだが、最初2-3回の評価では軽く1メートルを越えてしまうのである。この子の理解力が低いかといえばそんなことはなくて、「はいはいでどのくらいの高さの台に登れるか?」という質問には、大体適正と思われる見積もりを出してくるのだ。最初の頃、子供の立位は両上肢の支えなしにはできない状態だったので、まだ子供にとって立位からの移動という活動は、適正な意味や価値を生み出していなかったのかもしれない。
 やがて立位での様々な活動を続けると、丸椅子の間の渡り歩きの見積もりに変化が出てくる。概ね30センチメートルのところで落ち着いてくるし、実際にやってもらうと適正と思える。さらに訓練を続けて8週間くらいになってくると、ちょうど姿勢や活動が目に見えて大きく変化した頃なのだが、大体60センチメートル位で落ち着いてくるし、実際にやってもらうと適正と思える。
 このように自己評価法では、2つの視点で患者さんの運動変化を追うことができる。一つは物理的な視点で、移動距離の変化をセンチメートルで表すことができる。もう一つは、移動のアフォーダンスを見ることができる。後者の視点はこれまで私たちが持っていなかったものだが、運動の出現と適応的な変化にそれが基本的に必要であるというのは、これまでに述べてきたとおり。
 僕には非常に有意義な評価法に思えるのですが、どうでしょうか?


脳性運動障害cerebral motor disability(その6)
 前項から続くのだが、この実験からおもしろいことがわかったのである。尖足の程度を尺度として使ってみると、筋力強化はどうもあまり持続的な変化を起こしていないようだ。しかし尖足の程度が本当に、訓練効果の尺度として意味があるならば、である。
 逆に、auto- estimaticsから見る限り、この子の下肢の支持能力や立位での振る舞いの見積もり能力は改善し続けているように見える。尖足の程度の強弱に関係なくである。これまでは、「尖足の改善」は訓練効果として、あるいは身体能力の改善として無条件に受け入れられてきたところがある。ところが下肢の支持性というところでは直接的な関係はあまりないのかもしれない。つまり一般にイメージされていたような「尖足の改善→支持性の改善」あるいは「支持性の改善→尖足の改善」といった直線的な因果関係はないのかもしれない。
 もちろんauto-estimaticsで見られる改善は、単純に筋力強化の影響ばかりではなく、立位での活動が増えることにより、全体的な認知能力が改善したのも影響しているのだろう。しかしながら尖足自体は、もっと独立した別の現象なのかもしれない。


オートポイエーシス(自己創出)Autopiesis
 最近上田先生から、新しい本を紹介された。「オートポイエーシス-第三世代システム」と「オートポイエーシス-生命システムとはなにか」という二冊の本である。しかし僕には、ちんぷんかんぷんである。オートポイエーシス論では、因果関係論が否定されるし、目的論teleonomy(生命は一般的に目的を持っている有機体と考えられる。たとえば生物は、もともと生殖と適応を目的として存在していると考えられる。そのために価値のある構造・機能が存在するというわけである。)さえも否定されてしまうのだ。いやー、参った。いや、何が参ったのかさえもよく分からないのだが、驚いたことに私自身これに影響され始めているのである。またいろんな人から「ええ加減な!」と怒られそうだが、本当だから仕方がない。
 そういうわけで、そこには何かしら新しい考え方の枠組みがありそうなのだが、今のところどう扱って良いものやら、五里霧中なのである。それなのに少しだけ説明を頑張ってしまうのだ。アイデアはまず使ってみること、これが私の持論である。

 システムの理解の仕方はおよそ2つに分類できると思う。一つは構成要素や目的によって理解する。もう一つはシステムの作動そのものから理解する視点である。たとえば自動車を前者の視点から捉えると、各部品や全体の性質と果たすべき機能や目的を述べることになる。ところが構成要素(部品)の性質や機能を理解しても、自動車というシステムを理解することにはならない。というのは自動車の本質と各部品(タイヤやエンジンなど)の性質とは独立しているからである。つまり自動車というのは別種の部品によって、あるいは別の構造で造ることができるからだ。誰が見ても、やはりこれは「自動車である」という同一性を、部品や構造から説明することはできない。
 また機械を目的によって語ることにも問題がある。目的とは本来システムの外から見ている観察者の意見、これまた観察者の心の中に創られる物語である。「~するための機械」と語られる目的自体は、自動車の本質とは関係ないものである。たとえば自動車は、人をある点から他の点まで移動する機械とすればある人たちは納得する。ところが人によっては、社会的なステータスの意味を持ったり、商売道具や単に商品になったりもする。立場によって変わってくるのである。それこそ自動車の本質に関係のない説明である。
 後者の視点、つまり作動から見るというのがオートポイエーシスのポイントらしい。しかもシステムの作動を、外部から観察者としてみるのではなく、システム内部から見ていこうとするらしい。そうするとオートポイエーシスというのは作動する事によって自分自身を創り出しているシステムのことと定義される。たとえば自動車は作動しても、自分自身を作りはしない。従ってオートポイエーシスシステムではない。ところが生物は作動することによって、自分自身を創り出す。もちろん自らを創り出す以外にも様々な作動をするのだが、システムの作動によって自らのシステム創り出し、存在することこそオートポイエーシスシステムの唯一の目的となる。・・・・(実はこの後に何十行もの説明とその書き直しを何度も試みたのだが、発表しないことにする。一つには私には解らなくて説明できないことがある。さらに重要なことには、ものすごく退屈なのである。そこで、実際興味のある人は前記の本を直接読まれることを薦めることにして、この説明は省略である。ごめんなさい。)

 さて因果関係論に代わる現象説明の方法を求めていたわけであるが、オートポイエーシスというのはその方法を提供しているようである。オートポイエーシス論ではシステムの作動から人の運動変化や脳性運動障害を理解するしようとする。一つ人の歩行を例にして具体的に考えてみよう。
 片麻痺歩行に関して、これまで私たちはどのように考えてきただろうか。健常な人の歩行にも実はいろいろあるのだが、その出力としての歩行、その形態などから分類が行われる。しかしその多様性を分類したりリスト化しても、あまり意味をなさない。そこでその中でも共通の重要な特徴、あるいは要素に原因を還元するわけである。たとえば仮に交互性歩行がその重要な要素として考えられる。健常な人はいわゆる規則正しい交互性歩行をするなどと特徴づけられるわけだ。脳に傷害を受けるとこの交互性が消失してしまう。そうすると、たとえば階層理論では次のような物語が用いられる。脳の傷害がまず原因で、下位レベルの反射などに対する上位レベルの抑制と随意的コントロール能力を失ってしまう。反射レベルの運動が優位となり、結果より上位レベルでコントロールされる交互性が消失してしまう。従ってアプローチとして、反射レベルの運動を抑制し、交互性を出そうとするような方針がでてくる。
 一方、システムの作動からシステムの特徴を捉えるとどうなるか?これはシステムの構成要素の共通項を探し出したり、分類したりといった過程とはずいぶん異なった理解の仕方である。システムの作動の結果、どのような歩行形態が生み出されるかといった目に見える部分にはあまり関心がない。どちらかといえば様々な形態を生み出すその作動の方に目が向けられる。作動あるいは作動を生み出す要素間の関係と言っても良いかもしれないが、それは目に見えない部分であり、これまで分類や分析の対象となってこなかった部分でもある。さてこの作動あるいは作動を生み出す要素間の関係の性質あるいは特徴によって運動変化を説明することが可能であるかもしれない。
 ではその作動の性質はどのようなものか?次項で、今僕が思いつくままに書き記してある。
 

運動変化motor behavior change(その6)
 さて上に述べたように、僕が今システムの作動の性質をどのように考えているかというと以下の通り。もっともこれには、作動には本質的に関係していない性質も含んでいるに違いない。要するに自分自身、まだよくわかっていないのだ。わからないものだから、とりあえず全部書いてみることになったのだ。またご意見、ご批判お願いします。
①人の運動というのは、その場その場のコンテキストによって様々に変化するものだ。従って出現した運動パターンを分類することにはあまり意味がない。本来多様なものであり、訓練において標準的な運動パターンなどはあまり意味を持たないのである。訓練場面で健常者を一つの目標にするなら、結果としてのパターンではなく、作動の性質としての易変化性を目標にするべきである。
 しかし易変化性という性質を持ちながら、一方で、その人らしさを保つという意味で、固有性あるいは同一性を持っていると言える。たとえば雪道ではお尻をひいてよちよち歩きをし、狭い通路では横歩きをするものの、そういった状況の変化がなくなればやはりその人らしい歩き方に戻ってしまう。たとえ一日に何十回狭い通路で横歩きをしたところで、広い場所にまで横歩きが保持されることはない。同様に訓練室内でセラピストの指示に従って運動を変化させている患者さんも、セラピストがいなければ元のその人らしい歩き方になってしまうことも多い。あなたの友人は最近やることなすことがうまく行く。立ち居振る舞いに自信があふれてくる。明らかに歩き方は変わってくるが、同時にその人らしさも失われていないことに気がつくだろう。
②人は日常生活に関わる運動の結果を予測的に知っている。たとえば床上に板を二枚置く。一枚の上に立って、もう一枚を少しずつ離しながら、板から板へ落ちないで渡れるかどうかを考えてみる。幅が狭い間は、「渡れる」ということが分かる。実際に試すまでもなく分かってしまう。やがてもう一枚の板が離れていくと、渡れるかどうかやってみないとよく分からない範囲が出てくる。それを過ぎると今度は、「渡れない」ということが分かってくる。身体からの情報と環境からの情報の相互作用の結果である。それはアフォーダンスと呼ばれている。アフォーダンスは運動を生じさせ、変化させる。適正なアフォーダンスを持つことが臨床での一つの目標となるべきである。
 健常な人たちは、日常生活に関する運動行為のほとんどを実際にやる前から「できる」ことが分かっている。歯を磨く、服を着る、飯を食う、・・・などだ。また「温暖な地域の普通の住宅街で、家を出て500メートル先の自動販売機に行って、缶ジュースを買ってくることができるか」と問われれば、まあ普通「できる」と考える。「それが6分でできるか」と問われれば、さあやってみないと分からないと答えるかもしれない。普通の人は、日頃時間を意識しながら行動する必要はあまりないので、時間に関するアフォーダンスというのはあまり発達していないだろう。いつもストップウォッチを片手に運動を時間の情報に関連づけている人、たとえば陸上競技の選手であれば、もっと明確、正確な予測をたてるに違いない。
③人の運動は課題によって組織化される。私たちは運動を起こし変化させるときに、実際にそのやり方を意識することはない。アイスクリームを食べるときに、スプーンの使い方などを意識し始めると食べるどころではなくなる。私たちが意識するのは、「ご飯を食べる、お汁を飲む」や「あっちに行く」といった課題だけだ。隣の部屋に行くのに、「どうやって行うか」と悩むことはない。ただ「隣の部屋に行こう」と思うだけである。方法は意識しなくても自然に生まれてくるのである。また子供のおもちゃが散乱している部屋の中を歩くときは、「あのウルトラマン人形を避けるために、左膝を伸ばして右股を開いて・・・」などと考えない。「踏まないように歩こう」と思うだけである。逆に「右足をあの空いた部分に置いて・・」などと運動を意識し始めると、体の動きがぎこちなくなって思わずおもちゃを踏んでしまったりする。
 ここで言う方法とは、活動させる筋の選択や活動の大きさ、速さの調整、あるいは関節の方向などである。スポーツなどでは運動の方法を教えているという言い方がされるが、あくまでも課題を教えているだけだ。たとえば「脇を体幹から離さずにラケットを振る」というのは運動の方法に思えるが、これは「打球を安定させる」という全体の課題の中で指導者に選ばれたより細分化された課題である。
 実は課題か方法かといった分類は、立場によっているのである。つまり指導者から見れば、行為者のとるべき方法である。が、行為者の意識の側から見ると常に課題となる。「つま先を伸ばせ」という課題に対しては「つま先を伸ばそう」と思うだけで足りる。まだ伸びが足りないと思えば、「もっと伸ばそう」と思うだけである。決して下腿三頭筋の収縮を強めよう、あるいは前頸骨筋を弛緩させようなどとは思わない。
 運動が起きる過程では、人は運動システムに何が起きているか知る必要はないのである。どんな運動パターンが選ばれるか、どんな速さや強さが選ばれるかはわからない。最終的に結果による判断がされるだけだ。それで細分化された課題がうまく達成できるようになると、より大きくスウィングするとか、より速く動くとかより全体的な課題が要求されるようになる。小さな課題はより大きな課題に含まれ、より大きな単位として遂行されるようになる。最終的に大きな課題、「左隅へスマッシュ!」などを思っただけで、全てが自動的に実行されるように大きな単位へと運動をまとめることができる。
④人の運動の過程は無意識に行わなければならない。私たちは無意識に話をしたりしている時は何でもないが、自分がどんな風に口を動かしているか、モニターしようとすると突然うまくしゃべれなくなってしまう。逆に言えば人の運動システムはうまく働くためには、常にその活動過程が意識の外へ置かれる必要があるのである。
 運動学習の初期、つまり初めてあるいは慣れない課題を遂行する初期には、逆に意識内に運動過程を呼び戻す必要がある。これは思うとおりに課題を達成できないため、常に課題を修正する必要があり、そのために常に運動結果を細かくモニターする必要があるからであろう。たとえば車の運転においても初心者は、常に運転の仕方、つまりハンドルやブレーキ、アクセルの操作を意識して行っているものだ。それぞれの操作毎に、結果をいちいちモニターしなくてはいけない。ところがベテランになるにつれて、運転の仕方を意識する必要はなくなる。「車で目的地に向かう」という大きな課題さえ意識していれば、車の操作に関する諸々の下位項目は、自動的に遂行されてしまう。常に運転の過程を意識から締めだしておけるわけだ。
⑤人の運動システムは複合型heterarchicalの構造をしている。様々の異なった機能を持つサブシステムが並列的に並んで一つのシステムを構成する。たとえば反射的なサブシステムと随意的なサブシステムが存在し、同時に機能する。それぞれのサブシステムはまた自律的な存在である。どのような随意運動も反射的なサブシステムの自律的な運動なしには存在しない。反射的な運動でさえ、常に意志やその他の影響を受けて変化する。
 この仕組みは、一つの課題を様々に異なった方法で達成することを可能にする。たとえば人の頸部に関係する筋肉だけでも23対の筋肉が存在する。見た目には同じような頸の回旋運動も、人によっては異なった筋肉が使われる。すなわち一つの課題は、異なった多様な方法によって実現できる。体重を支えるために筋の硬さを生み出さなければならないが、神経筋活動によっても硬さは生まれるし、筋の機械的性質(粘弾性)を変化させても硬さは生まれる。自転車とガードレールで作られた狭い通路を通り抜けるという課題では、横歩きでも良いし自転車を倒すことによっても可能である。こうして人は多彩な解決手段を最初から用意していると考えられる。状況の変化に応じてもっとも相応しい方法を選択すれば良いのである。
⑥人の運動システムは、活動することによって意味や価値を生み出す。たとえば飯を食って空腹を充たす。上手に踊って誉められる。おもしろいのは、この生み出された意味や価値はそのまま運動システムを構成する要素の一つとなることである。運動が意味を生み出し、その意味が運動システムの作動に影響を与える運動システムの構成要素となる。
 たとえば運動不足の人がたまにバスケットボールをする。久しぶりにちょっと体を動かしてみると気持ちが良いものである。この「気持ち良さ」という意味は、単に運動の結果、運動システムの活動の産物にとどまらない。これは直ちに次の振る舞いを起こし、変化を起こすシステムの一部となる。もう少し、積極的にバスケットボールのプレイに参加するようになるかもしれない。また逆に疲労感を感じても振る舞いや運動に変化を起こす。つまり手を抜いたり、休んだりするかもしれない。運動の結果は、運動を変化させる自らの運動システムを生み出していることになる。このように活動の結果、構成素-自らのシステムを機能させる関係を持った構成要素-を生み出すシステムはオートポイエーシス・システム(自己創出システム)と呼ばれる。
 上の例は行為といったレベルの話である。もう少し行為から運動に近づいてみよう。ある運動システムが、環境内で活動することが様々な意味や価値を生み出す。たとえば動き回ることは、体の大きさに関する認知を生み出す。これはそのまま運動システムを構成する。すると、この体の大きさに関する認知が狭い通路で横になって歩くことを導く。(もっと物理的なレベルで見て、生み出された運動は次の運動を導くシステムとして働くかどうか、たとえば足を振り出すことによって次の足や他の身体部位のアクションが決まるかどうか、といったものは今の所良い例を思いつかない。)
 これは、フィードバックシステムを連想させるかもしれない。しかし自己創出システムは、フィードバックを組み込んだシステムとは根本的に違っている。フィードバックシステムは、システムの生み出した結果(たとえば手の動き)が目標とずれているかどうかを比較する。この過程の中では、システム自体は変化しないで情報の変化を扱うことが前提である。その出力を変化させるだけだ。自己創出システムでは、生み出される運動(たとえば手の動き)それ自体は結果としてだけではなく、運動システムそのものに組み込まれ運動システム自体を変化させていることになる。フィードバックシステムでは無動は何も生み出さないが、自己創出システムでは無動は運動システムの崩壊を意味する。自分自身を生み出すと言うことによって自己を維持するからである。
⑦運動システム自体は非常に自律的なシステムであるが、人自体様々な機能を持ったシステムの並列的な存在であり、自律的な運動システムも他のサブシステムとカップリングして人というより大きなシステムを構成する。

 ここに挙げた7つの項目が、僕の心の中にある運動システムの物語である。いくつかは有望に思えるし、いくつかはあまり意味がないどころか、まるっきり間違っているかもしれない。今はただ思いつくままに羅列しておくだけで十分という気がする。


課題
 人の運動は課題によって組織化される。これは課題主導型アプローチの主要なアイデアである。それでは、この人の運動を組織化する「課題」とは何であろうか。それは日常、私たちが使っているような「やるべきもの」という意味とは少し違う。ここで言う「課題」とは、「人が行動や運動をする意味や価値」である。「やややっ、ややっ、アフォーダンスと同じではないか」と思われるだろうが、まあ、大体同じなのである。また前項で述べたように、課題つまり意味や目的はシステムが活動すること自体によって生まれてくるし、そのままシステムの一部となる。課題は運動によって生まれてくるし、運動を組織化するのである。そういった意味では、課題もアフォーダンスも同じである。
 ただ神経学的リハビリテーションと言う文脈性の中では、「課題」と言う言葉によってアフォーダンスで表される概念が表現されていると思うのだ。ただし立場の違いによる使われ方の違いがある。「アフォーダンス」というのはあくまでも「行為者の立場から見た価値や意味」である。しかしながら「課題」というのは、セラピストあるいは第三者から見た「行為者の価値や意味」となる。また前項でも触れたが、運動を教えようとするものにとっては、「課題」は「方法」として見えてしまう。なすわち「方法」とは「他人の運動を変化あるいはコントロールするために、行為者に与えられる価値や意味」というふうに定義できるかもしれない。
 もう一点、課題は前項でも述べたように入れ子状の構造をしている。細分化できるし、より大きな単位へとまとめられることもできる。こういった細分化などの操作は、セラピストや第三者から見た意味である。アフォーダンス、つまり行為者の立場からするとそのような操作は何の意味もないのである。


課題主導型アプローチtask-oriented approach(その2)
 課題主導型アプローチのことを、「患者が課題さえ達成すれば方法は何でも良いとするアプローチ」とか「一つの課題達成のために、複数のやり方、可能性を確保しておくアプローチ」とか、様々な説明がされているようだ。私も以前、いくつかのアイデアを書いたことがあるが、今では「システム理論から見た人の運動システムの作動の特徴や性質に基づいたアプローチ」とかなんとか言っている。だから上のような説明もあながちはずれたものではないかもしれない。今はまだはっきり言えるものがないような気もするから、このようなあやふやなことを言っているのだが、臨床で実際に患者さんを前にしている人たちには、そんなことでは困るだろう。
 もう少し具体的なアプローチの指標を創り出すために、システム理論から見た「課題」の意味について少し考察しておく必要があると思う。前にも述べたように、運動や行動は課題を中心に生み出される。それならば「課題」とは何かということや臨床場面で課題がどのように使われているかについての理解が必要だろう。
 まず課題とは何か。「やるべきもの」というよりは「人が行動や運動をする意味や価値」である。前項でも述べたように、この意味や目的はシステムが活動すること自体によって生まれてくるし、そのままシステムの一部となる。課題は運動によって生まれてくるし、運動を組織化するのである。
 次に臨床で課題がどのように機能しているかを考えてみよう。以下のような例を考えてみる。普通まじめなセラピストほど、担当患者さんの運動や行動の変化に責任を感じてしまうものである。患者さんの運動・行動変化に果たす自分の役割とか、患者さんのために自分が何ができるかを真剣に考えてしまう。極端な話、患者さんの運動や行動をどう変化させようとか、そのためにどうしたら変化するかといったことを考えるものである。すなわちこれがセラピストが現実に持っている課題となる。
 一方患者さんの方はどうであるか。患者さんが環境内で適応的に振る舞うという性質を基本的に持っているなら、そして上に述べたようなセラピストとがいる訓練室という環境内で適応的に振る舞うためには、セラピストの言うことを聞いて運動を変化させるという課題を持つのではあるまいか。つまり自らの運動変化をセラピストに委ねてしまうのだ。
 片や人の運動を変化させようとするセラピスト、片や自分の運動変化を他人に任せてしまおうとする患者。こうして訓練室内では、着実に運動変化が起こり始める。ところが訓練室を一歩出ると、患者さんは別の課題を持つのである。つまり自分自身で様々な課題達成の手段を見つけて達成しなければいけない。むしろ運動や行動の課題さえも自分で見つけださなければならない。そこにはセラピストはいないし、他人から与えられる運動課題もないのである。訓練室内で起きたような運動変化は、そこに起こる理由がないのである。
 患者さんにとっては、セラピストのいないところで初めて、自分の達成するべき課題を見つけ、その達成するべき方法を自ら生み出すという経験を持つわけである。そしてそれこそまさしく、自分の身体の変化した情報がうまくつかめず、うまく振る舞えない患者さんの必要としている経験なのである。なんと皮肉な話ではあるまいか。セラピストは本来の想いとは反対に、自らの創り出した王国で、患者さんを思い通りに操っているだけなのだ・・・いや、怒って読むのをやめないでください。僕はセラピスト不要論を言いたいわけでもなく、むしろその逆であり、現実にそんな単純なケースはまれであると知っているのだ。私は良いセラピストをたくさん知っている。
 それでは何が言いたいかというと、セラピストは課題を注意して扱う必要があるということが言いたいのである。私たちセラピストが常に注意を向けるべきは、運動パターンなどではなく課題そのものなのだ。患者さんが現在の環境の中でどのような課題を持っているのか、あるいは持たざるを得ないのか。どのような課題が見え、どのような課題を持てないでいるのか。患者さんの持つ課題はどのように変化するのか。私たちはその課題をどのように細分化したり、まとめたりできるのか。そしてセラピスト自身、どのような課題を持つべきか。
 本来人は自律的な存在である。従ってセラピストが訓練室内で患者さんを支配的に扱おうが、大した影響はないのかもしれない。今はうまく言えないのだが、セラピストは現実に今患者さんの役に立っていると僕は確信している。しかし少なくともセラピストがもっと患者さんの役に立ちたいと願うなら、この課題に関するアプローチには重要な点があるのではないだろうか。
 もう少しだけ具体的な話をしよう。今年学院を卒業する学生の一人がおもしろい提案を卒業論文の中でしてきた。急性期からある程度回復し、動けるようになった患者さんを一軒家の中に一人で置き、自由に過ごしてもらうのである。患者さんにとって何が必要であるか、何ができるか、何ができないのか、そして何がしたいのかを患者さん自身に考えてもらおうという訳だ。実現するためにはいろいろ問題点もあるだろうが、患者さんが自律した存在であり、様々な可能性を秘めた存在として見ているような気がする。そういった文脈性の中では、自然に患者の持つ課題もセラピストの持つ課題も今とはずいぶんと変わったものになるのではないだろうか。

 もう一つ。本来身体的に動けるにも関わらず、寝たきりになる例がある。そういった人たちは課題を持てないでいる人たちのようだ。逆に言えば、課題は運動をすることによって生まれてくるので、運動をしないということが課題を生み出さなくなっているのかもしれない。
 あるいは運動システムの活動自体によって生み出される意味や価値よりも、運動をしないと言うことによって生み出される価値の方が大きいのかもしれない。たとえば特別養護老人ホームで、動けるし身だしなみにも気を使っている老人がいる。身体的にはトイレも自立するはずであるが、他の老人と同じようにおむつをあて、介護士に下の世話をしてもらうのである。身だしなみはちゃんとしようとしているので、逆に違和感が強い。こういった老人は決して少なくない。これは施設側の影響が強いのかもしれない。職員にとって見れば、老人達が自立的に動いてもらうよりは、時間を決めて管理する方が楽なのである。従って老人達も適応的に振る舞うということを考えれば、下の世話を職員に任せた方が価値が大きいのかも知れない。
 年取った奥さんと二人で暮らす老人が、ある日奥さんの腰痛を境に動かなくなってしまった話を聞いたことがある。自分が歩くのを介助してもらうよりは、寝たきりのまま介助してもらった方が、奥さんの負担が軽いためだろうという担当セラピストの意見を聞いた。10年以上寝たきりだった老人の所へ、理学療法士が訪問リハビリテーションを始めた。すると再び老人は歩き始めた。理学療法士も家族も本人も喜んだらしい。ところがしばらくすると、「痛い」とか「できん」とか言って再び老人は歩かなくなってしまった。歩くということによって生まれた価値よりも、歩かないということによって生じた価値の方が大きかったのかもしれない。

 我が家のお袋は、県のリハビリテーションセンターで看護婦をしていた。最近こんなことを聞いてみた。「お袋は、親父を今のように喧嘩しながらでも歩かせている方が楽かね。それとも寝たきりになった方が楽かね?」「しんどいのはどっちも変わらんと思うよ。」と答える。まあ、そうかもしれない。親父が動くことは、家族にとっても良くないと思われる場面がある。たとえば最近おしっこをよく漏らす。実際自分でやっていたら失敗する機会が増える。洗濯物の量は増え、後始末のためにより多くの時間を取るようになる。家族がしびんを持って走った方が楽なことが多い。
 それでも我が家は、親父を歩かせることにこだわっている。母親がリハセンターの元看護婦で、息子がリハ学院の教官で、息子の妻が養護学校の教員であることが関係してるのかもしれない。親父にはちょっとした地獄なのかもしれないと思う。
 親父は油断しているとすぐに寝たきりになりそうな感じがする。最近は特にひどい。少し変わったことをすれば、少し良く歩くようになる。だがそれも一時的なものだ。これまでは考えたこともなかったが、親父にとっての動くことや動かないことの価値は何なのだろうか。家族と食事や買い物に行く以外は、外へ出る回数も激減した。体だけでなく、存在そのものがどんどん小さくなっているようだ。親父を叱咤激励しながらでも歩かせ続けるべきかどうか、ふと疑問に思う今日この頃である。


運動変化motor behavior change(その7)
 以前一時的な運動変化と持続的な運動変化はまったく違った現象かもしれないと述べたことがある(運動学習その1)。そのことをシステムの作動から考えてみたい。システム全体の振る舞いが変化するためには、少なくとも二つの可能性が考えられる。一つ目はサブシステムやサブシステム間の関係の変化。これがいわゆる一時的な運動変化の原因と考えられる。二つ目はシステム全体によって生み出される価値や意味の変化である。これこそが持続的で大きな変化を生み出すのではないか。
 少し具体的に考えてみよう。僕の親父に筋力強化の訓練をすると、一時的に歩行は変化する。サブシステム(筋力)に変化が起きたためにシステム全体に「ゆらぎ」が起こるのである。ところが基本的には、そんなものは親父にとってあまり意味がなかったのかもしれない。つまり親父の運動システムの作動によって生み出す価値や意味は変化しなかったのである。
 もし筋力強化の結果、トイレまですいすい歩けるとか、外の散歩が軽快に行えるなら持続的な変化になっただろう。つまりシステムの作動によって生み出される意味や価値、再びシステムに組み込まれて運動を変化させるような意味や価値が根本的に変わった場合にだけ、持続的な運動となるのだろう。


複合体と単一体multiplicator and unity
 人の運動システムは様々なサブシステムからなる、とこれまで説明してきた。でも人の運動は、それぞれのサブシステム、筋力や可動域や環境などバラバラにしたサブシステムから説明することはできない。一つ一つのサブシステムを全体から分離して考えることはできない。つまり人の運動システムは構造的に見れば間違いなく、様々なサブシステムからなる複合体である。しかしながら機能的に見れば(システムの作動から見れば)、間違いなくそれ以上分解することのできない単一体なのである。
 動的システム理論は、前者の立場、すなわち構造的に人の運動システムを理解しようとしている。人の運動システムを構造的に見ると、筋肉や関節、心肺機能、知覚などというサブシステムから捉えることができる。もっと大きな単位で捉えると、力を生み出すサブシステムや運動を調節するサブシステムである。構造的に見る限り、それらのどのサブシステムが問題なのか、どのサブシステムにアプローチするかを探り出すことは非常に有効な方法に思える。
 ところが、機能的に見るとどうなるか?たとえば「繰り返し、腕を伸ばしてボタンを押す」という課題一つとっても、どこからどこまでがどの部分のシステムによるものか判然としない。一回ごとに軌跡は違うのだから、筋の活性化のパターンや知覚の働きもどうなっているのかわかったものではない。いやわからないというよりも、分けて考えることが不自然なのである。それ自体分かつことのできない、一つのものとして機能しているのである。そういった意味で、人の運動システムは、単一体なのである。

 おもしろい話がある。東京で同一の建物の一階に保育所、二階に老人ホームを同居させた。すると寝たきりの老人達に変化が起きた。なんと二階の寝たきりだったおばあちゃんが、立って歩けるようになってしまった。「子供を抱っこしたい」ということらしい。もし理学療法士や作業療法士が、このおばあちゃんの訓練をしたなら、このような結果を出せただろうか。いや出せないに違いない。人の運動システムを構造的に捉えることに慣れているセラピストにはきっと無理である。筋力や持久力の低下のせいにして、それを改善する訓練をするはずである。起立台に縛り付けて立たせるのがせいぜいかもしれない。やがて筋力と持久力は改善してくる。ところがそれでは人は自ら立ち上がって歩くことはないのだ。
 もちろん構造的に見る方法は、意欲的な人には効果的なのである。整形疾患の人たちにも効果がある場合が多い。しかし痴呆老人や特定のサブシステムに原因を求めにくい脳性運動障害者では、そのようなアプローチはあまり意味を持たない。ところがセラピストは、人の運動システムを構造的な複合体と捉え、各構成要素に還元していく考え方に慣れすぎてしまっている。ある人達が寝たきりになり、他の人たちが寝たきりにならない場合、筋力や関節可動域、意欲などのバラバラにしたサブシステムからしか説明できないのである。
 今の理学療法士、作業療法士に欠けているのは、「人は単一体としてどのように振る舞うのか」という視点である。それを補うための「システムの作動の特徴」である。それについてもっともっと書かなければとも思うが、今は疲れちゃったのでこれでやめるのだ。


訓練室から持って帰れるもの
 整形外科疾患では、還元主義的な考え方は便利なアプローチとなる。運動障害における因果関係がはっきりしているからだ。もちろん心理的な問題を伴っている場合はそうはいかないものの、大体はそれでうまくいく。筋力強化や可動域の改善は、結果として訓練室のお土産として患者さんが持って帰ることができる。
 ところが中枢神経障害では、還元主義的なアプローチはうまくいかないことが多い。先にも述べたが、自動車の仕組みを知らない人は、そこで起こる様々な現象を誤解してしまう可能性が高い。自動車が動かなくなったときは、ラジエーターに水を入れれば良いと勘違いしてしまう。人の運動コントロールの仕組みは、まだよく分からない所があるから、脳性運動障害に対するアプローチには様々な誤解が存在している可能性が高い。
 それでは脳性運動障害者は、何を訓練室のおみやげとして持って帰れるのだろうか。多くのセラピストが、「脳性運動障害者は、訓練室からあまりおみやげを持って帰っていない」と考え始めているようだ。訓練室内で起きた運動変化が、おみやげとして持って帰れないことに気づき始めている。
 それである人達は訓練室を捨てて、地域へ出始めている。またある人たちは、還元主義的なアプローチを捨てて、従来からある全体的なアプローチ、たとえばレクリエーションやゲームなどの見直しを始めている。しかしながらここで考えてきたのは、脳性運動障害者が、まさに訓練室からたくさんのおみやげを持って帰れるようにはどうしたら良いのかということである。そのための運動システムの理解である。
 もっとも今だからそう書くのであって、そもそも最初に何を書こうと思っていたのか、もう忘れてしまった。


おわりに
 「実用」と銘打ちながら、具体的なアイデアが何も提出できなかったのは残念である。今振り返ってみると、人にアイデアを伝えるなどといいながら、結局自分が未知のアイデアを理解するためだけに書き続けてきたような気もする。学生に語り掛けながら、実は自分自身に問いかけていただけなのかもしれない。しかも新しいアイデアを理解したいと願いつつ、いつまでも古い思考の枠組みに捉えられている自分が見えてきてがっかりもした。

 脳性運動障害者は訓練室から何を訓練効果として持って帰れるのだろうか。いつかこのリストを作ってみようと思いながら、とうとう最終回になってしまった。そのほかにも書き残したアイデアはたくさんある。中途半端な意見の表明に終わったものもたくさんある。このまま書き続けたい気もするが、前の内容を意識しながら、新たに書き続けるのは結構苦痛なのである。この2年間で私のアイデアはずいぶん変化している。それで中途半端なまま放り出す結果になってしまった。
 こんな勝手気ままな振る舞いを、長い間許してくださったばかりか、いつも励まし、ご指導をいただいた上田先生には心から感謝すると共に、こんな終わり方をして本当に申し訳なく思います。また塩谷先生その他の編集に携わった方々には本当に迷惑をおかけしました。ごめんなさい。いつも励ましてくれる藤原先生やいろいろな感想や意見を送っていただいた方々、学生さん、ありがとうございます。貴重な資料を驚くほどたくさん送っていただいた東京大学の佐々木正人先生にも本当に感謝します。
 それではまたいつかこのような機会がございましたら・・・・


付録 その1 私の思想史
 最初の頃、複雑な現象がたった1つの原因によって起こっているはずがないというのが、私の出発点であった。複雑な現象にはたくさんの原因が存在する。それぞれの原因が他と影響しあいながら作用するから、現象は複雑な様相を示すのであるというのが、私のシステム理論の出発点であった。そういうわけで「表面的にどんなに複雑な様相を呈していても、世の中の現象はいくつかの重要な原因に還元できる」とする還元主義を攻撃したのである。
 この辺り、原因の数と複雑さが比例しているわけで、「相互関係」という言葉を使いながらも「関係」にはあまり関心がいっていなかったのである。システム理論では構成要素やその振る舞いではなく、あくまでもその構成要素間の関係に焦点が当てられるべきだった。
 またシステムの捉え方もそうである。システムはずっと構造的に捉えるというところからなかなか抜け出せなかったのだ。たとえば人の運動システムは、皮膚によって遮られた内部にあると考えられた。それがある日いきなりシステムを機能で捉えようと言う視点が自分の中にできてしまった。自分の価値観が大きく変わっていくのを実感できたものである。
 また因果関係論というのをずっと、思考の根本に置いてきたような気がする。因果関係論以外のものの見方について今回やっと目が開き始めたようである。ずいぶん時間がかかるものである。


付録 その2 告白
 正直言って初期の親父の振る舞いの描写には誇張がある。横歩きをするところだ(還元主義その1)。それは横歩きという表現があまり相応しくないような斜め歩きだった。鮮やかな運動変化を印象づけたくて、わざとあんな風に書いてしまった。もう一点、「学生さんの手足におもりをつけると、共同屈曲パターンや片麻痺歩行が鮮やかに出現してしまう」というところだが、他の学生でやってみると実に様々なパターンが出てしまう。片麻痺患者に似たパターンも出るが、それ以外のものも良く出てくる。思うに最初に協力してくれた学生さんは、カオス研究会の熱心なメンバーであり、僕の意図を察してしまったのかもしれない。無意識にしろ、僕を喜ばせたくてそんな振る舞いをしてくれたのかもしれないと考えている。早く訂正しておくべきだった。
 なぜこんなことを書く気になったかというと、ある日女房が親父に向かって「おじいちゃんのことをいつも幸敏さんが書いている」といった話をしたのである。もちろん最初から、親父には了解を取って書いているのだが、その時親父はいつになくまじめな顔で、「何を書いてもええが、嘘は書くなよ」と言ったのである。それで告白をする気になったのだ。ごめんなさい。


付録 その3 全人間的アプローチ
 多くの理学療法士、作業療法士は脳性運動障害にアプローチするときに、「中枢神経系を相手にするのだ」といったイメージを持っている。というのは、今脳性運動障害者に対する主流のアプローチである神経生理学的アプローチでは、筋肉や関節、皮膚、行動の変化を改善するよりは、神経系の構造あるいは機能自体を改善することが目標だからである。筋肉や関節、皮膚、行動が変化するのは中枢神経系傷害から二次的に生じる問題と考えられているからだ。
 ところがこれだけでは駄目だというのは誰にもわかっているわけで、それを補うように「全人間的アプローチ」などと言うあやふやな言葉が使われる。中枢神経系にアプローチというやたら要素還元的なやり方と全人間的アプローチというどこか得体の知れない全体論。一方で人を機械的に扱いながら、もう一方では怪しげなスローガン。
 ところがシステム理論では、人を人として扱うことと人の運動変化を起こすことは一致している。システム理論では中枢神経系も筋骨も知能や意欲や情動も環境も分かちがたいものなので、最初っから全人間的アプローチなどというあやふやな言葉は必要ないのである。



今回の引用文献等
<因果関係論>
・因果関係論によらない現象変化の説明
→稲荷山医療福祉センターの三村さんからのファックス。
・ビアが自動車の例を扱っている・・・
→H.R.マトゥラーナ: オートポイエーシス-生命システムとはなにか. 序文(河本英夫訳), 国文社, 1991.
<オートポイエーシス>
→河本英夫: オートポイエーシス-第三世代システム. 青土社. 1995.
→H.R.マトゥラーナ: オートポイエーシス-生命システムとはなにか. (河本英夫訳), 国文社, 1991.
<運動変化 その6>
・④人の運動の過程は無意識に行わなければならない。
→河本英夫: オートポイエーシス-第三世代システム. 青土社. 1995.
・見た目には同じような頸の回旋運動も、人によっては異なった筋肉が使われる。
→Keshner EA: How theoretical framework biases evaluation and treatment. (ed. by Lister MJ): Contemporary Management of Motor Control Problems. Proceedings of the IISTEP Conference. FOUNDATION FOR PHYSICAL THERAPY, Virginia, 1991, pp37-47.