Camrer(カムラー; CAMRを行う者) 第1話「不使用スキルの虚実」

Camrer(カムラー; CAMRを行う者)
第1話 不使用スキルの虚実
 僕の名前は一郎。理学療法士になって3年目。介護老人保健施設で働いている。
 祐子さん、78歳。右上腕骨頸部骨折。僕が今日から担当する新しい利用者さんだ。骨折は3ヶ月前。近隣の病院で保存療法で3ヶ月を過ごし、真心園にやってきた。穏やかな笑顔と物腰。認知症もなく、リハビリにも積極的の様子。「楽しく仕事ができそう」と僕は心の中でつぶやいた。
 早速挨拶して、お話を伺う。
僕「お体はどんなご様子ですか?」
祐子「こっちの手が動かないんです。」と左手で自身の動かない右手を指し示す。
僕「なるほど・・・動く範囲で構わないので動かしていただけますか?」
 「はい」と答えて祐子さんは体の横でぶら下がった右腕を持ち上げようとする。
 右の肩甲骨が不自然に挙上し、右腕は少し曲がって硬くなったままわずかに持ち上がる。祐子の表情は必死だ。僕は軽く手を添えてその動きを手伝ってみる。それが精一杯の様子。
僕「良いですよ。下ろしましょう」
 祐子の腕から急に力が抜け、少し上がった腕が急激に落ちる。そして「痛っ!」という小さな声が祐子の口から漏れる。
僕「あ、大丈夫ですか?筋肉の力がだいぶ弱っていますね。前の病院ではどんなリハビリを受けましたか?」
祐子「後半は先生が指や手首を動かしたり。でも最初のうちは手が腫れて触れられるだけでも痛かったのよ。だから最初の間は腕を吊って動かさないようにしてたの。ともかく痛くて痛くて。だから始めはリハビリもほとんど何もできなかったのよ。“やめてーっ”て感じ。今はそうでもないけど」
僕「ああ、それで長い間腕を動かさなかったのですね」
祐子「ええ」

 僕はその後も聞き取りと観察を行う。歩くことは問題なかった。右腕は全く使わずにぶら下がったような状態ではあるが、日常生活は左腕一本でほぼ自立していた・・・そしてその日のセッションが終わる。
僕「どうも。今日は痛いのに色々やっていただいてありがとうございます。だいたいの状態がわかりましたので、明日からのプログラムを考えてみますね。ではまた明日」
 祐子も挨拶をして居室に帰って行かれる。

 休之介さんが笑いながら近づいてきた。
休之介「良い仕事っぷりだよ。なかなか板についてきたね。」
僕「ありがとうございます。休之介さんの指導のおかげです。ところでひどい廃用だと思います、彼女の右腕。前の病院のリハビリも他動運動が主だったみたいで。うちでやってるみたいに痛みのない運動課題を見つけてやってあげるべきだと思います。」
休之介「ふむ、そうだね・・・確かに廃用だけどね・・・少し視点が違うんだけど"不使用スキル"が問題かな?」
僕「えっ、不使用スキル?なんですか、それ・・・」
休之介「見たところ、彼女はかなり痛みを恐れるタイプだね。だから痛みをできるだけ避けようとして右腕を使わなくなったんだと思うよ。」
僕「ええ、痛いから使わなかったんですよね。その結果、廃用になった。」
休之介「少し違う。痛みがあっても“使う”人もいれば、痛みという問題に対して積極的に“使わない”という解決法を取る方もいる。」
僕「どちらも廃用という結果に終わるのでは?」
休之介「うん、ああ・・・まあ気にしないで・・・ところでどんな治療計画を?」
僕「うーん、痛みを恐れるという印象は僕も持ちました。だからまず“マニュアル・セラピーなどを利用して痛みのない可動域改善”が一つ目。それから“右上肢全体の筋力強化を図るためにやはり痛みの起きない運動課題を探して、その種類を増やしたり強度を増していくこと”が二つ目。そしてそれを日常生活課題を通して“機能的な活動に結びつける”が三つ目・・・あと、“全身の筋力・持久力を積み重ねて生活を送る上で十分な運動余力”をつけるというところでしょうか?」
休之介「うん、良いね!さすがだっ!」と言うと、くるっと背中を向けて去って行く。

 休之介さんは理学療法士30年のベテランだ。4ヶ月前からパート職員としてうちで働いている。経験豊富なのでセラピスト兼若手の教育係だ。
 おおむね良い指導者だし、彼のアドバイスは実際勉強になる。休之介さんが来てから、これまで教わらなかったことを教わった。患者さんとの関係作りのための「足場作り」の技術。患者さんの運動変化の可能性とその方法を探すための状況評価の技術。運動余力を高めるための課題設定の技術などなど・・・
 でもちょっと変わっているといえば変わっている。今まで聞いたことがないような言葉やアイデアを平気で言ってくる。先ほどの「不使用スキル」が良い例で、中途半端な説明で煙に巻かれたような気がしてくる。
 「おいおい、いい加減にしてくれよ・・・」振り向くといつの間にか大介さんが渋い顔で立っていた。
大介「また訳のわかんないこと仰ってるね、休之介の旦那。“不使用スキル”だって?こじつけも良いところだよ。右上肢の廃用に意味ありそうな名前をつけて喜んでるだけさ。勘弁して欲しいよ!」

 大介さんは経験10年目の理学療法士。隠すまでもなく休之介さんを嫌っている。
 8ヶ月前、主任の昭さんが休之介さんをパートのセラピスト兼若手の教育係として引っ張ってきた。そしていつのまにか大介さんは休之介さんを嫌うようになっていた。
 最近になって漸く大介さんが休之介さんのことを嫌う理由がはっきりとしてきた。それは休之介さんのアプローチが僕たちが学校で習ったものとは大きく異なっていることだ。大介さんの教えや考え方は学校の延長だ。彼にしてみれば僕たちに指導してきたことを、休之介さんが否定しているように思えるのだろう。
大介「休之介さんの言っていることは科学的根拠がない。空想的で偏見に満ちている。僕たち理学療法士の行うべきことは、根拠に基づいた理学療法を行うことだ。経験がいくらあるのか知らないが、従来の根拠ある理学療法を軽視するような態度は許せない」というのが大まかな大介さんの主張である。

 対して休之介さんは大介さんのことを気にしていないように見える。本当のところはわからない。
 僕も困ってしまう。大介さんは良い先輩だ。これまでも色々指導してもらっている。この3年間で何とか仕事ができるようになったのは大介さんのおかげだ。親分肌でいろいろと世話を焼いてくれる。利用者さん達の評判も良い。
 休之介さんも良い人だと思う。なんて言うか、言葉に皮肉や悪口がない。良いことはすぐに褒めてくれるし認めてくれる。理学療法士としてのアドバイスも、これまで聞いたことがないようなことばかりで新鮮で刺激がある。
 でもいつも大介さんは敵意むき出しで休之介さんに敵対するので、僕を含めて若手のスタッフはどうすれば良いのかわからなくなる。二人が一緒にいるときは僕たちはその間でいつもピリピリするし、曖昧な態度をとってしまう。

 さて、2週間も訓練を続けるうちに祐子さんの右上肢は大きく変化してきた。肘は60度近くまで曲げられるし、肩関節も座位で50度まで曲がり、その位置で保持ができるようになっていた。
 でも気になることも。僕が手伝って痛みの出ないぎりぎりまで屈曲してもらい、そこで保持してもらうのだが、「はい、下ろしましょう」というとストンと力が抜けて腕が落ちて痛みを訴えられる。だから毎回「力を入れたまま下ろしましょう」などといちいち指示する必要がある。
 更に気になるのは、動くようになった右上肢をできるだけ普段から使うように運動課題なども指示していて実際に熱心に行われているのだが、日常生活動作では左手中心に行って、相変わらず、患側には力を入れないでだらんとぶら下げたままなのである。
 「不使用スキル」という2週間前の休之介さんの言葉が浮かび上がってくる。上肢は運動能力としてはだいぶ動くようになってきたのに、確かに祐子さんはそれを使おうとしていないと感じる。何かモヤモヤする。休之介さんに相談したいが、大介さんのことが気になる・・・いや、むしろ両者の意見を聞いてみたい。その上で自分で判断してみたい。 

 リハビリ部では毎日、夕方の30分間に簡単なカンファレンスを行うことになっている。そこでは利用者さんの悩みや気付きなどを話し合うことになっている。その日はパートの休之介さんは休みだったので大介さんが中心だった。そこで僕は祐子さんの話を持ち出した。
 休之介さんに相談すると大介さんが怒るが、大介さんに相談しても休之介さんは気にしていない様子だ。ここら辺が大きなポイントで、大介さんに公に相談するのは気楽だったから。
 祐子さんの状態をざっと話してから、
僕「祐子さんなんですけど、確かに動かせないんじゃなくて“使おうとしない”のだと思います。」と言った。
大介「ははあ、休之介さんにだいぶん毒されてるな・・・」
 僕は焦って頬の辺りが熱くなった。
大介「別に気にすることじゃないよ。今は可動域も筋力も中途半端なんじゃない?この程度の動きだと生活上でまだ意味のある活動があまりできないんじゃないかな?もっと大きな運動範囲や余裕のある筋力改善が得られないとなかなか日常の機能的改善には結びつかないことはよくあるよ。運動能力の改善がまだ機能的改善を起こす閾値(いきち)に達していないんだと思うよ。」
僕「おお、なるほど・・・」
 とは言ったものの、それほど簡単ではないと思う。以前の僕なら簡単に大介さんの言葉に納得したと思う。でもやはり休之介さんから学んできたことも大きい。これまでとは違った視点から見ると同じ現象が全く異なって見えるのだ。
 それに3年も理学療法士を続けていると身体の基本的運動能力を上げて機能的改善が起こるかどうかが少しずつ感じとしてわかってくる。大介さんの言うこともわかるし、かといってそれにどう反論して良いかわからないもどかしさにモヤモヤしてしまう・・・

 翌朝、出勤してきた休之介さんを捕まえて、昨日のカンファレンスの話を伝えた。休之介さんは僕の話に耳を傾けた後言った。
休之介「まず、大介君の言っていることをどう思う?」
僕「運動能力を上げることは大事だと思います。可動域や筋力が増えれば課題達成のための運動スキルはより多様になるんでしたよね。そうするとさまざまな状況下での課題達成の選択肢が増えることになる・・・」
休之介「その通り。だから大介君の言うとおり、今以上に可動域や筋力の改善を目指すことは必須だね。ただ一方でそれだけを見ていると、それは機械の修理と同じことになってしまう。」
僕「機械の修理?」
休之介「そう。時計が止まるとするよ。そうすると原因となる部品を修理したり交換したりすることになる。つまりその部品に要求される働きや性能を満たしてあげればまた時計全体が動き出すことになる。機械ではやるべきこと自体は単純なもんだろう?
 機械の一つ一つの部品は最初からシステムの中での働きや要求される性能が定まっていて、それさえ満たせばまた全体は上手く作動を始めるよね。ところが人の運動システムは作動の原理が全く異なるんだよ。
 たとえば右下肢にマヒが出てしまう。ロボットだとそれで歩けなくなってしまう。ところが人の運動システムでは、両上肢と杖を使って歩いてしまう。機械では最初から各部品の働きは決まっているけど、人では各部品の働きは状況によってドンドン変化してしまう。だから作動を止めることはないし、課題をそれまでとは全く異なった方法で達成してしまう。
 祐子さんがそうだろう。右手を使わなくなっても左手が役割を変えて何とか課題を達成してしまう。もうすでに日常生活における課題達成の新しいスキルが自動化しているわけさ。そうすると単純に右手の性能が上がってもなかなか元通りにはならないというわけだよ。
 最初の痛みのひどい時期、彼女は筋を収縮させないことで痛みを避けるという解決法を見つけた。それでかなり成功したんだね。痛みをできるだけ避けることができた。そしてその手続きが自動化される。
 人の運動システムでは有効なスキルは常に自動化される。彼女にとっては痛みを避けることが一番の目標。それが“不使用スキル”で彼女の運動システムは積極的に不使用スキルを繰り返し使うようになった。」
 休之介さんは話しながら紙に鉛筆でさらさらと図を描いて示した。



 「痛みを避けるため右手を使わない」→「左手での課題達成→自動化」→「右手を使わず、使おうとすると痛み」→「痛みを避けるため・・・」と悪循環を描いていることがわかる。
休之介「また左手で不器用ながらも日常生活課題を達成できるようになって、それを繰り返すうちに、左手での課題達成はドンドン熟練していく。それぞれの身体部位がそれまでの役割を変えて新しい役割をすることに熟練し、自動化したんだね。
 この悪循環が不使用スキルによって生み出された悪循環だよ。そうすると単純に右手の能力が上がってもなかなか元通りにはならないというわけだよ。」
僕「と言うことは・・・不使用スキルの自動化のために祐子さんは右手の能力が上がってもそれだけでは使うことにならないということですか?」
休之介「祐子さんが右手に再び価値を見いだすのは思った以上にしんどい作業なんだよ。そうだ、一郎君はピアノ弾ける?英会話はできる?」
僕「いえ、どちらも全然ダメです。どちらもできるようになると良いなとは思ってるんですけど」
休之介「そうだよね。どちらもある程度できる能力は持ってるだろうし、できることに価値があることもわかっている。そのために日々のやること自体もそんなに難しいことでもない。でもいざ取りかかると面倒だってわかるし、大変なこともわかる。だからやろうとしない。それを実施するにはとても強い意志とそれを継続する状況が必要な訳。
 祐子さんの右手は今そんな状態さ。右手を使うことには価値があると頭ではわかっていても、なかなか踏み切れない状態、あるいは踏み切ってもすぐに嫌になってやめている状態だよね。今は左手でもっと楽に課題を達成しているからね。」
僕「じゃあ、僕はどうしたら良いんでしょうか?」
休之介「そうだな・・・一つ強力な手段で『健側拘束法』というのがあるよ」
僕「健側拘束法?」

 僕はその日の訓練セッションで祐子さんに「健側拘束法」を説明してみた。
僕「祐子さん、『健側拘束法』というのがあって、このやり方だと祐子さんの右手もかなり動くことが期待できるみたいなんです」
祐子「え、どんな方法?」祐子さんの顔が輝く。
僕「良い方の手を三角巾などで包んで使わないようにして、日常生活、たとえば1日何時間か過ごすとか訓練を行います」
祐子「あら・・・この動かない右手だけで生活するなんて無理よ」
僕「右手は祐子さんが思っている以上に動く力を持ってますよ。このまま使わないのはもったいないと思うんですよね。これからどうですか?少し試してみましょうよ。無理だと思ったらやらなくて良いので・・・」
 僕は三角巾を見せた。祐子さんは渋々と三角巾を良く動く左手に装着させてくれた。しばらくスプーンを持ったりトイレに行ってみたりしたが、どれもすぐには達成できそうにない。
祐子「無理無理無理!これじゃ何もできない!ダメよ、ダメ!」
 祐子さんが健側拘束法を拒否するのは想定内だ。健側拘束法を実施するには強い意志が必要だ。今朝話を聞いたとき僕は祐子さんには無理だろうと思ったし休之介さんも同意見だった。
休之介「祐子さんのように痛みを避けるために極端に使わなくなる方にはなかなか厳しいアプローチだと思うよ。でも一応、提案だけはしてみて。ダメでもがっかりした顔をしちゃダメだよ。『別の方法を考えてみます』と明るく答えると良いよ」
僕「別の方法ってあるんですか?」
休之介「CAMRの考え方だと、人は生まれながらの問題解決者であり、課題達成者だよ。でも今は祐子さんは不使用スキルの袋小路に入って抜け出せない状態だよね。この袋小路から一人で抜け出すのは不可能に近い。だから何かこの状況を変化させて袋小路を壊してあげると、また自ら異なったシステムの作動を始めると思うんだ・・・そのためには・・・もう一度よく観察することだね。CAMRの基本だけど、状況変化を起こせるために利用できそうなリソースを探してみると良いよ。」
 僕は祐子さんが断っても明るく「大丈夫、他の方法を考えてみます」と答えて、セッションを終了した。でも内心ひどくがっかりしていた。健側拘束法の話を聞いたときはとても良い方法にも思えた。また今さら観察なんてしてなんかの役に立つんだろうかとも思った。今さら祐子さんで新たなリソースの発見があるとも思えない。

 その日の午後、休之介さんがあわてて近づいてきた。顔がほんのりと紅潮している。休之介さんが珍しく興奮している。
休之介「一郎君、今時間ある?」
僕「ええ、少しなら大丈夫です。今おやつの時間だし・・・」
休之介「おいで!」と僕を手招きし、やってきた廊下を戻っていく。僕は慌ててあとを追う。
 と、廊下の向こうはしに祐子さんと孫娘の由美さんの後ろ姿が見えた。由美さんは大学生でよく祐子さんを訪ねてくる。二人はとても仲良しだ。祐子さんの良い方の手を繋いで二人で楽しそうに手を振りながら歩いている・・・・休之介さんが指さした。 突然何かが僕の中に閃いた!
 僕は休之介さんに頷いて、二人の後を追って歩いた。二人は居室に入った。話し声が聞こえる。僕は居室のドアの側にそっとたたずんで、メモを見る振りをして二人の会話を盗み聞くことに集中した。
由美「はい、上着を脱いで。そっとよ、そっと・・・うん、痛くなかった?大丈夫?」
 僕は先ほど何が閃いたのかがわかった。
僕「うん、由美さんこそが悪循環を断ち切るリソースなのだっ!」
 僕は急いで休之介さんの元に戻った。「確かに祐子さんがリソースになるかも!」と二人の会話を伝えて言った。
休之介「そうだね。時間がないからこの件は僕に任してもらっても良いかな?」

 僕は頷いた。実際すぐに何をどうしたら良いのかはわからなかった。また時間がないというのもよくわからなかった。ともかく僕は休之介さんの後について由美さんを探した。由美さんはちょうど帰るところで、玄関まで一人で来ていた。
 休之介さんが話しかけた。
休之介「今、お時間は大丈夫ですか?実はおばあちゃんの祐子さんの訓練のことで相談があって・・・」
 由美さんの顔に緊張が走る・・・
休之介「一郎君から聞いています。いつも祐子さんを大事にされていますね。とてもお優しい家族だと聞いています。」
 由美さんの表情が緩む。由美「ええ、さみしがり屋だからできるだけ時間が空いたら顔を見せるようにしています。」
休之介「お優しいです!なかなかできることではありませんよ。」
由美「いえ、そんなことはないです!」照れてはいるがきっぱりと否定した。
休之介「ところで訓練の件なんですが、祐子さんの右腕なんですがだいぶ動くようになられたのでそろそろ次のステージに移ろうと思うんです。これまでは痛みが出ないようにご家族にも大事に接していただいていて、とても上手に対応されていたと思います。でも次のステージではこれまでとは逆に、ドンドン使っていただくことになります。そこで最初の提案なんですが、今度から二人で散歩に行かれるときは、祐子さんの悪い方の手を繋いで歩いていただけませんか?」
由美「えっ、大丈夫なんですか?」
休之介「大丈夫です。担当セラピストの一郎君とも話したのですが、もう十分その準備ができています。むしろ次の段階ではドンドン使うことによってますます良くなりますよ!」

 祐子さんの不使用スキルを強めていたのは、痛みを恐れる祐子さんの恐怖だけでなく、由美さんやその家族のおばあちゃんに対する態度にもあったのだ。痛みのある腕を大事にしすぎて、使わない傾向をさらに強めていたわけだ。
 僕は休之介さんの手際に感動した。僕だったら「不使用による廃用の原因は家族にもある」みたいなことを口走って家族を非難していたかもしれない。休之介さんは「祐子さんが悪い方の手を使わない、家族も使わせないのは、セラピスト側の指示による」という風に状況を説明をして見せたわけだ。
 その後由美さんは祐子さんが右上肢を積極的に使うように励まし、それに応えるように祐子さんも使い始めた。祐子さんと由美さんは小さな成功を繰り返しては次第に積極的になられ、以前拒否された健側拘束法を訓練時間内でも行うことを自ら提案された。僕は「健側を三角巾で止めて更衣動作やトイレ動作の練習」を実施した。良くなるための強い意志とそれを維持する状況が作られたわけだ。
 2週間後には右手でお茶碗を持って食事したり、マグカップを右手で飲むことが可能になった。その後も祐子さんのできることはドンドン増えていき、二人の大喜びされる笑顔がとても印象に残った。


Camrer(カムラー; CAMRを行うもの)「第1話 不使用スキルの虚実」の簡単解説
 CAMR(カムル)では、人の運動システムの基本的作動とは、「常に人にとって必要な課題を達成するために問題を解決しながら課題達成を目指すこと」であると考えます。
 だから運動システムにマヒや痛み、その他の問題が起きると、それを甘んじて受け入れるだけではなく、その時・その場でできる範囲で問題を解決しようとするし、解決を図りながら課題を達成しようとします。
 「不使用スキル」は痛みを防ぐために使わなくなります。あるいは片マヒなどで弛緩した下肢で立とうとすると倒れてしまうので、できるだけ患側下肢を使わないで健側下肢で立とうとするときなどに見られます。つまり問題が発生するものを「使わない」ということが問題解決であり、それによって課題を達成しようとするのです。
 実際このスキルは他のさまざまや病気や障害などで見られます。これを単に傷病の結果の「症状」と捉えるか、「システムの問題解決」と捉えるかでアプローチは随分変わってきます。
 祐子さんが患側上肢を使わない状態を、大介さんは「廃用の症状」と捉えたのに対して休之介さんは「使わないというスキルが自動化されたもの」というふうにシステムの問題解決として理解したので、その状況を変化させるためのアプローチが必要と考えた訳です。